オマさんと演奏した後は、どんなジャズを聞いても聴こえ方が違いました by 森田修史(サックス・プレイヤー)

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Text by Shuji Morita 森田修史

オマさん、

いつもオマさんと演奏した夜のあとは、どんなジャズを聞いても、聴こえ方が違いました。ジャズの場がそのまま完全な臨場感を持って聴こえ、CDのむこうにいるグレイトなミュージシャン達の言っている言葉が理解できる気がする。それはそのままオマさんの作り出していた場がジャズそのものだったという事でしょう、オマさんのいるステージは言葉にできない何かが完全に普通と違っていました。

最初は、20代のころ当時一緒にやっていたピアノの丈青やギターの長山剛士がオマさんのメンバーになり、そのバンド”オマサウンド”でオマさんの音を初めて聴き衝撃を受けました。めちゃくちゃオシャレで、なおかつ心のど真ん中を鷲掴みにされる、本物のジャズ。自分の音楽に何か突破口を見つけたいとすがるようにアケタの店のライブに遊びに行くたびに「おい、ちょっと遊んでみるか」と吹かせてくれて、気が付いたらバンドに入れてくれ、丁寧に心構えから教えてくれました。

「今日はよかったと思った日はうまくなった日、今日はダメだったと思った日は耳がよくなった日」
「ハンコックなんかとセッションで一緒になっても、自分のここ(心臓の場所を叩く)には自分にしかないものがあるって信じてやったら」うまくいった話や、「なにしろうまくなんなきゃダメだからな」「自分で感動して弾いてないとお客さんも感動させられないからな」シンプルかつその通りでしかない言葉も不滅ですが、本当の凄さは言葉にならないところにあって、本物のジャズを知っている事、そしてそれを本当に全身全霊で愛していた事だったと思います。時々ドン・バヤシやタレンティン(とオマさんは発音した)のモノマネをしてくれた時の臨場感は今でも思い出すだけでインスパイアされます。ジャズで一番大事な部分、レコードではどうしても無理で生でしか伝わらない部分がオマさんを通じて伝わってくるのでした。

オマサウンドでは譜面は一切使わず、全て口伝でした。新曲も、オマさんがアイデアを思いついたときに「ちょっと、これ弾いてみて」といってピッコロベースで何度も弾いてくれて、それをそのままその場で何度もなぞって覚えて、それがそのまま曲になっていくというスタイルでした。それがそのお手本が弾いているうちにその場で変わっていってしまってメンバーで四苦八苦しているうちにどんどんまたアレンジが変わっていく、というのがオマサウンドならではで、面白いサウンドになった秘訣でもあったと思います。

当時のオマサウンドのステージ構成はオマさんのピッコロベースのメロディをフィーチャーした曲に、メンバーそれぞれを活かした早いテンポのリズム・チューンが続き、そしてオマさんがダブルベースを弾いてジャズ・スタンダード、という流れが多かったですが、ピッコロベースの神業のようなリズムとうねるメロディーライン、骨髄にまで響く音抜けの良さはいまだに身体に感覚として残っています。しかし未だにその秘密は自分には解けません。当時のメンバー皆で真似をしてみようとするのですが、似てるところまでは行きますが誰にもできません。楽器も違うし当たり前の話ですがそれだけではなくて、それこそオマさんだけの天才の領域なのだと思います。でもメンバー皆それぞれそれを通じてどんどん凄くなっていくのが驚きでもあり、特別な時間でした。

オマさんのダブルベースと演奏する時は、ここ一番という所で必ず外してくるので、そこでこちらがベースに寄りかかっているとこけて共倒れになってしまい、オマさんのここ一番のおいしい部分も活きない。本当に全てを理解して自由自在に遊べる境地にいないとうまくいかないと感じて当時はオマサウンドの上級編のようだと難しく感じました。でも、今から思えばそれこそがジャズの基本的な部分であり、一番面白いところでもあり、それをいきなりではなく、少しずつ体験させてくれていたのでした。

バンドメンバーとしての期間が長くなりオマサウンドの旅が深まるにつれてオマさんの言葉も個人的な核心をついてきて、厳しい言葉をたくさんかけられるようになりました。自分には当時それを虚心で受け止めきる力が無く、その言葉の本当の意味も理解できなかった事は恥ずかしいです。当時自分の現状を否定するその言葉が引き起こす痛みを忘れようとあれやこれやの脇道に逸れていった結果、結局自分の心を本当に満足させる物には出会わず、結局間違いに気づいて元の道に戻ってきた時には、あれほど忘れたかった、雪ぎたかった厳しい言葉の全てをまだどれも忘れていない事に感謝している自分に気づきました。結局、オマさんの的確な言葉は、私が次のステップに脱皮するためにまさに必要不可欠な事を、ピンポイントでシンプルに指示してくれていたのでした。

