2005年の来日公演と、トリスタン・ホンジンガーさんから教わった事
レコーディング・エンジニア 近藤秀秋
2005年のトリスタン・ホンジンガーの日本ツアーは、新潟での舞台作品「連脈」出演のために来日した、トリスタンと堀川久子さんのスケジュールに合わせて組まれました。舞踏家である堀川さんは故郷新潟での公演を自分でプロデュースしましたが、「音楽の世界は分からないから」と、他の地域での公演を、私、ダンスの向井千恵さん、サックスの松本健一さんの3人に預けました。私はこの時まで堀川さんと面識がなかったので、恐らくジャズ評論家の副島輝人さんあたりが堀川さんに私を紹介して下さった流れであったと思うのですが、なにせ18年も前の事、記憶が曖昧です。
インカス系のフリー・インプロヴィゼーション、セシル・テイラー・アンサンブルへの参加、そして浅川マキさんプロデュースのアルバム『From the Broken World』など、私は若い頃からトリスタンの演奏に触れていました。生意気にも「フリージャズは作曲面が弱く、現代音楽は勢いがない」と思っていた私にとって、そのどちらにも対応できるトリスタン・ホンジンガーは理想的なプレーヤーでした。そう思っている私にしてみれば、トリスタンは雲の上の存在。ドラフト外でプロ野球に入った選手が、イチローや大谷と一緒にプレイするぐらいの緊張感がありました。「恥をかいても良いから学ぶことが出来れば」と、緊張して空港までトリスタンと堀川さんを迎えに行ったのですが、ゲートから出てきたトリスタンは実に気さくで、毒気を抜かれてしまいました。
挨拶もそこそこに、ゲート脇に立ったまま日本でやりたい事の話が始まったのですが、堀川さんが話を打ち切って、喫茶店で打ち合わせをする事になりました。8月末で残暑厳しく、のどが渇いていただろうトリスタンはすぐにドリンクを注文しましたが、私がアイスコーヒーを頼むと「そっちの方がいい」とウェイトレスを呼び止め、片言でオーダーの変更を頼みこんでいたのが、やけに印象に残っています。
そこでの話の大半は、トリスタンが日本でやりたいと言っていたワークショップについてでした。この時、トリスタンは「チェロの教本を書いてみたい」とも言っており、何かを後輩ミュージシャンに伝えたい気持ちがあった時期だったのかも知れません。
ワークショップのコーディネイトを任されていた私は一般公募をせず、セミプロ以上のミュージシャンに声をかける事にしました。90年代末からインプロヴィゼーションに傾斜していた私ではありましたが、トリスタンと会った2005年になると、インプロヴィゼーションを偏重する自分の音楽的態度に疑問を感じ始めていました。最善の音楽が鳴るとして、それは本当に即興演奏の裡で鳴るのか。コンポジションとインプロヴィゼーションの両立を目指すどころか、個人的には一度演奏活動を打ち切って作曲や演奏を学び直さなければならないとすら思い始めていました。
そんな「即興演奏のその先」を思い描いていた時期に組まれたトリスタンのワークショップは、私にとっては「即興を教授いただく」などというものになって貰っては困るもので、既に優れた即興演奏できるメンバーを選ぶ事で、その演奏を「どうするのか」を深めるワークショップにして欲しかったのです。いわば生徒の方から「こういう授業を開いて欲しい」と注文をつけた、少し歪なワークショップになった事は否めません。
実際に、私にとってのトリスタンは、その先の世界を知っている人でした。デレク・ベイリーらと組んでいた頃のトリスタンの演奏の印象が強い人には信じられない話かも知れませんが、トリスタンの参加していたセシル・テイラー・アンサンブルは、たしかにコンポジションとインプロヴィゼーションを演奏のうちに両立させていました。また、方向こそ違いますが、トリスタン自身も『this, that and the other』という音盤を通して、ある種の総合芸術を創り上げていました。
そして開かれたワークショップは、私には素晴らしく感じられるものでした。13人編成が混みあう事なくアンサンブルした即興音楽を聴いた事がある人が、どれだけいるでしょうか。また、40分に及ぶ演奏を9楽章に分ける事で明確なコントラストを生み出し、時間進行上の一貫性は、詩によって保たれました。
