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R.I.P. 杉田誠一No. 324

さようなら。伝説の人。by 斉藤安則

僕との約束は、覚えていてください。

杉田さんとの出会いは、まるで導かれるような不思議な縁だった。

あの日、仕事仲間と野毛のバーで飲んでいた。偶然同席した女性がジャズに詳しく、 「阿部薫と親交があった人を紹介できる」と言う。その言葉に興味を引かれ、紹介して もらった方をwebで確認した瞬間、驚いた。知っているライブハウスの店主だっ たからだ。ただ、それまで名前を意識したことはなかった。

さらに改めて自己紹介を受けたとき、驚きは一層深まった。

杉田 誠一。

その名前は記憶の奥底にあった。1970 年に発足し、すぐに解散した「日本リアル・ジ ャズ集団」。高柳昌行、阿部薫、間章らが組織した、日本のジャズ界のしがらみや停 滞に異を唱え、再構築を目指した集団だった。杉田さんはそのメンバーだった。演奏 家ではなかったけれど、当時のフリージャズシーンのど真ん中にいた人だった。

高柳昌行が残した数々の文章には、杉田さんの名前がたびたび登場する。しかし、 1970 年以降は高柳と疎遠になっていたため、僕が高柳さんを知ったころには、すでに 伝説のような存在になっていた。

僕は自分が高柳昌行の専門レーベルを運営していることを伝え、それから何度かお 店に足を運んだ。そして一度だけ、時間を作ってもらい、1970 年当時の話を聞かせて もらった。ステーション 70 での高柳・阿部の写真を借りる約束もした。

僕は高柳昌行のファンであると同時に、高柳を敬い、活動を共にした人々にも興味があっ た。
1950 年代から活動を理解し、最後まで友好があったジャズ評論家・瀬川昌久さん。 銀巴里でのセッション以降、応援を続けたジャズドクター内田修さん。
1970 年に高柳がジャズクラブから締め出される原因となったインタビュー記事の間章 と、その記事が掲載された雑誌『JAZZ』編集長だった杉田誠一さん。
フリージャズの時代を共に生きた副島輝人さん。沢山のコンサートを企画してくれたプ ロジェクト 21 の大橋邦雄さん。

それぞれの形で、高柳さんへの敬意を抱き続けていた。

彼ら一人一人の話を聞き、つなげるのが僕の仕事だと思っていた。
どんな些細なことでも構わないので高柳さんの情報が欲しかった。

けれど、杉田さんが亡くなってしまった今、挙げた人はもう誰もいない。

「杉田さん、高柳さんと阿部さんが知り合ったきっかけ、覚えていますか?」
「間が連れてきたんだよ、高柳を」

そう語った声が、今も耳に残っている。

あのとき録音したデータを探したが、残念ながらまだ見つかっていない。
けれど確かにあの日、杉田さんは 1970 年の記憶を、とても長い時間をかけて語って くれた。

杉田さん、そちらの世界では高柳さんと喧嘩しないでくださいね。
そして、写真の約束、覚えていてください。

さようなら。
伝説の人。


斉藤安則 1983年、株式会社バード電子設立。電子機器の設計・製造メーカー経営。1989年より高柳昌行の全ステージの録音とビデオ収録。高柳専門レーベル「JINYA DISC」発足。現在、高柳昌行の諸作物の管理を行う。最新作は、大友良英の協力で実現したコンプリート盤『プロジェクション』と、阿部とのステーション70の発掘音源『リアルジャズ』。
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