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Jazz Right Nowニューヨーク:変容するジャズのいま 蓮見令麻No. 252

ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第26回 「ブラック・ミュージック」を再考する②

「ブラック・ミュージック」という言葉を再考する、というテーマで開始したインタビュー・シリーズ第一弾の後編。筆者が投げかけた以下の質問に関する回答者(音楽家X氏)の考察を綴る。前編では、音楽というコンテクストにおける「ブラックネス」に基づいた意識のグラデーション、それがイデオロギー的スタンスであるか否か、黒人文化を存続する政治的義務、同人種間の同胞意識、などの話題に触れている。

Do you think that the meaning of the word Black Music has transformed itself in the past decades in America? More precisely, did it shift from something that represented the ideology of Black Power that surrounded the civil rights movement to something else?
What does the word signify in modern America, if it does at all?
In Japan, the term Black Music is widely used, at record stores, on music magazines, and by critiques to describe a certain category in music; Music that stems from African tradition, or simply the ones that are played by black musicians. Is this still a valid use of the term, or does it need reconsideration?

「ブラック・ミュージック」という言葉の意味合いは、過去数十年の間にアメリカという土地において変容を遂げたと思いますか?さらに細かく言えば、公民権運動におけるブラック・パワーのイデオロギーを代弁するものから、何か別のものへと変化しましたか?
現代アメリカにおいて、この言葉は何を意味しますか?または特に大きな意味はないと思いますか?

日本では、「ブラック・ミュージック」という言葉はレコード店や音楽雑誌、批評家達により、音楽における1つのカテゴリーを表すために幅広く使用されています。つまり、アフリカの音楽的系譜を引き継ぐもの、または黒人の演奏する音楽、というカテゴリーです。このような言葉の使い方は果たして現代でも妥当でしょうか?それとも、私達はこの言葉の意味を再考する必要があるでしょうか?

(前編からのつづき)

音楽家X(以下、X): つまり、社会的条件の下で自然に生まれる同人種間の同胞意識があり、それに基づいて(この場合は黒人同士が)共に活動を行うということはあるかもしれないが、それは必ずしもイデオロギーとして認識されているわけではないということだ。僕の場合、今は自分と同じ黒人のミュージシャンとの繋がりはあまり強くない。30年、40年、50年…と音楽活動を続けてきた中で、周りのミュージシャンから黒人が減っていったからね。これは仲間ともよく話すんだが、ニューヨークでフリー・インプロビゼーションを演奏する黒人ミュージシャンの割合はとても少ないよ。黒人の場合はメインストリームの音楽業界で演奏するアーティストの方が多いかもしれない。最近の音楽で、いわゆる「ブラック・ミュージック」と呼ばれる類のもの… 20代〜40代ぐらいの比較的若手の黒人アーティストのライブやレコーディングのプロジェクトは、同じ黒人だけをメンバーに入れたグループでの演奏が多いと思わないか?

蓮見令麻(以下、H): NPR Music Tiny Disk Concertsなんかを見ていると、そういう感じはしますね。

X: ということは、「ブラックネス」というコンセプトは、現代の黒人アーティストにとっても何らかの意味を持つものだということだ。もしかすると、似たようなコミュニティや環境で生まれ育った相手とは自然に惹かれ合う、ただそれだけのことかもしれない。イデオロギー云々ではなくて、単に文化や見た目が似た相手といる方が心地よい、ということが考えられる。
僕が時折一緒に演奏をする黒人のミュージシャンがいるんだけど、彼は黒人としてのアイデンティティを強く持った人だ。その黒人としての確固としたアイデンティティは、部分的にはイデオロギー的、政治的なものであるということを、彼と一緒にいると感じるよ。「ブラック・コントリビューション(黒人達が影響を与えてきた文化)」を尊重し、存続させ、守り、評価するという強い意志がそこにはある。
僕の両親はもとは低所得者層の労働階級で育った人達だったから、僕と姉のことは安全な郊外の街、中流階級の人が集まる社会環境で育てようと決意していたらしい。僕の場合、自分自身の中にある「ブラックネス」のルーツ、その感覚や感情は、両親の持つそのような社会的上昇志向によって脅かされてしまった。両親は、僕達により良い生活(「A better American life」と表現)を与えようとし、その結果僕は他の黒人達から引き離されてしまったんだ。僕の通ったマサチューセッツ州の高校には、たった2人しか黒人がいなかった。
黒人と非黒人の両方が、ブラックネスという感覚を持っていると思うんだ。だけど、僕達が生きる現代には、公民権運動や黒人解放運動のような「ブラック・レボリューション」は起きていない。(「ブラック・ライブズ・マター」運動は起きているけれど、その活動の影響力という意味では、先に挙げた例には及ばないだろう。)今はブラック・パンサーやブラック・ムスリムが表に出てくるような時代じゃないんだ。