トリスタンの演奏も、要所で明確な主題なりフラグメンツを提示するなど、音楽のフォルムを茫洋とさせずに芯を作る技術に長けたものでした。バンド・マスターだから出来た技かもしれませんが、駒となって働いたセシル・テイラー・アンサンブルよりも、トリスタンのインスタント・コンポジション面での音楽的教養が明確にあらわれたアンサンブルかもしれません。
ただ、このワークショップ・アンサンブルを「組織された即興演奏」と受け取ったのは、フリー・インプロヴィゼーション信者となる事を避けたかった私にかかったバイアスかも知れません。無観客のワークショップが終わり、本番前までの休息時間に、ある共演者が「近藤さんのやろうとしている事は即興ではない」と口にしたのが耳に入りました。トリスタンの伝えたかったものは、もう少し違ったものだったのかも知れません。
コーディネイターを複数立てた事で、トリスタンの宿泊先が曖昧になり、何日か私の住むアパートに泊まっていただいた事がありました。コンサートでの共演以上に、この時が私にとっては得難い体験でした。何度も何度も一緒に演奏をして、多くのアドバイスをいただきました。即興そのものに関するノウハウもそうですが、ヴィブラートの使い方といった細かい技術や、アレキサンダー・テクニークのような身体の使い方まで、惜しむ事もなくトリスタンはアドバイスをくれました。その場で楽譜を書いていただいて、その演奏を発展させる事もやりましたが、少し酔ったトリスタンの書く音符は実に読みにくく...。
東京でのワークショップの5日後、トリスタンと私はふたりで新幹線に乗り、盛岡公演に向かいました。サックス奏者のONNYK さんが主宰を引き受けて下さったコンサートで、現地のミュージシャンとの共演でした。この時のパフォーマンスは、ONNYK さんの演奏が素晴らしかった事だけは覚えているのですが、トリスタンや自分の演奏、また音楽全体に関する記憶が曖昧です。ただ、帰りの新幹線でトリスタンに言われた言葉の中に、今も記憶に残っているものがあります。その言葉から察するに、私は普段やってきた「アンサンブルを考える即興演奏」ではなく、身体性の高い、思考を排除した演奏を試みたのかも知れません。それは、アパートでトリスタンから受けたレッスンのひとつでした。
さすがに18年も前の事ですし、英語だったはずなので、正確な言い回しなどはさすがにぼやけてしまっているのですが、その言葉は、おおむねこういうものでした。「近藤、君の演奏は過激すぎる、気負い過ぎだ。音楽は一生をかけて完成させていくものだし、音は隠そうとしても色々なものを表してしまう。気負えば気負った音が出るし、自信がなければ自信のない音になる。音楽を学んでいない人は学んでない音しか出せないし、音楽しかやっていない人は音楽の中でしかものを考えていない音が出る。気負っても前には進まない、一歩ずつ進むしかない。欲張らず、もっと貧しく、謙虚に、これからも音楽に向かってください。」
私はレコーディング・エンジニアでもあるので、デビュー以降は、自分のライヴのほとんどを録音に残していました。こうした録音が、この時のトリスタンとの共演を最後に、突如として無くなります。即興演奏も、人前に出て演奏する事も一度止めたのでした。
音楽家であるというのなら自分で作品を書く事。作品を書く以上は納得できる作品を書けるだけの和声法や作曲技法を学ぶ事。これ以上を望めなくなった演奏を見直し修正する事。そもそも音楽とは何か、そう遠くない未来に死ぬ人間が身を捧げる対象が音楽であって良いのか、これをきちんと検証する事。
トリスタンとの共演の後、私は誰からも望まれていないにも関わらず、自分で勝手に音楽の研究書を書き、作曲ばかりに取り組んで現在に至りますが、こうした活動に入る最後のひと押しは、トリスタン・ホンジンガーさんからいただいた言葉だったかも知れません。
数年後にトリスタンは再度日本に来ましたが、その時には、共演のお誘いを引き受ける事が出来ませんでした。トリスタンに言われた事をまだ果たせていない、自分はあの後に立つべき舞台にあがる権利をまだ持てていない、そう思えたからでした。
この原稿で触れた、2005年のトリスタン・ホンジンガーさんのワークショップ・アンサンブルの音楽を、先ほど動画サイトにアップさせていただきました。いま聴くと、トリスタンだけでなく、日本側のミュージシャンたちの演奏が実に素晴らしいです。トリスタンはヨーロッパだけでなく、東アジアにも重要な足跡を残したのだと私は信じて疑いません。あの時の録音を、トリスタンさんを送る言葉に代えさせていただきます。トリスタンさん、ありがとうございました。(2023.8.25)