ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第23回 ラス・ロッシング〜 ケーデンスとの駆け引き、ある瞬間の美〜
今、マンハッタンに近いブルックリン西部からじわじわ東へと広がり続ける開発の波に乗って、音楽の生まれる場所も変化し続けている。Happy Lucky No.1は、そういう意味でとても象徴的なヴェニューだと思う。まだ開発があまり進んでいないエリアに2年ほど前にオープンしたこのギャラリーは、ストリートから見てもかなり浮いた存在だ。ガラス張りの入り口を通して見える広い店内に現代アートが整然と展示されている様子には、ストリートの雰囲気とのギャップを感じざるをえない。オーナーは確かヨーロッパから来た夫婦で、ギャラリーをオープンした当初から積極的に音楽イベントを開催してきた。数カ月前にこの場所にグランドピアノが入ってからというもの、ここで開かれるコンサートにはマット・ミッチェルやクーパー・ムーア、シルヴィー・クルボアジェなど数々の素晴らしいピアニストが出演している。
今回はここにラス・ロッシングのソロピアノ演奏を聴きにいった。ニューヨークのシーンで長年活動してきたラスは、80年代にジョン・ケージに師事し、その後ポール・モチアンと12年にわたりステージを共にしたベテランだ。おそらくポール・モチアンの繋がりだと思うが、故菊地雅章とも親しかったと聞いている。マンハッタンのシンフォニースペースで開かれたポール・モチアンのトリビュート・コンサートの時に私は初めてラスと知り合ったのだけど、あの舞台でのプーさんの演奏がいかに特別だったか、その時に彼と少しだけ言葉を交わしたことを覚えている。
ピアノを前にするラス・ロッシングの寡黙な佇まいは、どちらかというと彼の実際の演奏とは対極的なものに思える。背が高くがっしりとした体躯を持つ彼が鍵盤の前に腰を下ろすと、その雰囲気は深海に錨を下ろした静かな夜の船を思わせる。椅子からまっすぐに伸びる背中に自ずと浮かび上がる彼の内面性がそういう印象を与えるのかもしれない。ラス・ロッシングというピアニストから滲み出る覚悟のようなもの……あの背中を見ると私はいつも考えずにはいられないのだ。ある種のピアニストが醸し出す、時間の重み。繰り返し繰り返しピアノに指を下ろす度に、音楽の自発性に呼吸を重ねてきた人間の佇まいを。この人はまるで僧侶の様だなと思いながら、背筋が伸びる思いで演奏を聴き始める。すると、数分後には狐につままれた様な気分になるのだ。このプロセスをを私はラスの演奏を見にいく度に繰り返してきた。聴き始めてから、私はようやく思い出すのだ。ラスのピアノはとても貪欲だということを。10本の指が縦横無尽にピアノを動き回り、飽きることなくピアノという楽器のあらゆる可能性を模索していく。その音に対する貪欲さのようなものを目の当たりにする時、私はなぜかいつも晩年のバド・パウエルを思い出す。
ソロの前編は完全にフリーな演奏だった。無秩序という秩序。自由で突発的なのに、きちんと制御され手懐けられた音。すべての鍵盤と弦をくまなく使い、可能な限りの表現方法を網羅していく。演奏も半ばになると、少しずつイディオマティックなフレーズや聞き慣れた和音の展開が聞こえ始める。統制された無秩序の中に、言語的なものが断片的に顔を見せ始める。イディオムはこの瞬間に最も効果的な形でその言葉を喋るのだ。淡々と折り重なっていくまだらな形状とリズムの羅列の中に、突如組み込まれる儚いケーデンスほどに音楽的に饒舌な瞬間というものを私は他に知らない。このことを、ひとつの詩に例えてみたいと思う。以下はパブロ・ネルーダが69年に書いた『World’s End(世界の終わり)』という詩集に収められた「The Fire」の抜粋だ。日本語訳も一応つけてみたが、ここでは英語詩のリズムに注目して欲しい。(ネルーダは母語のスペイン語で詩を書いているが、翻訳された英語版はそのリズムに忠実である。)
What a musical moment,
the intelligent river tells me,
moving close with its waters:
it amuses itself with its stones,
keeps its path singing
while I settle my jaw once
and for all, and watch with cold fury.
Let’s keep one nebulous
thought for the malcontent,
as the world every morning,
transcendental and grimy with tears,
holds one great tree of air
that dislimns all the daylight:
light suffers itself to be born,
solitude mutinies,
till nothing remains to be seen,
neither sky nor the earth,
in the mist and brine of the distance.
なんと音楽的な瞬間だろうか
聡明な川は僕に呟く
流れる水に身を寄せながら
転がる石を愉快がりながら
その道筋には唄を絶やさず
一方で 僕は
きっぱりと口を閉じ
冷えた怒りを抱え 眺めるだけ
不平には漠然とした思いを
いまだ 朝が来るたびに
涙で汚れた超越的世界は
一本の大木を抱く
その旋律に 日の光は霞みゆく
誕生に苦しむ光
反抗する孤独
すべて見えなくなるまで
空も地面も何もかもが
遠くの霧と海水に包まれてゆく
この英語詩を初めから読んでいくと、一文ごとのリズムのパターンが一貫していることは明らかである。そのリズムの織り成すフローに身をまかせていると、「solitude mutinies…」と予期的なリズムの変化があり、「till nothing remains to be seen…」でもう一度元のリズムを復唱した後のケーデンスが「neither sky nor the earth, in the mist and brine of the distance. 」なのだ。distanceはearthともmistとも音が重なっている上に、この一文の微妙な長さとdistanceという結び言葉が、ケーデンスをとても効果的に演出している。とにかく私が言いたいのは、こういうことだ。詩においても音楽においても、ひとつのテクスチュアやステートメントを表現の核とする領域から別の領域へと主体が移動する際に生まれる「瞬間的対比」には、私達の内部を掴み揺さぶるような力がある。
ラスのソロピアノに話を戻そう。セットの後半に入ると、断片的だったメロディやコードが確実性を増し、やがてパズルのピースが互いを見つけ合うように曲は全貌を明かしていった。全部で4曲ほど弾いたスタンダードのほとんどはモンクの曲だった。特に印象的に聞こえたのは「Crepuscule with Nellie」。ジャズ史の講義が嫌いだった私がこのタイトルを覚えていたわけでは当然ない。だけど演奏を聞きながら、ああこのモンクの曲、何だっけ?と考えている数分間は、私にとっては至福の時だった。終演後にギャラリーの外でタバコを吸っていたラスに聞くと、彼はその曲名を快く教えてくれた。30分強のインプロビゼーションからデュークとモンクの曲へと展開するストーリー。ピアノという楽器、そしてその楽器を愛した音楽家達の書いた曲の数々に時間をかけて向き合ってきた人だからこそ可能な演奏がそこにはあった。