H: 私がよく考えることのひとつが、「伝統や文化を受け継ぎ保存すること」、そして「文化的・社会的進化において革新的であること」、この2つのバランスについてです。特定の人種や民族固有の文化的表現を、その血統を持つものが受け継ぐという形がこれまでは普通だったかもしれません。さらに、白人のミュージシャンはこんなサウンドで、黒人のミュージシャンはこんなサウンドだ、という固定観念みたいなものは、今も少なからずあります。このようなパースペクティブは、表現および表現の解釈における私達の可能性を制限するものでしょうか?これは、バランスを取るのが非常に難しい問題に思えます。

X: ジャズに関して言えば、白人が貢献したヨーロッパ的な美しい和音、コール・ポーターやリチャード・ロジャースの書いたアメリカン・ソングブックのスタンダード曲がある。この音楽は、同様に黒人によるブルースなどの音楽的要素から深く影響を受けてきた。人種隔離政策(ジム・クロウ法)、または「事実上の」人種隔離がはびこる社会環境下においても、この国の音楽は継続的に混血してきたということだ。でも、僕はいつも思うんだよ。ミュージシャンの中にも、観衆にも、黒人がほとんどいない。彼らはどこにいるんだ?ってね。音楽、特にフリー・インプロビゼーションに関して言えば、何かしらのムーヴメントを起こすことで、白人のミュージシャンが黒人のミュージシャンにより深い部分で繋がっていくことができるかもしれない。
ただし、インプロヴィゼーションなどの音楽シーンに黒人がほとんどいないという状況には、経済的な要因もある。白人を始めとする非黒人のミュージシャン達も、きっと経済的な困難を強いられているだろうけれど、その苦境は黒人ミュージシャンと比べると比較的楽なものかもしれないと想像する。例えば白人の場合は家族からの経済的サポートを受けたり、黒人よりも給料の高いデイ・ジョブ(演奏以外の副業)につくことができる可能性が高いことが考えられる。これはあくまでも憶測にすぎないけれどね。現在の状況では、黒人のミュージシャンに「フリー・ジャズ」や「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれる類の音楽を演奏したいと思わせる動機づけとなるものがほとんどないわけだ。食べていけないからね。メインストリームのジャズでさえ、自分の子供にはやらせたくないと考える黒人はきっと多いと思うよ。自分達の息子や娘には、起業したり、会計士や弁護士になって欲しいと願う人が多い。つまり、「ブラックネス」についての質問の裏側には、大きな経済的側面による影響があるわけだ。だけど、僕が想像するに、人種や国籍にかかわらずほとんどの若いミュージシャン達は「ブラックネス」に対してのリスペクトを持っている。だけどそのリスペクトの種類は、サン・ラのようなミュージシャンとは異なるものだっただろう。
サン・ラは意図的に自分のグループに白人メンバーを入れなかった。この事実が確かなものかどうかは是非調べてみて欲しいんだが、少なくとも僕はそういう印象を受けている。だが、このことに対して非黒人アーティスト達が気分を害することはあまりないんじゃないかと思う。

H: 皮肉なことに、サン・ラ・アーケストラのライブに行くと、観衆の多くが白人のヒップスターなんですよね。

X: そう、観衆にはあまり黒人がいなかったりするんだ。

H: 興味深いですね。

X: 君からの質問に十分な答えを返さずに、逆に自分の頭に浮かんでくる質問を投げかけてしまっているけれど……、黒人のミュージシャン達自身は、「ブラックネス」についてどう感じているんだろうか?そして、非黒人のミュージシャン達の音楽への貢献を、彼らはどう受け止めているのか?
ジェームズ・ブラウンやアレサ・フランクリン、レイ・チャールズ、ドゥーワップのグループなんかが生み出した音楽、そのサウンドは、少なくとも僕にとっては「ブラックネス」そのものだ。そのサウンドを当時黒人以外のアーティストが再現することはほとんど不可能だった。だけど同時に、キャロル・キングみたいな白人のアーティストが、黒人アーティストに楽曲を提供することもあったわけだ。ニューヨークのドゥーワップのグループでも、白人と黒人の両方がメンバーとして参加したものがいくつかあった。当時の「ブラックネス」の意識はとてもパワフルなものだったことは確かだ。だが同時に、ニューオーリンズ以降の歴史を通して、その「ブラックネス」に敬意を払い、限りなく近づいた才能ある白人のミュージシャンもたくさんいた。さっきマイルスの話をした時にも言ったけれど、音色で楽器奏者の人種を当てるなんてことは現代では非常に難しくなったよね。例えばサックスのような楽器を通して、黒人の奏者により圧倒的な「ブラックネス」が表現されることがある。だが同時に、例えば日本人やヨーロッパ人のサックス奏者が楽器を吹いた時に、それが同じくらい「ブラック」に聞こえる場合もあるんだ。この状況を深く憂う人も中にはいるようだけど、僕にとっては、それは「音楽のスピリットが受け継がれる魔法」以外の何物でもないよ。

