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R.I.P. 渋谷毅No. 340

7/23 渋谷毅さんのお通夜に護国寺へ 岩神六平

告別式は出席できませんでしたが、大勢の音楽関係者が参列され、ジャズだけではない幅広いお付き合いが偲ばれました。

僕の中で渋谷さんとの共通の接点と言えばまず武田和命、古澤良治郎、川端民生、高田渡、浅川マキ、そして中牟礼貞則が特に思い浮かびます。もうずいぶん昔、自分が駆け出しの頃ですが、最初に渋谷さんのお名前を聞いたのは青山ロブロイでの渋谷さん、渋谷さんと言えばロブロイでした。演奏中によく寝てしまうという逸話?もありました。ロブロイは山下洋輔はじめお仲間も良く出入りしていて、僕も山下さんのスタッフとして、或いは客としても顔を出していますが、実際にはロブロイで渋谷さんの演奏は見ていません。寝てしまうということでは高田渡も演奏中に良く寝てしまう逸話の持ち主でしたね。その高田渡と渋谷さんの北海道ツアーのさ中に、渡さんが体調を崩され急遽入院することになりますが、治療の甲斐も無く間もなく入院先の病院で亡くなってしまいます。渋谷さんはソロで公演を続けました。ついこの間の様な記憶ですが、いつの間にか20年は経ってしまいました。その数年後、今度は浅川マキさんとの名古屋での3Daysライブの最終日、マキさんが会場に現れないのでスタッフがホテルに呼びに行ったところ、部屋で倒れているのが発見されました。こういう話を渋谷さんとわざわざしたことはありませんが、さぞかし心中穏やかではなかったことでしょう。この時のライブはマキさんのプロデューサーだった故寺本幸司さんから電話をもらって、「六平ちゃん、名古屋のラブリーって知ってるでしょ?紹介してくれないかな?」というので喜んでとご紹介した経緯もあります。自分にとっても大変ショックな出来事でした。

僕自身渋谷さんとのお付き合いはそれなりに古いのですが、初めてお会いしたのはマキさんと共演を始めた頃だったかと思います。実際仕事らしい仕事としてはジャズ・フェスティバルに出演していただいたぐらいで、あとは仕事とは言えませんが、僕が大変お世話になった大先輩、奥成達さんのピットインでの偲ぶ会の大トリを務めていただいてGood-bye(浅川マキの持ち歌で板橋文夫作曲)の演奏で締めていただいたのが大きな思い出です。その後、二階堂和美と渋谷さんのコンサートを鎌倉で企画しますが、コロナで中止となってしまいました。リベンジを期していたのですが叶いませんでした。お付き合いとしてまったく自慢できるものではありませんが、僕にとって渋谷さんは非常に大きな存在でした。

渋谷さんの訃報と葬儀が告知されてから、清水くるみさんから昨年夏の発症以来の闘病の経緯が発表されました。くるみさんはじめ関係者の皆様のご心労がしのばれる内容でした。渋谷さんご自身はその間も暮れの新宿文化センターでのピットイン60周年記念公演、大晦日のピットイン年末スペシャルライブでの渋谷毅オーケストラをはじめ演奏を続けられていたので、体調を崩されていたのは知る由もありませんでした。ところが3月頃からだったでしょうか?昨年デュオのライブ盤を発表した中牟礼貞則さんと相前後して、まるで示し合わせたかのように渋谷さんもスケジュールをキャンセルしだして、お二人ともお歳もお歳ですし状況も分からず心配していました。中牟礼さんは間もなく6月に旅立たれてしまいますが、渋谷さんはFacebookで入院加療中のレポートをされていたので、回復されてきているものと期待していました。その後現場復帰のステージを発表しだしたのでホッとしたのもつかの間、再び延期の書き込みがあり、期待と同時に又心配もはじまり様子を見ていたのですが……  思いもむなしく中牟礼さんの後を追う様に旅立たれてしまいました。

大変お世話になりました。これまで折に触れてお気遣いいただき有難うございました。改めて心より渋谷毅様のご冥福をお祈りします。


岩神六平(いわがみ・ろっぺい)
山下洋輔のマネジメント「ぐがんプロダクション」、同じく「テイク・ワン」のスタッフを経て1977年「JamRice」設立。その後 JamRice を退いてロック系に転身、RIKUO、The Groovers、戸川純、P-Modelのパブリシストと並行して岩神六平事務所として多方面にわたるコンサート制作を行う。

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