先生と生徒 by 亀山信夫
及川先生と初めて向き合ったのは、パイオニア(株)に勤めながら録音技術専門学院(現・音響技術専門学校)の一期生として学んでいた、1973年のこと。つまり、“先生と生徒” の関係として、である。及川さんは、もちろん実技の担当だ。ただ、夜間1年という時間的事情で、授業時間は限られていた。しかし数年後の学院は昼間の2年制へと充実し、現在は名称も変わり、卒業生としてはちょっと誇らしいほど立派になっている。学院立ち上げ時は、そうした時間事情の中、録音という創作行為の全域をスキャンするべく、カリキュラムの組み立てに苦心していたようだ。そんな状況でも、スコアリーディングと音響生理と音響心理の面白さに惹かれ、今でも勉強中である。
やがて、夜間1年のカリキュラムも終盤に入り、外部での実習となった。古いビルの教室を出て、出来たばかりの最新鋭のスタジオ「音響ハウス」に行った。講師は、いわずもがな、及川さん。だが、どんな内容だったかはまったく記憶にない。しかし鮮明なのは、すべての人を受け入れるような笑顔と話しぶりの、その人柄。生徒の評判や人気は抜群だった。人柄は録音に必須のコミュニケーション力の源泉だ…と今にして気づくのである。予定通り、学院の終了で、及川さんとはわずか1年で疎遠になってしまった。
その後の小生は、営業所での修理係から所沢工場のスピーカー技術部へ異動となった。面白いヤツがいる、という理由での移動だったとあとで聞いた。そんないい加減さも気に入っていたが、そのいい加減さの第二弾が1年半後にやってきた。工場から目黒の本社への移動命令だ。仕事は商品企画。まったく知らない世界に面食らい、右往左往しつつも1年で免疫がついた。そして、気持ちに余裕も出てきたころ、広報担当が「及川先生が来られるから、顔を出して」と気遣ってくれるようになった。その頃の及川さんは、録音エンジニア(学院の先生も含む)とオーディオ誌での執筆の二刀流で大活躍。こうして、6~7年ほどの中断を経て、年に1~2回だが、相変わらずの温かい笑顔と気遣いに接することが叶った。思えばオーディオ誌のおかげである。
しかし、日本経済の最も華やかな1989年の末、念願の音楽制作を目指し、パイオニアを退社。そしてようやく、1993年、またもやオーディオ誌のおかげだが、制作に関わることになった。菊地雅章のピアノ、ゲイリー・ピーコックのベース、富樫雅彦のパーカッションの夢のようなトリオだ。録音は翌年94年の3月末~4月初旬で、ライブとスタジオの2作品が完成した。そのすべてを録音したのが、我が先生の及川さん。小生はプロジェクト・ディレクターとしての参加である。
と言えばトントン拍子のようだが、実際は、ほぼ未経験のような小生には荷が重く、不安でいっぱいだった。できることなら、菊地さんと一度会っておきたい、と思っていた。そんな不安を察したのか「都合がつくからニューヨークに行こうか」と及川さんが呟いた。ありがたき先生である。さらに「どうせ行くなら」と、当方では思いつかない、様々なプランも出してきた。
まずは、最も重要な菊地さんとの打ち合わせ。菊地さんと及川さんは数々のレコーディングで、まさに気心を知る仲である。だが、挨拶を交わしてからの及川さんはほとんど発言しない。そうなると、菊地さんと小生はガッチリ向き合うことになる。真剣に見つめ合うそんな様子の二人を及川さんが“パシャリ”とフォーカス。頂いたその写真は小生の宝物である。話はドンドン弾み、思わぬ展開になった。菊地さんが「録ってよ、ピットインのライブをさ」と言い出したのだ。計画はスタジオ録音のみで、新宿ピットインでのライブはその練習的な位置づけ、と小生は解釈していた。ところが菊地さんは全く違っていたのだ。「ジャズはさ、出会い頭が一番いいんだよ」と言った。凄い人だ…。
