坂本龍一さんのこと by 金 利惠(韓国伝統舞踊家)
text by Rihye Kim 金 利惠
坂本龍一さんと初めて会ったのは1984年の秋。
中上健次さん総監修のサムルノリ本格的日本デビュー、芝・増上寺コンサートの初日だった。公演終了後の打ち上げの席で、彼と親交のあった中上さんから紹介された。お二人の対談<音は神、そしていま甦る新たなる異神――韓国放浪芸〝サムルノリ〞のきらめき>が、週刊『朝日ジャーナル』に出たばかりだった。といっても、坂本龍一という人の音楽がどういうものなのか、当時の私はよく知らなかった。1981年から私は韓国で暮らしていたし、彼の音楽に関心があったわけでもなかった。テクノとかシンセサイザ-、コンピューターなどということばが彼の周囲にあって、口ごもるようにしゃべる目の前の彼は、私には未知の世界にいる人、という印象をもっていた。
それから16年経ち、2000年に彼の初めての韓国公演があったとき、ソウルで再会した。
事前のレセプション会場で会った彼はうれしそうに笑って歩み寄り、私たちは握手を交わした。16年前のぼおっと立っていた雰囲気とちがい、なにか意欲的で能動的な様子を感じた。すでにその時には、『ラストエンペラー』でアカデミー賞作曲賞も獲っていたし、韓国にもRYUICHI SAKAMOTOファンはたくさんいて、<芸術の殿堂コンサートホール>は観客で埋まった。終了後、楽屋を訪ね御挨拶をした。
彼がニューヨークに帰国し、1週間ほどたった日、メールが届いた。差出人は坂本龍一。「あのサカモトリュウイチさんが私にイ-メ-ルを!!」。それから、彼と私はメールを交換するようになった。
ずいぶんといろいろなことを私たちは交わした。
彼がアフリカに行ったときのこと、北極圏を訪ねたこと、互いの子どもが10代の終わりか20歳になったばかりの頃はそれぞれの子への心配、中上健次さんのこと、日常のあれこれ、読んだ本のこと、9・11の時は瞬時に現場で撮った写真を何枚も送ってくれた。それに、韓国の伝統音楽のこと、とつぜん男女の遺伝子のこと、韓国の排日運動のこと、歴史のこと、韓国映画やドラマのことや音楽のこと、韓半島統一のこと、食べもののこと・・・、とりとめなく、あれやこれや。ときどき、あるときは毎日、あるいは数カ月空けてふたたび。そんなふうに彼はニューヨークから、日本から、あるいはツアー中の国々から。私はおもにソウル、ときどき日本、ちょっとだけフランス。当初、彼とメール交換していることを友人に話したら、「それ、メール友だち、<メル友>っていうのよ」と教えてくれた。そう、彼と私は<メル友>だったのだ。じっさいに会ったことは数度しかない、私たちは今年で23年来のメル友だった。

2017年の春だった。
「生まれて初めて韓国映画の仕事ができるのでとても嬉しいです」というメールがきた。<南漢山城(日本版タイトル名;天明の城)>という映画の音楽を任されたとのこと。ふだんから彼は韓国映画が大好で、一時は毎晩韓国映画を観ているというほどだった。<南漢山城>の録音作業のためにソウルにやって来た彼と久々に再会もした。その年の秋に映画は封切られた。そして1年後、彼は釜山国際映画祭で<アジア映画人賞>を受賞し、来韓。開幕式でスピーチと演奏をした。生放送の画面に彼の顔が大きく映っていた。
「アンニョンハセヨ チョヌン サカモトリュウイチ ラゴ ハムニダ(こんにちは。ぼくは坂本龍一といいます)。・・・」。一言ずつはっきりと発音した。韓国語の挨拶に会場から拍手が沸いた。練習したんだ、と私は微笑ましく画面を見続けた。そのあと通訳が入って彼は日本語で続けた、「・・・この朝鮮半島にようやく平和が訪れようとしていますが、同じアジア人の一人としてこのうえなく喜んでいます。おめでとう。・・・・異なる考えの人々のあいだに生まれる絆が大事だと思います」
その半年前の4月に南北首脳会談が行われたばかりだった。朝鮮労働党委員長の金正恩委員長と韓国大統領の文在寅が握手を交わし、手をつないで軍事境界線を越え、南北共同宣言を発表した。文大統領は、「韓半島でもうこれ以上戦争は起きない」、と宣言した。その映像をニューヨークで見守っていた彼は、喝采し感動し、熱いメールを送ってくれたりもした。
