インプロヴァイザーの立脚地 vol.1 林栄一

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Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Supported by Ryuichi Yoshida 吉田隆一
2022年10月22日(土) 阿佐ヶ谷にてインタビュー

林栄一は、今でこそ唯一無二の音を持つアルトサックス奏者として屹立しているが、その歩みは決して平坦ではなかった。1950年、東京生まれ。ヒット曲やオールディーズなどの洋楽が好きな早熟な小学生は、ラジオの深夜放送でジャズに魅せられる。FEN(極東の米兵向け放送網)では月曜日の深夜12時からジャズの番組があり、マイルス・デイヴィスの演奏する<Round About Midnight>などに接した。本多俊夫(サックス奏者・本多俊之の父)が司会をするAM放送も印象的だったという。

即興演奏を始めた契機

中学生になった林はブラスバンド部に入った。小太鼓をやりたかったのに、アルトサックスをやらされることになる。当時、小太鼓は「女がやるものだ」という偏見が強かった。これが林とアルトサックスとの出逢いである。そして高校2年生のころからジャズを始めようとする。音大に進むつもりで、東京藝大の阪口新(あらた)や大室勇一というクラシックサックスの第一人者に師事して個人レッスンを受けるものの、「ぐれた」。月謝も使い込んでしまった。だが、ジャズはやめなかった。学校から帰宅すると、エリック・ドルフィーやオーネット・コールマンのレコードをかけながら、「めちゃくちゃに吹いていた」。本人いわく「暗い高校時代」だった。

『スイングジャーナル』誌を読んで山下洋輔(ピアノ)のことを知った林は、新宿ピットインに「演奏させてください」と押し掛けた。当時、山下は吉沢元治(ベース)、豊住芳三郎(ドラムス)とトリオを組んでいた。森山威男(ドラムス)が加入し、中村誠一(サックス)とともに有名な第1期山下トリオを結成するのは、豊住が歌手のミッキー・カーチスとともにヨーロッパ・ツアー(1967年)を行うために脱退したあとのことである。

ピットインの隣には天ぷら屋があり、そこが控室だった。学生服の林は、入口にいた吉沢に「学生バンドじゃない」と一喝されても突破し、店内の山下に直談判した。隣にいた音楽評論家の相倉久人がおもしろがり、飛び入りが実現した。山下トリオは毎週日曜日の夜に出演しており(*1)、ファーストセットでスタンダードなんかを演り(林は<酒とバラの日々>を覚えている)、セカンドセットで中村誠一が加わってフリーを演り、さらにサードセットに林が乱入する形。スタンダードなど、まだ演奏できなかった。山下も人気が出始めたころで、毎回数十人くらいの客が入っていた。いまと違って、ヤジを飛ばす者も、絡む者もいた。山下も他の先輩も、林にはアドバイスも何もしなかった。

こうして、山下が肋膜炎の療養のため活動を中断するまでの2、3か月の間、林は毎週ピットインに通った。

雌伏の時代

そんな矢先に、父親が突然脳梗塞で倒れた。生計を立てなければならず、林は場末のキャバレーなどで仕事をはじめた。ジャズだけでなく、ディスコバンドや演歌のバック、高級ホテルのレストランでの演奏など「すべてやった」。

つらいことばかりではなかった。スタンダードもこのときに覚えた。リー・コニッツのようなスタイルも身に着けたし、デイヴィッド・サンボーンの音色が好きで、かれのような音を出そうとした。当時、世界中のサックス奏者がサンボーンに似せた演奏をしていて、ポップスの間奏にもそれらしき音が聴こえてきた。クリス・ハンターのようにサンボーンよりも上手い人はいたが、林にとってはサンボーンほどの魅力は感じられなかった。それに、サンボーンは喉を開くが林は下向きに吹くし、そもそも違う人。サンボーンを追いかけるのは途中であきらめた。それよりは自分に合った奏法や音色を追求することのほうが大事だと気がついた。

シーンへの復帰

山下洋輔の回想によれば、林との再会は飛び入りから14年後の1980年。山下がそのときグループにいた武田和命(サックス)に連れられて荻窪の「イワシの目」というジャズスポットに行ったときのことである。夜中に仕事が終わったプレイヤーたちが入ってきて、そのひとりが林だったという(*2)。だが、実は空白期間にいちどだけ接点があった。1972年に中村誠一がトリオを辞める前、林の家に山下からの電話があった。林は出かけていって、山下、森山とフリーを1、2曲演り、世間話をして別れた。あとになって「あれはオーディションだったのかな」と思い至った。結局、第2期山下トリオのサックス奏者は坂田明となるのだが、林は「坂田さんになって良かったんじゃないのかなと思うよ」と話す。歴史に「たられば」は禁物だが、仮に林が選ばれていたならどうなっていただろうと想像してしまう。

