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From the Editor’s Desk 稲岡邦彌No. 279

From the Editor’s Desk #2「チック・コリア生誕80年トリビュート・イベント」
「Talk Session チックと日本」

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

チック・コリアの誕生日である6月12日に彼のレガシーを再確認し、後世に伝えるイベントが催され、VimeoとFacebookを通じて配信された。本来であれば、大の日本びいきであるチック本人が来日し、ファンも参加して80歳を祝うイベントが企画されていたようだが、あろうことか突然、2月9日、天に召されてしまったのだ。
6月12日、銀座ヤマハの2階に新規開店したラウンジに生前チックといろいろな関わりがあった関係者が集まり、一般ファンの知り得なかったナマのチックのエピソードが次々に披露された。音楽的成果や歴史的事実についてはGRPレーベルの担当であり、当日、小川隆夫とともにMCを務めた青野浩史が随時クロノロジカルに確認していった。
まず、チックの初レコーディングについて、Riversideレーベルの研究家である古庄紳二郎モンゴ・サンタマリア『Go, Mongo!』(1965) のアルバム・ジャケットを持参、チックが Armando Coreaの本名で参加している事実を確認。
初来日は、1968年5月のスタン・ゲッツ・カルテット。サラ・ヴォーンのバック・バンドを抜けてゲッツの誘いに乗った事実は小川隆夫が証言した。DUGの中平穂積がコンサート明けにハング・アウトに来たゲッツとチックの写真を持参、当夜の模様を詳細に語った。客のリクエストに首を振っていたゲッツが村岡建のサックスを手にするや、とうとうチックとのジャムは明け方まで続いたという。同席していた小川隆夫少年は高校生でボサノバからゲッツに接近したというから早熟の極みだ。
いちはやく追悼特集を組んだ本誌からは悠雅彦主幹と編集長の僕が招かれた。病み上がりの身体を運んで来られた悠主幹はよく事情を飲み込めないまま「サークル」について問われ、「チックというよりもアンソニー・ブラクストンに興味があって..」とどこまでも正直な感想を述べる。じつは、かくいう僕も「サークル」が好物で、隣席の池上比沙之も「チックにサークルが好きだといったら、君は哲学者か」と言われたとカミング・アウト。72年から10年間、日本におけるECMのレーベル・マネジャーを務めた僕は『リターン・トゥ・フォーエヴァー』(RTF) について。当時、道玄坂にあったヤマハの輸入レコード店でRTFを購入、これは大ヒット間違いなしとすぐECM本社に手紙を書いたがすでにポリドールに先約済み。まもなく、あちこちのジャズ喫茶から<フィエスタ>が流れ出し、BGMとして使った吉祥寺のアーケードでは<フィエスタ>の高揚感が客の購買意欲をそそったという。通常、レコードのA面をかけるジャズ喫茶ではRTFに限っては<フィエスタ>を流したくてB面をかけていた、などの時代証言。RTFの専属を見送ったECMはチックの他の魅力開発に勤しみ、チックもECMならではの成果を残した。

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第二部の評論家池上比沙之はチックとの非常に個人的な交わりについて語る。夫妻との京都旅行や、クラシックのレパートリーや参照すべき演奏についての相談など。チックのクラシックの演奏については池上の意見が反映されていたのかも知れない。
第三部の「日本発のプロデュース時代到来」では、GRP青野浩史とカンバラミュージック小高秀一のコンビがチックを啓発してさまざまなプロジェクトを展開していった、チックにとってはチャレンジングな時代だったといえるだろう。パルテノン多摩と組んだ連続企画、都市部に限定しない地方都市との連携など、日本側の叡智がチックの大きな刺激となる。この頃、小高が撮影した松島湾でカモメと戯れるチックの貴重な動画が、このトリビュート・プロジェクトのFacebookのタイトルバックに使われている。小高とチックの親密さが窺われる映像だが、やはり、RTF以来、チックとカモメは不思議な縁でつながっている。
第4部には、東京JAZZにチックを担ぎ出した当時のプロデューサー八島敦子が登場、チックとのコラボを語る。八島もチックとの最初のコンタクトはFacebookのMessengerを通してだったというから面白い。
スペシャル・ゲストとして唯一演奏を披露した小曽根真。彼のクラシックへの進出はチックからのアドヴァイスが原点と聞き正直驚いた。アドヴァイスを聞き入れてクラシックをこなした小曽根の才能と努力にも敬服するが。かつて、小曽根から四国でのオケとの協演のビデオを見せられ、「終演後、オケのメンバーから小曽根さんと協演してリズムの大切さを再認識しました。今まではメロディーにばかり腐心していましたから、と言われた時はクラシックをやって良かったと思った」、と聞かされたことを思い出した。チックがもうひとり取り立てて成功したピアニストの例は良く知られている上原ひろみである。彼女が高校生の頃、ヤマハで練習する上原を見初めていきなりチックが自分のステージに引っ張り出したのだ。
今回のイベントを通して再確認できたのはチックの決断力の速さ、フットワークの軽さだろう。これらは、才能ととともにチックがこれだけ幅広い活動ができた大きな要因だろうと思われる。
その小曽根真が最後にチックに捧げた曲は、小曽根がクラシックに進出するきっかけとなった小品、チックとゲイリー・バートンの『セクステットのための叙情組曲』(ECM1260,1983) のなかの<Brasillia>だった。
キース・ジャレットの二度の脳梗塞による現場復帰断念に続いてチック・コリアが倒れた。マイルス・デイヴィスの薫陶を受け大きな影響力を残して来たピアニストで残るは最年長のハービー・ハンコックだけとなった。彼らと同等の才能と影響力を持つピアニストは果たして今後現れるのだろうか。チック・コリアのレガシーを前にしてあらためてその感を強くした。(文中敬称略)

 

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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