新宿ピットインのライブ録音は、楽屋の隣の空きスペースに機材を並べ、小さなスピーカーを念のためにセットするも、主たるモニターはヘッドフォン。マイクチェックからミクシング・バランスまでをリハーサルで完遂する。そして本番となるが、その録音は菊地さんの言うところの「出会い頭」そのもので、考えただけで胃が縮む。だが及川さんは、ピタリと決めたのだ。一発勝負のステレオ同時録音の凄技と気迫を目の前で見た。もう神業と言うしかない。
話を戻して、打ち合わせの思わぬ成果に喜びつつレストランを出た。すると、及川さんが「良かったね」と、背中をポーンと叩いた。こちらは感謝してもしたりないくらいだ。打ち合わせでは、及川さんは自分の口を閉ざし、小生のための環境を創り出したのだ。忘れがたい先生と生徒のOJTであった。
実は、先生と生徒のOJTはまだまだ続いて、“初めて”が連続する。録音関係を除いて挙げれば、一番の感激は「予約しておいたからね」と出かけた「ハーレム・ジャズ・ナイト・ツアー」である。当時のメモを読み返すと…。
日本からの男女6人を乗せたワゴン車で、そうそう行けそうにないハーレムを目指す。案内は地元ハーレムから厚い信頼を得ている(日本でも有名な)トミー・富田さん。目的地までの車中での解説が素晴らしい。「これから行くところは、セントラルパーク北110丁目から始まるセントラル・ハーレムで、別名ブラック・ハーレムと言われ、住民のほとんどが黒人です」などなど、歴史や地名やアーティスト名、時には時事問題も交え、立体的に解説した。と、メモが残っている。メモをさらに読み進めると…。
そして目的地では、「最初に“シルビア・レストラン”でソウルフードを召し上がっていただきます」と、その料理の内容や背景や歴史、あるいは地域的な特徴などを語り出した。初体験の数々のソウルフードの美味しさは強烈な印象で残った。そのお陰で、曲のタイトルや歌詞や、あるいは映画や小説などで頻繁に使われるこの言葉が、ちょっとだけだが、分かった気がした。ジャズのみならず、黒人音楽への新たな扉を見つけた気分だ。そして衝撃は次の店でも…。
シルビア・レストランの次は近くの飲み屋さん。扉を開け入ると、黒人の陽気な賑わいが満ちていた。こちらも陽気になって、ビールを頂きながら、ライブを待った。ステージは、夢か幻か、ハモンドB3の本物のオルガン・トリオだ。本場ハーレムで聴けるなんて…と感激していると、「オルガンが好きなんだね」と及川さんが言った。その後のことになるが、「カメちゃん、オルガンが好きだよね」と、オルガン・ジャズのCDを何度か頂戴している。ハーレムでのオルガンを覚えていたに違いない。
翌日は、ガラッと変わって、メトロポリタン美術館に向かった。少々疲れたが、なんのその、たっぷりと見て回った。夜は初めてのミュージカル。記念すべき初体験は、あの「レ・ミゼラブル」。衝撃だった。
挙げれば、まだあるが、切りがない。体験の数々は、要するに、録音・制作者になるための準備なのであった。直ぐ役に立つわけではないが「できるだけ体験しておけ」と、やんわり遠回しに、及川さんが言った。間違いなく「血と肉」になろう。
しかし時代は、ご存じのとおり、経済の勢いを大きく失った。その影響は関わっていたオーディオ誌にも及び、2000年の時点で及川さんとの接点も失ってしまった。だが、及川さんの「できるだけ体験しておけ」の教えは、欧州にも耳目を向けるなど、ずうっと守っている。
亀山信夫
1989年12月 パイオニア(株)を退社。
1990年1月、活動ベースとして(有)NRPを設立。
以後、
CD制作、コンサートPA、5.1chから三次元の収録並びに再生技術を企業と共同研究、等を行いつつ、AV誌への執筆にも関わる。