悠々自適 #88『新生東京キューバンボーイズを聴いて在りし日が甦った』

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text by Masahiko Yuh 悠 雅彦
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はじめに
Jazz Tokyo で主幹を務めるようになってからこのかた、例えどんなに巻頭文にふさわしいテーマや話題に事欠いたからといって、穴埋めがわりにコンサート評(ライヴ評)を巻頭文として扱ったことは一度もない。今回初めてこの鉄則を破り、ビッグバンドとしてわが国で最も古い歴史を誇る東京キューバンボーイズ(TCB)が結成70周年を迎えたことを祝って、初めて巻頭文で祝福することにした。
ちなみにTCBはリーダーの見砂直照(ただあき)が戦後間もない1949年に結成し、わが国屈指のラテン・オーケストラに育て上げたことは周知の通り。詳細は分からないが1980年に解散し、直照氏が死去(1990年)したことでTCBの歴史にいったん幕が下ろされたのであった。2005年にキューバで催された国際音楽祭に、往年を知るキューバからの熱心な招きに応える形で再結成の機運が高まったというのが、新生TCB誕生の秘話ということになろうか。かくしてTCBは蘇った。その新しいリーダーが直照氏の実子、和照である。その和照がメンバー紹介で毎回熱い思いを込めたのが、TCBの誇るラテン・パーカッショニスト、とりわけボンゴ演奏にかけては他の追随を許さなかった納見義徳への賞賛だった。その納見が去る2月22日に突然亡くなった。彼がこの世を去ったことに触れる和照氏は私の目には本当に泣いているように見えた。
しかし正直に言えば、以上は表向きの理由で、本当はこのバンドが本場のキューバでも熱い注目を集めるほどの実力を誇り、日本のラテン音楽界を文字通り牽引していた時代から憧れの的でもあったTCBに熱い視線を注いでいた私にとって、若かりしころの忘れられない思い出があるのだ。それらについてはコンサート評の後で、そっと、付け足し風に書いて締め括ろうと思っている。

東京キューバンボーイズ結成70周年記念コンサート
文京シビックホール大ホール 7月12日(金) 17:00~19:50

①<第1部>オペレーション ”ビッグバンド・スコープ”
1.ビギン・ザ・ビギン
2.セント・ルイス・ブルース
3.二人でお茶を
4.イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー
5.ドレミの歌
②<第2部>ラ・フィエスタ
1.イントロダクション/オープニング
2.マンボ・イン
3.ノ・メ・ジョーレス・マス~グアンタナメラ
4.タブー
5.嘘つき女
6.クラシケンド・コン・ルベン
7.チャン・チャン
8.ソン・デ・ラ・ロマ
9.メドレー:ノーチェ・クバーナ~グリーン・アイズ~キエレメ・ムーチョ
10.エル・カルボネーロ
11.シボネー~ソン・トレス・パラブラス
③<第3部>ザ・レガシー・オヴ・東京キューバンボーイズ
1.マンボ・ナンバー5
2.セレソ・ローサ
3.ザビア・クガート・メドレー(マイ・ショール~マイアミ・ビーチ・ルンバ~キサス・キサス・キサス)
4.城ヶ島の雨
5.闘牛士のマンボ
6.エル・クンバンチェロ

見砂和照と東京キューバンボーイズ
tp:ルイス・バジェ、石井真、竹内悠馬、城谷雄策
tb:大高實、内田日富、早川隆章、佐々木匡史(b–tb)
reeds:貫田重夫 as、加塩人嗣 as、Hal 斎藤 ts、五十嵐正剛 ts、武田和大 bs
rhythm:あびる竜太 p、武藤祐二 b、矢野顕太郎 ds、石川浩 conga、斎藤恵 timbales、佐藤唯史 bongo
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Cuban special percussion:たけうちtatata、矢坂順一、大野孝、星野ともこ
singer:カルロス・セスペデス、岸のりこ、奈奈カンタリーナ chorus、mUcho tress、vcl、山本大 vcl
dancer:Somos Cuba ( Popi & Yayi ) Sabor a Cuba (Niki、 Yoriko、 Misa)
総合司会:露木茂

友情出演:
アロー・ジャズ・オーケストラ
宗清洋:Leader 、tb
tp:渡辺隆、ユン・ファソン、田中洋一、築山昌広
tb:谷口知巳、大迫明、中嶋徹
reeds:河田健 as、小林充 as、宮哲之 ts、高橋知道 ts、泉和成 bs
rhythm:石田ヒロキ p、宮野友巳 b、中村たかし g