ともあれ、80年の再会を機に、林は小山彰太(ドラムス)、武田との山下トリオに参加することになった(*3)。また数年後には山下に紹介してもらい、富樫雅彦(ドラムス)のトリオのメンバーとして、吉野弘志(ベース)とともに2、3年間共演することとなる(なお、そのあとの富樫トリオのメンバーは広瀬淳二(サックス)と齋藤徹(ベース)である)。

90年には初リーダー作『MAZURU』を出し、その後、日本どころか宇宙を代表するサックス奏者への道を突き進んでゆく。

フリー・インプロヴィゼーションとは

「以前は、曲を演るときとインプロやフリーを演るときとで、スイッチを切り替える感じだった。今は一緒にしようと思っている」と林は言う。スタンダード、モンク、ミンガス、それぞれフォームがあって考えて演るけれど、昔よりも自由に感じたままできるようになった、と。「理論では間違っていてもジャズは気持ちで。それがおもしろいんじゃないのかな」と。この2、3年のことだ。

そんなこともあって、新宿ピットインの平日昼の部で月1回開く「月刊 林栄一」も、すべてフリー・インプロヴィゼーションで演るという条件で引き受けた。共演者は店長が選ぶ。共演したことがない人も、ふだん自由即興を演らない人もいて、「おもしろくなってきた」。たとえば片倉真由子(ピアノ、2021年6月の「月刊 林栄一」でドラムスの竹村一哲とともに共演)は、演奏後に「即興的に作曲していくもの」との印象を口にした。林もなるほどと思った。

だから、林は「即興なんてやめた!なんてことにはならないし、これからは即興だ」と断言する。「自由だし、いろいろな実験をすることができる。」

もちろん曲も同じ地平で演る。そのときにも「自分なりの理論」が必要だと林は言う。意外に感じられるかもしれないが、林はむかしから理論派だった。山下洋輔と演るようになってから音楽理論が大好きになり、独学でさまざまなスケールを考えた。十二音をどう使うか、どのキーを出発点にしたらどのような展開がありうるか。そんなオリジナルなアイデアを書きつけたノートは数十センチもの厚さになった。ディミニッシュ・スケール(全音と半音を交互に繰り返すスケール)もみずから発見したという。アレンジにも興味を持っており、いまは、年末(2022/12/30)に新宿ピットインで行うMAZURU ORCHESTRAのアレンジに頭を悩ませている。

音色も林の演奏の大きな要素だ。2022年9-10月に日本ツアーを行ったリューダス・モツクーナス(サックス)は、林との共演後、かれの演奏について「Voiceだ」と呟いた。独自の音色に対する称賛である。林はこのように言う。「良い音色を出したいし、それは誰かの影響などではないよ。納得する音を出したい。そうしていると自分の音色は変わってゆく。」とはいえ、良いと感じたものは取り入れて自分のものにする。十年近く前に纐纈雅代(サックス)と共演したとき、彼女の音色が魅力的だった。それで林もダブルリップ(上下の唇を歯にかぶせる)のアンブシュアを採用するようになり、いまに至っている。だから、林が自薦する傑作ソロアルバム『音の粒』の音色もいまのものとは違う。

最近の印象的なプレイヤーはと訊くと、林は、「うーん・・・、魚返明未(ピアノ)。高橋佑成(ピアノ)。それにだいぶ長くやっているけど、岩見継吾(ベース)」と答えた。「だけど、みんな上手いし、みんな凄いよ。」

(文中敬称略)

(*1)田中伊佐資監修・新宿ピットイン50年史編纂委員会編『新宿ピットインの50年』(河出書房新社、2015年)
(*2)山下洋輔(林栄一&マズル『MAZURU』ライナーノーツ、1990年)
(*3)山下洋輔『ピアニストに手を出すな!』(新潮社、1984年)に愉快なエピソードがたくさん書かれている。

ディスク紹介(筆者独断の10枚)

 

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』などに寄稿。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

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