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From the Editor’s Desk 稲岡邦彌Issue NumberNo. 293

From the Editor’s Desk #9「キース・ジャレット  今」

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
photos:From private collection of Keith Jarrett

キース・ジャレットの新譜が出るという。2016年7月6日、フランスの Jazz And Wine Bordeaux Festival 2016 でのソロ・コンサートをライヴ収録したものだ。フェスティバルの公式サイトはこのリリースについてキース・ジャレットとECMに最大の謝意を評している。10周年記念のフェスのオープニング・コンサートだったそうだから彼らにとってはことさら意義深いのだろう(ちなみに、今年のフェスは7月18日にリッチー・バイラークがソロで出演したようだ)。もちろん、キースにとっては開催地や周年はまったく意味を持たず、あくまでパフォーマンスの内容でリリースを決めているのは言うまでもない。逆に、今年 (2022年)の 8月4日付けのNPRのインタヴューではボルドーでのホテルや食事の面での待遇について必ずしも満足のいくものではなかったとのコメントを発している。
ちなみに、この2016年のヨーロッパ・ツアーからは、10日後の7月16日のミュンヘンでのコンサートを『ミュンヘン 2016』として2枚組でリリースしている(2019.1.11)。さらに、ほぼ2年後の 2020年10月30日には、ミュンヘンの3日前に行われた『ブダペスト・コンサート』がリリースされた。このブダペスト・コンサートは自他共に認める完成度の高い演奏であった。そして、ほぼ2年後の今年9月末にリリースされるのが『ボルドー・コンサート』である。つまり、2年おきに2016年のヨーロッパ・ツアーのアーカイヴがリリースされていることになる。インタヴューの中でキースは同じツアーのウィーンとローマでのコンサートのリリースの可能性にも言及している。一度のツアーから何枚ものアルバムを出せるのか、といぶかる向きもあろうが、日本縦断ツアーを捉えた『サンベア・コンサート』を考えてみたらいい。この1976年11月の日本ツアーは、京都、大阪、名古屋、東京、札幌と数日おきに演奏されたコンサートを時系列に沿って10枚組としてアルバム化されたのだ。その精度はまさに人間技とは思えないレヴェルだった。2016年のヨーロッパ・ツアーから5都市のコンサートがすべてアルバム化されたとしたら、それはまさにキースにとって40年ぶりの快挙に違いない。ひとりキースに留まらず、アーチストという存在にとっての快挙と言える出来事になるはずだ。即興演奏という創造行為にとって40年という歳月は想像を絶する隔たりを意味するからである。

さて、NPRのインタヴューの中でキースは「妻が日本に帰国中なので、オーディオ・システムを操作できない自分はその間、音楽を聴くことができない」と打ち明けている。その滞日中、奥さんは伊香保近郊のワールド・ジャズ・ミュージアム21まで足を運んでくれた。菅原光博館長と古くからの知り合いということもあり、来月(10月)ミュージアムで予定されている「ECMとキース・ジャレット展」に特別展示されるCDと秘蔵写真を届けに来てくれたのだ。CDと写真は、2007年3月の Cavelight Studioと称するキースの自宅スタジオでのチャーリー・ヘイデンとのデュオ・アルバム『ジャスミン』と『ラスト・ダンス』。サインには応じてこなかったキースが不自由な右手で日本のファンのために必死で認(したた)めたサインである。この時、チャーリー・ヘイデンのドキュメンタリーの撮影に応じたキースが、撮影チームの求めで始めた演奏が撮影終了後レコーディングに発展したものだ。秘蔵写真には、古くからの付き合いであるチャーリーに対する和やかな表情のキースが多数収められているが、すべての写真は10月の写真展で署名入りCDと共に初めて公開される予定である。
2018年、キースは2度にわたって襲われた発作(脳卒中)により左半身の自由を失った。インタヴューでも右手一本でスタンダードやビバップを弾いているが、その右手も未だ充分なパワーが戻らないと打ち明けている。さらに、右手の小指にも問題が残っているとも。それでもリハビリ施設でピアノを弾いていると、キース・ジャレットであることを知らない同病の患者がいつのまにか周囲を取り囲み耳を傾けているという。不自由な右手一本でもキースの紡ぐメロディには彼らの琴線に触れるものがあるのだろう。キースの自宅はニュージャージー・オックスフォードの郊外にある。自然に囲まれ近くを流れるせせらぎの音が聞こえるほど静かな佇まいである。「こういう状態になって初めて自分はこれほど自然に恵まれた環境に住んでいたのだと認識した」と語るキース。健常な時は環境を意識できないほど音楽に集中し続けてきたキースが不自由な身体になって初めて「人間的な」生活を過ごせるようになったと言ったら皮肉に聞こえるだろうか。
右手一本でピアノに向かうキースを想像するのはファンにとってとても辛いことだろうが、キースのことだ、何らかの形で音楽界に復帰してくれることを静かに待ちたい。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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