日本を代表するラテン音楽のビッグバンド、東京キューバンボーイズがついに結成70周年を
迎えた。現在のリーダー、見砂和照(かずあき)の父である見砂直照(ただあき)氏(1909 ~1990)がバンドを結成してスタートを切ったのが戦後間もない1949年。その全盛時には日本はもとより世界屈指のラテン・ビッグバンドとして名を馳せ、本場のキューバでも高い評価を得るなど、東京キューバンボーイズの2年後に世に出た原信夫とシャープス&フラッツと競い合うようにして日本のポピュラー音楽界を牽引したのであった。原信夫(現在92歳)もこの日のプログラムに寄せた一文の中で「ラテンとジャズの饗宴と題して東京キューバンボーイズと各地を巡演した懐かしい思い出」を語っている。東京キューバンボーイズは1980年に解散し、栄光の歴史の幕を閉じた。その名門バンドを復活させたのが直照氏の子息、和照氏である。
この日は3部構成で、そのためもあってか夕刻5時の開演だった。終了したのは終了予定の7時半をはみ出すほどの熱演の連続で、客席(1802席)を埋め尽くした老若男女(ただし、老が若を圧倒した)の拍手歓声がかくも熱狂的なコンサートは本当に久しぶりだった。もし故人が健在だったら、何とおっしゃったろうか。招待席にはかつて競い合ったシャープス・アンド・フラッツの総帥・原信夫氏の姿もあり、恐らく過ぐる半世紀以上前の黄金時代を思い返し、心中を感涙で満たしていたのではないか。コール・ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」で開演の幕を開け、「セント・ルイス・ブルース」や「ティー・フォー・トゥー」をはさみ、再びポーターの「イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー」などジャズのスタンダード曲として馴染深い楽曲を並べて演奏したのも、ある意味では歴史を刻印した往時に敬意を評してのリーダー和照氏の発意だったのかもしれない。だが、この「ビッグバンド・スコープ」と銘打った第1パートが抜群に良かった。恐らく私の勝手な類推だが、故前田憲男氏らによる当時のスコアを最大限尊重しながら新たに東京キューバンならではの持ち味を生かすべく再編曲した貫田重夫のスコアづくりがこの感動をもたらしたのではないだろうか。それは恐らく続く第2部の「ラ・フィエスタ」、そして「東京キューバンボーイズの遺産」と銘打った第3部などにも共通して言えることだろう。過去に200枚を超えるアルバムを世に出した東京キューバンの全てを熟知したヴェテラン、貫田重夫ならではの作業の成果といってよいのではないか。
とりわけ「Legacy 過去の遺産」と銘打った最後の第3部。「マンボ・No 5」から「セレソ・ローサ」、「キサス・キサス・キサス」を含むザビア・クガート楽団のヒット・メドレーときて、あの懐かしい「城ヶ島の雨」になったとき、思わず涙した。かつての東京キューバンの珠玉ともいうべき1曲。故・内藤法美(1929~1988)の珠玉のアレンジが梁田貞(やなだただし)の素朴な旋律を絹糸のように浮かび上がらせる。「隅田川」とともに忘れられない梁田貞(作詞・北原白秋)の傑作を、内藤が鮮やかに蘇らせた1曲であった。このあと「闘牛士のマンボ」を経て終曲の「エル・クンバンチェロ」。そしてあの忘れがたいテーマ曲「ウィズアウト・ユー」へ。この曲が米国経由で日本へ入ってきたのは終戦直後だったこともあって、しばらくは米国産の曲だとばかり思い込んでいた私だったが、のちにハヴィエル・ソリス(1931~1966)の歌を聴いてメキシコ産のボレロだと知った新鮮な驚きが懐かしい。

「ラ・フィエスタ」と銘打った第2部以上に、私は第1部と最後の第3部を聴いて忘れがたい我が青春時代を取り戻した。
ソロでは何といってもキューバのハバナ生まれで、1997年以来日本で活動するトランペット奏者ルイス・バジェが光ったが、アンサンブルもよくそろって見砂和照の期待に応えた。岸のりこをはじめとする客演シンガー、キューバ出身の ダンサーでナルシソ・メディナ・ダンス・カンパニーの教師ヤジとポピによるSomos Cuba のアクロバティックなダンスをはじめ客演したゲストたちの好演も讃えたい。
しかしゲストで光ったピカ一といえば、何と言っても友情出演として大阪から馳せ参じたアロー・ジャズ・オーケストラだったと言っても過言ではないだろう。何より驚いたのがリーダーの宗清洋。その昔、原信夫とシャープス&フラッツに在団したこともある彼は、何と今年83歳。指揮をすることに専念すると思いきや、驚いたことにオーケストラを指揮しながら各曲でソロ(トロンボーンで、だ)をとったのだから、快事以外の何物でもない。そのプレイの素晴らしさは、目隠しテストで聴いたらどう聴いても4、50代のプレイヤーの演奏としか思えないのではないか。まるで老いがないのだ。一瞬、尻を叩かれているような気がした。全体的にも大阪屈指のオーケストラとしての力量と貫禄を発揮した客演演奏ではあった。