H: しばらく前に、ブルーノ・マーズが「文化の盗用」を行っているという意見が話題になりましたね。ある黒人女性活動家が、SNSでマーズは黒人じゃないのに黒人の文化を真似ているとして非難しました。

X: こういった文化の「異種交配」のプロセスというのは、今に始まったものじゃない。今世紀を通して続いてきたものだし、いつそれが始まったのかも定かじゃない。ニューオーリンズの音楽やディキシーランド以前に始まっていたのかもしれない。「ブラックネス」や「ブラック」と一言に言うけれども、一般的に「ブラック(黒人)」と呼ばれる人達には白人の血も同様に入っているわけだ。黒人達はその事実についてあまり話したがらないみたいだけれど、いわゆる「ワンドロップ・ルール」というものがあって、それは黒人の血が一滴でも入っていれば黒人だと見なされるという法的な人種分類の原則だった。この事実についてはもっと論議が交わされるべきだと思うんだ。ミュージシャン同士で、または学校という場で、どれくらいこの問題についての話し合いが成されているだろうか?ところで君はどこの学校に行ったの?

H: ニューヨーク市立大学のジャズ科です。

X: ヨーロッパ音楽がジャズに及ぼした影響について、君の在学時には大学でどの程度話されていた?

H: ジャズ史に関する講義内容は、一概にしてヨーロッパの文化と黒人文化の影響が半々だという文脈で話されていたと思います。

X: それは、ジャズのルーツのこと?それとも現代における進化のこと?

H: その両方だと思います。

X: つまり大学の音楽教育において、ジャズ音楽にヨーロッパの文化や伝統が及ぼした莫大な影響は認識されているということだね。例えばスケール、モード、コード……、そういった技術的な面での影響について言及されているということは明白だけれども、音楽におけるヨーロッパ的精神、またはアメリカにおける白人の精神について言及されることはどれほどあるだろうか?40年代から60年代にかけてのジャズの進化に関して話される時には、黒人文化が強調されることの方が多いだろうね。それはミュージシャン同士の会話でも、音楽教育の場においてもそうだ。つまり、ジャズ史に関して言えば、黒人が音楽に及ぼした影響の方が、白人が及ぼした影響よりも深く「祝福」されている。それはひとつの皮肉、またはパラドックスだと言えるだろう。僕達が生きる現代社会における政治に目をやると、民主党と共和党の対立、トランプ大統領を支持する者達と糾弾する者達、ポピュリズムやナショナリズムを嫌悪する者、グローバリズムに反対する者と様々だ。とにかく今は、自分自身の意見と相反する政治的意見に真剣に耳を傾けなければいけない時代なんだ。
黒人のミュージシャン達は、白人文化にも敬意を表す必要がある。それはある意味クレイジーなことだけどね。アメリカという国の背景において白人文化が大事に扱われない、この状況が「トランプ・アメリカ」を生んだのではないかと僕個人としては思っている。黒人に対するひどいレイシズムも未だにはびこっている。そして、黒人文化だけでなく白人文化も同様に「平坦化」「標準化」しつつあるようだ。それでも、地域的背景に強く影響された音楽の持つ「精神性」は完全に消されてはいないと思うんだ。ここでの疑問は、その「精神性」は脅かされているか?ということだ。例えば、あたかもメーターの針があるかのように、音楽制作の中で「ブラックネス」の度合いを上げたり下げたりすることが普通になっている。ブルーノ・マーズに関して言えば、彼はきっと自分が模倣する「ブラックネス」を心からリスペクトしていると思うんだ。彼は「黒い太陽」の下で日光浴し、栄養を取り込んでいるだけじゃないか。同時に、音楽を餌に金儲けをする者や業界の甘い血を吸う者がいるわけだ。この状況はとても複雑なものだし、簡単に結論を出せるものではない。
どちらにしても、音楽における「ブラックネス」は僕にとってすごく重要なものではある。例えば、ジェームス・ブラウンの「ブラックネス」は、僕がかつてやっていたドゥーワップの音楽の類に比べると「やすり」のように極端に粗いテクスチュアを持っている。ドゥーワップはもっとスムーズだからね。そして、ボビー・ブランドのようなR&Bのミュージシャンはも粗く、生々しく、ファンキーでブラックなサウンドだった。これまでの歴史を通して、様々な文化が根絶され息絶えてきたけれど、僕個人としてはこういう「ブラック」なサウンドが息絶えるなんてことにはならないでほしいと願っている。

蓮見令麻

蓮見令麻(はすみれま) 福岡県久留米市出身、ニューヨーク在住のピアニスト、ボーカリスト、即興演奏家。http://www.remahasumi.com/japanese/

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