よく「まだ顎ができてない」と言われましたが、ある時CDに「早くプロの音を」とサインされた時は恥ずかしくて死にそうでした。しかし今では宝物として毎日思い出したいくらいの言葉です。あとは「森田はすぐにバラバラっとフリーみたいに行っちゃうだろ、基本的な事をちゃんと吹けないとダメだよ」とも何度も言われましたが、その言葉の意味も今やっとわかるような気がします。どんなにクラブジャズ的な方面やフリーのインプロビゼーションに天才的な感覚を発揮しても、常にジャズ・スタンダードの表現も本物であり続けたオマさんの音楽理解の独特な深さと鋭さ。

私事になりますが、その後オマサウンドが解散した後、疎遠になっている間に結婚しました。すると人づてにオマさんが「なんで森田は何も言ってこないのかよ〜、そういう事は俺にまず言ってくるべきじゃないかよ〜」と言っていたと聞きました。
オマさんは口は悪いとよく言われたけど、結局ミュージシャン全員を一つの家族のように愛していましたね。厳しさも愛ゆえでした。(愛と言えば、奥様が亡くなられた時、その免許証写真サイズの遺影を楽器の肩の部分にとりつけて、ずっと見えるようにしながら演奏していましたね。本当に愛していたのだと感じました。)

今日、オマさんの最後のギタリストになった小山道之に会いにいったら、コロナ禍の中、オマさんと小山が二人だけでひたすら配信し続けたセッションを見せてくれました。演奏だけでなく喋りや体の動きやアクシデントまでもが奇跡的に完成された即興アートになっている。作為とか邪念なく素の状態がすでに完璧に面白い。思えばオマさんはずっとそうだったのだけど、まったく私の理解の及ばないレベルで天才だったという事をあらためて思いました。そしてその中でももうオマさんが楽器を弾けなくなる寸前の2021年夏の最後のセッションには、最後の最後までとにかくひたすら本気で演奏しつづけたオマさんの姿がそこにあり、音楽的には衰えるなどという事は一切なく、オマさんが自分でいつも言っていたとおり、本当に死ぬまで進化しつづけた姿がそこにありました。最後のWhat a wonderful worldの純度は何と言っていいかわからない。

オマさんとの音の時間のなかで受け取った大きなものをこれから今度は自分が死ぬまでに完全に生かすことは私(たち)の責任だと思います。オマさんが言っていた「俺も40、50くらいまでは何やってるか自分でわかってなかったな〜」という言葉を励みにして、自分も今から死ぬまですべての瞬間を完全に真剣勝負で吹き続けます。

オマさんは愛していた大切なミュージシャンが亡くなるたびに「死んだらおしまいだ」と言って悲しんでいましたが、今頃はきっと安らかにお眠りになるというよりは、もう最速で生まれ変わって新しく始めてるか、さらに向こうの世界に向って突き進んでいるかもしれませんね。

名古屋のラブリーで「またやろうな!」って折角言ってくれたのに、その後コロナや何やかんやを理由に楽器を持って会いにいかなかった事を悔います。(冒頭の写真は2019年7月14日、名古屋ラブリーにて)

でもオマさんの事だからどこでまたひょっこり会えるかもわからないので悔やんでいる暇はないですね。

ありがとうございました。

森田
2022.3.24


森田修史 Shuji Morita
東京生まれ。音楽を愛する家庭に育ち、中学の吹奏楽でサックスを始め東京大学ジャズ研でテナーサックスを手にする。在学中短期渡米、NYハーレムの教会で出会った歌に魂を揺すぶられ帰国。その後Yellow Card Orchestra!等を経て西尾健一(tp)、本田竹広(p)、浅川マキ(vo)、鈴木勲(b)、村上寛(ds)など日本を代表するミュージシャンのバンドでジャズを学びながら全国や海外で演奏。2012年に健康な暮らしを求めて拠点を南信州の阿智村へ移した後はみょうがと稲の自然栽培も手がけつつ、東京や名古屋等にもコンスタントに遠征して演奏を続けている。公式ウェブサイト

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