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R.I.P. デイヴィッド・サンボーンNo. 314

追悼 デイヴィッド・ サンボーン by 市之瀬 浩盟
泣きのアルトサックス・ソロ

text by Hiroaki Ichinose 市之瀬 浩盟

「泣きのフレーズ」という言葉が日本にはある。

よくロックやブルースのギタリストのソロを褒め称える際こう表現する。ジェフ・ベックやエリック・クラプトン、ゲーリー・ムーア、サンタナやロイ・ブキャナンと枚挙にいとまがない。皆芸風が違うなかで哀愁とか悲嘆とかとも違うし憐憫を乞うわけでも全くないこの言い回し、海外ではどう表現されるのかは知らないが、日本人でないと共感できない実に上手い表現だと感心する。毎年の流行語大賞のような半年もすれば完全に忘れ去られるお軽い言葉とは訳が違う。
大抵ギターソロを引き合いに出して使われる言葉だが、「泣きのアルトサックス・ソロ」の称号を勝ち取ったのがデイヴィット・サンボーンである。

中学生時代に何度も聴いたホール&オーツの「サラ・スマイル」を取り上げた大好きな深町純のニューヨーク・オールスターズでの彼の「泣きのソロ」は自分の中では一生色褪せず失うことのない演奏である。
そんなサンボーンの演奏だがどうしてもクロスオーバー、フュージョン派の人だと思っていた。それはそれで納得していたので他の自作や客演もどれもそういうスタンスで愛聴していた。
そんなデイヴィットへの自分の浅はかな思い込みを根底から覆し、土下座では済まないほど詫びねばならない一枚に出会っている。

『PRIESTESS / Gil Evans』
(rec. May 13, 1977 NYC / Antilles原盤:AN 8717)
https://www.discogs.com/master/334738-Gil-Evans-Priestess



である。
当時短期間ではあったがギル・エヴァンス・オーケストラ在籍時のライブ盤である。高校時代、地元のジャズ喫茶でいきなりかかった。ギルの名前さえ知らなかった当時の”おいちゃん青年”に向けてA面を丸々使ったタイトルチューン冒頭のテーマ合奏後、先発ソリストのデイヴィットがいきなり襲いかかってきた。
最初の一音で撲殺であった。デイヴィットの息がマウスピースの中で膨張したのが分かった。自分はあとは息をしていた記憶がない。すぐさまレコードを買い求め、文字通り穴が開くほど聴いた。1日に何度も聴いたので2、3日ぐらいで独唱する自信はないが、レコードをかけながら一緒にソロを歌えるようになれた。ジャズの名盤に限らず、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」やディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」、ソフト・マシーンの「バンドルズ」など色々のジャンルの名盤に収められた名アドリブソロがそれぞれ一つの「銘スタンダードソロ」にまで昇華した例が多くあるが、私にとってこのソロもその一曲にあたる。

東京での大学生活を始めた年にギル・エヴァンス・オーケストラのライブ公演があり、デイヴィッドも参加、さらにこれがなんとマイルス・デイヴィス・バンドとの入れ替えなしのニコイチ公演であると知り、すぐさまチケットを買った。会場は読売ランド・オープンシアターEAST。両バンド共当時のレギュラー奏者が集った「ガチメン」である。
当日は万感の思いを抱きながら会場へ向かった。ギルのオケでサンボーンがアルトサックスであの泣きのソロを瓏々と奏でる……はずだった。
開場口脇に随分と人だかりがある。近づくと張り紙があり「デイヴィッド・サンボーン急病 (だったか本人都合だったか)により不参加」とあった。目にした者たちは皆一様に残念がった。これも「泣きのソロか」と仕方くあきらめたが、さすがに演奏自体はまさに熱演、当時の帯同メンバーでアルトサックスを勤めるクリス・ハンターもこの大穴を埋める大役を全うし、テナーサックスのジョージ・アダムスに至っては “吹けや歌えや” で座を大いに盛り上げた。
その後は生で聴く機会には恵まれなかったのが今でも残念でならない。

前半がこのギルのオケ、後半がマイルス・デイヴィス・バンドだったのだが、おいちゃん青年にはこちらにもお目当てがいた。
ギタリストのマイク・スターンである。
マイルスのこの社中はいわゆる「カムバック・バンド」と呼ばれているもので81年10月新宿西口広場でのライブの様子はテレビで見た。マイルスの体調はお世辞にもいいとは言えなかった。口元がアップになるたび唇とマウスピースの当たる隙間から唾が飛び出ている様子がはっきりと写ってしまい可哀想でならなかった。その代わり強風に長髪を靡かせ一心不乱にストラトキャスターをかき鳴らすマイク・スターンは心底カッコいいと思った。初めて知ったギタリストであったが、ソロはもちろんのことカッティング・フレーズももう既に彼独自のスタイルが確立されていた。
さらに今回はギターにジョン・スコフィールドも加わった第二期カムバック・バンドであり、まさに豪華絢爛であった。
このニコイチ・ツアーは83年5月に行われているが、なんと同年9月にマイクはデイヴィッドを迎えてニューヨークでソロアルバムを吹き込んでいる。

『NEESH (邦題:ファット・タイム) / Mike Stern』
(rec. August-September 1983 NYC TRIO-KENWOOD CORP. 原盤:AW-25039)
https://www.discogs.com/release/3672478-Mike-Stern-Neesh



発売元は我らがトリオ・レコードということで情報は直ちに関係雑誌にもたらされ、完売を案じたおいちゃん青年が速攻買いしたのは言うまでもない。
ここでデイヴィッドはゲストのチョイ出ではなく最終曲を除く全6曲に共演。文字通り「マイクとの双頭アルバム」とも言える熱演を繰り広げている。
曲もオリジナル作品で固められ、クレジットも皆デイヴィッドの名が入り、まさにガチ演の名盤となった。

その後、20代後半のおいちゃん青年はヨーロッパのリアルタイム・ジャズに傾倒したので以降のサンボーンの演奏はほとんど耳にしなくなってしまったが、ジャズ人生の中でもこの2枚にはとことんやられたので今でも愛聴盤として自室に於いてすぐに手が届く場所に置かれている。

追悼文を寄稿するつもりがまた例によって、葬儀後の精進落としに相席した初対面の参列者に向かって語る「故人の思い出話」のようなものになってしまった。
今頃は天国で共演者をはじめ心酔するミュージシャンはもちろん、関係者や万余をはるかに超えるファンからの弔辞をひとつひとつ読み始めているデイヴィッド氏だと思うが、こう見えても私の拙文に苦笑いを浮かべ「こんな奴もいるんだ」とデイヴィッドがお感じになっていただければという願いを人一倍込めて捧げていることをお気付きになっていただければ大変ありがたい。

ご冥福を心からお祈りいたします。

Hiroaki Ichinose
hironoseshi@icloud.com

市之瀬浩盟

長野県松本市生まれ、育ち。市之瀬ミシン商会三代目。松本市老舗ジャズ喫茶「エオンタ」OB。大人のヨーロッパ・ジャズを好む。ECMと福助にこだわるコレクションを続けている。1999年、ポール・ブレイによる松本市でのソロ・コンサートの際、ブレイを愛車BMWで会場からホテルまで送り届けた思い出がある。

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