その歴史的宣言のあった数ヵ月後の韓国でのスピーチだった。韓国内の公の場で彼が何かを語る初めてで、そして最後の場だった。日ごろ社会的メッセ―ジを発信し、環境活動や自らの信条を表明し、時には集会の壇上に立って訴えていることは知っていた。短いけれど、彼らしい、真摯で熱い、真心のこもったスピーチだった。
映像をみた翌日、視ました、ありがとう、と私はメールを送った。すぐに返事が来た。でも・・・。
「・・・・朝鮮半島にとうとう平和が来ようとしている、という部分、会場の雰囲気はそんなに盛り上がるというより、意外にも冷ややかでした。外で感じているよりも、韓国の人はまだ懐疑的で冷静な人が多いのかと感じました。・・・・分断の原因はそもそも日帝統治じゃないか。日本人のお前が白々しく平和などと言うな、という気持ちもあるんじゃないかと思ってみたり。・・・NYから見ている僕たちは本当によかった!と、期待に胸を膨らませていたのですが、、、。」
あの時、スピーチを終え、司会者に演奏を促されて、上手から下手に、広いステージをひとり、横切るように歩いていた彼の姿を思い起こした。黒い服の背中をまっすぐに伸ばし、ゆっくりとピアノのあるところまで、あの長い距離を観衆の眼を一身に浴びながら。歩いていた彼の胸に、「冷たい、なぜ、日本人だから・・、日本人のおまえが・・・」。そのことがぐるぐると巡っていたのだろうか。
大国の脅威に晒され続けてきた朝鮮半島の歴史を、彼のことだ、よく知っていたし、ことに近現代史の日本との関係、そし彼自身がその日本人であることの深い思いを、私は彼とのやり取りのなかで強く感じていた。
彼はピアノの前に座り、鍵盤に指を置き、静かに弾き始めた。『メリー・クリスマス、ミスター・ローレンス』。
そうじゃない、と私は思った。そうじゃない。それをどのように伝えたらいいのだろう。
「冷ややかというより、その会場に集まった人たちの層や類(?)がそうだったのかもしれません。
それに、この世界的ミュージシャンがそのような場でそのような発言をすることに、少し戸惑ったのかも。
他の出演者や関係者のスピーチで南北平和統一に触れた方は、いなかったでしょう。
日本人だけれど、音楽家としてのsakamotoはsakamoto 、と思っているでしょう。
良心的な日本の方はそのあたり非常に心をつかわれます。
会場の人々はそこまで考えていなかったと思います。
そのまま心からの祝福を大らかにお伝えください!
もし何かいってきたら、そのときはそれに応じて、しっかりこたえればいいことです。
龍一さんがさまざまな場で、自分の考えを明らかにし、それに従った行動をとっていることは当日の司会者も説明していました。」
そうですね、そうします。とメールは返ってきた。
深く考え、信念に従って行動し、静かに語る、良心を求める真摯な人だと私は思っていた。私の知っている彼はそういう人だった。
もう10年以上前だったろうか。あるとき、やりとりの中で、「<マイ・ラストソング>は何?」となった。私は『月の砂漠』と書いた。「・・ずいぶんさみしい歌ですね。ぼくは〝ドビュッシーの音楽〞」と彼はこたえた。
坂本龍一さん、あなたに会えてよかった。
ありがとう。
どうぞ、美しい音楽とともにやすらかに。
春満月この世にかれの曲渡り――りえ
韓国伝統舞踊家。東京都武蔵野市出身。フリーライターを経たのち、̀81年に母国の舞を求めて帰国。李梅芳(重要無形文化財>門下に入る。̀82より、結成間もない<サムルノリ(韓国伝統パーカッション・グループ)>の日本初期活動の制作に携わる。韓国重要無形文化財29号・97号履修者。韓舞―『白い道成寺』『望恨歌』『水と花と光と』など公演。一方、ソウルにて俳句に出会い作句を始める。2020年、俳句と舞が出会う舞台『俳舞』発表。エッセイ集『『風の国風の舞』(水曜社)。<藍生俳句会>会員。同人誌『中くらいの友だち』(皓星社)にエッセイ連載中。ソウル在住。
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