JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 12,136 回

R.I.P. ペーター・ブロッツマンNo. 303

「ブレない男の想い出」追悼 ペーター・ブレッツマン by 金野ONNYK吉晃

text by Yoshiaki ONNYK Kinno 金野Onnyk吉晃
photos: from Onnyk’s private collection(「ナムジュン・パイク展」の図版目録より)*口絵は、おそらくブレッツマンのデザインによるナムジュン・パイク展のポスター(’63)

「ブレない男の想い出」追悼 ペーター・ブレッツマン(享年82)

二十歳の私は「フリージャズとフリーミュージック」の差異さえわからず、彷徨していた。前衛、実験、ラディカル、即興、過激というのは同義に近かった。ヘンリー・カウもシュトックハウゼンも一緒くたになっていた。
当時はまだ「壁」によって分断されていた西ベルリンに拠点を置くFMP (Free Music Production)は、1969年に創設され、マイナーシーンの代表的レーベルだった。私はペーター・ブレッツマンはその創始者の一人、かつ欧州を代表するミュージシャンとして噂を聞いていたに過ぎなかった。
80年代に入ってようやく聴いた名作『マシンガン』(FMP0090, 1968年)は、まさに衝撃以外の何物でもなかった。それまで山下洋輔トリオなどを聴いて「これがフリージャズだ、即興だ」と思ってはいたが、ペーター・ブレッツマン・オクテットの冒頭の咆哮を聴いて、山下トリオには和と様式美を覚えた程である。
後に何度かブレッツマンとじっくり話し合う機会を得た。
印象的だったのは「フリージャズはヨーロッパへの問いかけだった。だからそれに対して我々の答えがフリーミュージックだった」という一言だった。これによって私は渾沌としていた両者の差異をはっきりと認識する事になった。この意識を持っていれば真性のフリージャズと、同時期に発生しながらも違う路を辿り、そしてまた合流し、分岐して行くフリーミュージックという観念を納得できる。そしてまた日本のフリージャズ、フリーミュージックの何たるかも。

私は研究者でもないので、彼の軌跡を正確に追う事はできない。しかし盛岡には4回も来てくれた想い出を語る事は出来る。
最初は1982年のICPテンテットだった。ミシャ・メンゲルベルクをリーダーにハン・ベニンク、近藤等則らと共に「ヨーロッパの大砲」はやってきた。この時にはブレッツマンと話した記憶はない。
次に来たのは1984年、サブ豊住とのデュオだった。私はこのとき少し演奏経験を重ねたつもりでいたので無謀にも共演を申し込んだ。ブレッツマンの容赦ないサウンドに圧倒された。そのトリオライブの一部は後にDVDとして発売している(『第五列ボックス』のうちDisk 3に収録)。
そして羽野昌二とまたデュオで来た。このときはバリトンサックスでのプレイが印象に残っている。とにかくよく飲んでいた。そして一番ゆっくり話した時だったように思う。ブラックコーヒーをチェイサーにウィスキーを飲むというやり方を学んだのもこの時で、私はいまだにそれを続けている。娘への土産だと、日本の筆を買いながら、住んでいたヴッパータルの名誉市民に推されたが、ほとんど自宅に居る事も無いとぼやいていた。
そして1996年、彼は単身で盛岡に来た。初めてタロガトーというハンガリーの伝統楽器のソロを聴いた。彼がこの楽器に執心していたのはご存知の通りだ。このとき私のカルテットはフリージャズ的な演奏をしていたが、共演を承諾され、地元のドラマーを気に入って乗り乗りのライブになり、とても喜んでくれた。盛岡来訪はこれが最後になった(その後、今世紀になって県南の一関市の有名ジャズ喫茶「ベイシー」には来ている)。

大ヒットとなったバンド、1986年の<ラスト・エグジット>については今更何も語る必要は無いが、私の周囲でも「こんなの待ってたぜ」とばかり声が上がり、勿論私も小ブレッツマンとしてバンドに参加した。
前述のドラマー二人、そして故近藤さん、坂田明、灰野敬二はじめ、多くの日本人が共演したが、どんな相手でも彼のスタイルは変らなかった。彼のスタイル、それは彼のサウンドそのものだ。それは決して多様性はない。テクニックや華麗なフレージングに走る事も無い。
敢えて言えば、チェストーの薩摩示現流である。兜を割るその破壊力は防ぎきれない。大和の46センチ砲か、列車砲か、というとアナクロに聞こえるだろうか。
『破壊せよ、とアイラーは言った』かどうか定かではないが、創造と破壊の循環はシヴァ神のダンスであり、世界の様相なのだとヒンズー教は教える。
その意味で思い出すのは、60年代初頭、フルクサスに傾倒していたブレッツマンが、ナムジュン・パイクの作品に面している二枚の写真だ。
ケージのネクタイを鋏でちょんぎり、ヴァイオリンをたたき壊す「演奏」をしていたパイク。そんな破壊的ダダイストに、彼が共感するのは尤もな事だろう。
そして破壊の後には創造がある。
ブレッツマンはレギュラーコンボを組む事無く、「犀の角のようにただ独り歩む」ことを選んだ。孤独であるからこそ多くの友を得た。

硬直したユダヤ教を排撃したナザレの人イエスを、黒人預言者アイラーに喩えるならば、海を隔てた大陸でフリージャズに出会ったドイツ人アーティストのブレッツマンを、パウロに見立てるのはどうか。
パウロがキリスト教を世界宗教にしたように、ブレッツマンは、フリージャズをフリーミュージックと書き換えて世界に布教したのだ。
パウロ無くしてキリスト教が語られないように、ブレッツマン無くしてフリーミュージックは語れないだろう。
ペーター・ブレッツマンに栄光あれ!

BROETZMANN SITS IN PAIK’S “PREPARED TOILET”(’63)
ケージの「プリペアド・ピアノ」を応用した?

BROETZMANN TOUCHES PAIK’S “RANDOM ACCESS”(’63)
壁や家具に貼付けられた録音テープを、手に持った再生用ヘッドでこする。

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください