Untitled 美川俊治
私はこれまでNomartにはわずか四回しか行ったことがない。林聡と接したのもその都度だけのことである。従って、私は彼のことをあまりよく知らない。そのような私が、ここでしたり顔で文章を認めるというのは如何なものかという気がするのだが、しかし、そうであっても何がしかの意味はあるかもしれないと気を取り直して、彼と私の関わりに係る話を(なので、彼自身への言及はとても少なくなってしまうのだが、そこはご容赦いただくとして)とりとめもなく綴ってみることにしよう。
この文章を読んでおられる方にとっては改めて説明されるまでもないことだと思うが、Nomartというのは、大阪は深江橋にあるアート・ギャラリー/工房の名称であり、その創設者が先般唐突に世を去り、ここに追悼文を寄せられている林聡であるわけだ、
私が初めてNomartに足を踏み入れたのは、2012年9月1日のことだった。Nomartを拠点に活発な活動を展開していたのが .es(ドットエス)、橋本孝之とsaraによる即興音楽ユニットだったのだが、そのsaraと私が旧知の仲であったこともあって、彼らとのセッションをNomartで行うことになったのだった。当時、Nomartで開催されていたPEKE展、それは期間中毎土曜日に行われるトークをメインとした展覧会だったのだが、そのPEKE展の第7セッションで、L.A.F.M.S.(Los Angeles Free Music Society)の伝道師として知られる坂口卓也をモデレーターとしたトークの後に、演奏を行った。この時、林が現場でどのような話をしたかは大変申し訳ないが記憶にない。当日の打ち上げの場で世間話的に歓談したことは覚えているが、そのレベルに留まっている。
そして、その後、私が再びNomartを訪れるのには、それから凡そ10年の歳月を要した。前年5月に橋本孝之が思いもよらず帰らぬ人となってから1年半ほど経った、2022年9月24日、斯界の重鎮である榎忠の個展“Pumice”の最終日のことである。一人ドットエスになってしまったsara(.es)とのデュオを行うために再びNomartへと赴いたのだった。展示されていた榎忠の作品のパワーたるや凄まじいもので、門外漢でしかない私も圧倒されたが、その感覚を演奏に多少は反映させられたようには思う。そして、榎も我々の演奏を気に入ってくれたようだったのは大変嬉しかった。この時、林はぎっしりと入った観客を前に、このイベントの持つ意味を、椅子に座ったままではあったが実に力強く語った。美術界のことなど何も知らず、このようなギャラリーを運営することの大変さのかけらも知らない私ではあったが、そこでこうしたイベントを開催することができた喜びと感謝の念が伝わってきて、しかも、これからも前向きに進んでいくという決意のようなものさえ感じさせてくれた。ことこの時に至っても、私は林がどのような人であって、どのような経緯を辿ってNomartを立ち上げ運営してきたのか殆ど知らなかったし、この時点では特段の関心もなかった。それは、その場にいて、そこに展開されているものを自ら感じ取りさえできれば、そのような過去の経緯を知らずともそれで十分だと思っていたからである。とは言え、この日の打ち上げの席では、以前よりは林との会話が弾んだことも事実であった。ただ、私が美術畑とかではないことに配慮いただいたのか、そちら方面の話にはあまりなりはしなかったのだが。
この時の演奏が自分としては大変面白かったので、sara(.es)にリリースすることを勧めた。それとは別の話だったのだが、Nomartの空間を演奏の現場として用いるに際しては、やはり音響の専門家に教えを乞うた方が良いのではないかとの提言も行った。それが多少の紆余曲折を経て、現在まで8枚のリリースを数えるUtsunomia MIXシリーズのスタートに繋がったのは知る人ぞ知るところだが、それが実現した背景には、それを許容した林のディレクターとしての慧眼と懐の深さが不可欠の要素として存在していたことを強く申しあげておきたいと思う。一般的な感覚で言えば、売れる(ここで「売れる」といっているのは、アーティストの人気が出るというようなことではなく、即物的な意味でCD等が購入されるということである)要素の希薄なこうした音楽が、シリーズ化され、常識を超えるスピードで続々とリリースされていったのは、演奏そのものの魅力は勿論のことだが、sara(.es)の絶大な営業努力、第一作の録音以外すべての音源制作に携わり、シリーズ名に自らの名前を冠している宇都宮泰の驚愕の仕事の力が大きかったのは言うまでもない。だが、多少なりともリリースに関わった私としては、それらに言及しているだけでは全く足りないと言わざるを得ない。まずは、縁の下の力持ち的に制作に貢献しているNomartのスタッフの皆さんの力がどれほど重要であるかは言を俟たないだろう。そして、それらを全て支える土台として、皆を見守り適切な助言を与えるディレクターとしての林の役割の大きさは、今まであまり語られることがなかったように思うが、関係者は皆、骨身に染みてわかっているのではなかろうか。Nomartそのものが彼の創設にかかるものなのだから、彼無かりせばUtsunomia MIXシリーズもまた無かったのは自明なのだが、そういう話を別としても、ディレクター林の存在は必要不可欠だったに違いない。
その後、私は二回Nomartを訪れているが、三回目(2023年5月13日)はUtsunomia MIXシリーズ初期3枚のレコ発イベントでの演奏、そして四回目(2024年1月13日)は、Utsunomia MIX 004-005のレコ発イベントへのゲスト参加ということで、いずれも、スパイラル的に拡がっていくこのシリーズに関連してのことだ。林はイベントの際には雄弁に物語る。それは音楽イベントに対してだけのことでは勿論なく、その発言の端々にその場において展示されている作品群・作家の方々への深い愛情ある言葉が鏤められているのであり、それこそが、Nomartを単なるアート・ギャラリーの位置に留まらせることなく唯一無二の空間に到達させた、林の心意気の表れだったと言えるのではないだろうか。
そのような林が、齢60歳にして早々と旅立ってしまった。sara(.es)から訃報の連絡を受けたとき、まず何が何だか分からなかった。生きていた人が亡くなったという極めてシンプルな事実の伝達を受けたというだけのことであったにもかかわらずだ。最初は、何か間違っているという、何とも言えない違和感を抱いたのだが、それは多分、単に事実であってほしくないという私の下意識の仕業でしかなかったのだろう。彼の死が紛れもない事実であると改めて認識したときに、あまりよく知らなかったはずの林が逝ってしまったということに途方もない喪失感を覚えたのは、やはりNomartでのイベントで接したことを通じて、彼の存在の大きさを識域下で認識していたことの証左なのだろうと思う。あの人懐こい彼の笑顔が、もうリアルでは見られないと思うと、この私にしても寂しくてならないのだが、彼亡き後、残されたNomartはどうなるのかと部外者の私は漠然とした不安を抱いた。しかし、その後の展開を側聞することで知るところとなった、sara(.es)をはじめとするスタッフの皆さん、そして作家の皆さんの力がその不安を私の中からかき消してくれた。だから、彼は安心して高いところから見守っていてくれれば良いのだと思う。失われたものはとんでもなく大きいし、悲しくてやりきれない想いは募るが、彼の遺したものを糧として皆は必ず乗り越えてくれる、そのことを彼は確信しながら、現世に別れを告げたのだろう。ならば留まることなく前に進まねばなるまい。私が力みかえっても仕方ないような気はするが、しかし彼の暗黙の負託に応えるとはそういうことだと思うのである。(文中敬称略)
*写真キャプション
2022年9月24日、ギャラリーノマルでの榎忠個展「Pumice」最終日ライブ後。前列左より林聡、榎忠。後列左よりsara(.es)、美川俊治、坂口卓也。
会社員。ではあるが、非常階段、Incapacitants、mn(沼田順とのデュオ)、MikaTen(tentenkoとのデュオ)、GOMIKAWA(五味浩平 a.k.a. Painjerkとのデュオ)、UMIKAWA(宇川直宏とのデュオ)等のメンバーとして、長きに亙りノイズ即興を続け、また近年ではソロやその他の多くのアーティストとの共演という形でのライヴ演奏も活発に行っている。作品多数。
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