ここからは過去には明かしたこともない個人的な逸話を話の展開上やむをえず挿入することにした。興味がおありの方以外はここからは遠慮なく座をお外しいただきたい。
大学(早稲田)に入ったころの話から始めたい。すなわち50年代半ば過ぎ、私はジャズにとりつかれた。戦時中、家にあったSPレコードをそれこそ寸暇を惜しむようにして聴くことで始まった洋楽体験が、ジャズに親しむようになった途端一変した。大学では必須のシェークスピアやスタインベックそっちのけでジャズに夢中になり、やがて最初の1、2年でNHKのFM放送を中心にジャズの歴史的名盤のあらかたを聴く好運を授かった。もしこの貴重な歳月がなかったら、私は恐らくジャズとの蜜月を重ねることはおろか音楽からは見放される悲運を体験することになっていたかもしれない。デューク・エリントンやカウント・ベイシーに始まって、チャーリー・パーカーやバド・パウエル等々。放送の予告でこれはという演奏家のプログラムが紹介されれば、授業を進んでボイコットしたことも。だが、振り返ってそれが私の貴重この上ない財産となっていることに思いを致せば、人生では何が幸を生むか判らないものだと思わずにはいられない。やがて溜まった小遣いをはたいて手に入れたマイルス・デイヴィスの「ラウンド・ミッドナイト」、ジョン・コルトレーンがセロニアス・モンクのバンドで自己を啓発させた演奏、あるいはソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」などでの名高いソロを飽きもせず聴いて、そらで口ずさめるまになったその中にはライオネル・ハンプトン・オールスターズの「スターダスト」もあり、ジャズ・インプロヴィゼーションの永遠の記念碑的演奏に酔わされた。

このころ私は早稲田のハイ・ソサエティー・オーケストラ(ハイソ)部に入部した。座付シンガーになろうと思ったのだ。当時ハイソには八色賢介がシンガーとして活動していたが、彼が突然東宝映画からスカウトされたため幸運にも私がハイソのシンガーとして舞台に立てるチャンスを手に入れたのだ。もっとも、歌う機会はさして多くはなかった。見兼ねた先輩が私をあるプロのビッグバンドの元へ連れてゆき、リーダーに引き合わす労を取ってくれた。その御大が当時、東京パンチョスというラテン・ビッグバンドを率いて活躍していたチャーリー石黒(石黒寿和/1928~1984-12-14)だった。今日、氏を知る者がどれほどいるかは知らないが、早稲田の理工科を出てまもなく東京パンチョスを結成して活躍し、その一方で布施明や森進一をスターに育て上げるなどの手腕を発揮した気さくなリーダーだった。東京パンチョスが常時演奏していたホールが当時の飯田橋松竹というダンスホールだったが、チャーリーはよほど面倒見のいいリーダーだったと見え、直後に”ファイヴ・キャラクターズ”を組んで<日本初の歌って踊れるグループ>として、のちの69年には「港町シャンソン」などのヒットを生んだ原田信夫らもしばしばこのバンドで練習として歌ったりした。当の私もバンドの骨休みにピアノの伴奏だけでスタンダード曲を歌わせてもらった遠い日々が今は懐かしい。

話が突然脱線するが、当時新宿のコマ劇場のすぐそばに「ラ・セーヌ」(ラセーヌの一文字だったかもしれない)という音楽喫茶があり、東京パンチョスが出演するときは学校の授業と重なっていなければ、必ず聴きにいったものだった。ときには東京キューバンボーイズが出演し、東京パンチョスと代わるがわるラテンの演奏を提供することがあり、ラテン曲愛好家にとってはまさに至福の1日となった。
ところで、私がハイソのシンガーとして承認されてまもなく、ハイソの専属シンガーを目指して入部してきた小柄な男がいた。それがかの納見義徳(1940~2019)だった。彼は私がプロの歌手(クラウン・レコード)として別の道を進んだとき、踏みとどまってハイソの活動に挺身した。彼が歌手志望でハイソに入部してきたとき、私が在籍していたことで念願のハイソのシンガーとなることは認められなかった。あるとき同僚だった男がそのときのやりとりをこんな風に茶化して言った。「今のところ歌い手の空きがないんだ。空きが出るまで打楽器でも叩いていろよって言ったんだ」。納見がその男の忠告を素直に受け入れて、打楽器奏法の習得に精を出したかどうかまでは分からない。だが、のちに分かったことだが、彼は疑いもなくラテン打楽器、とりわけボンゴ奏法に活路を見出し、ボンゴによるサウンド表現と真剣に取り組み、技術的な達成に向けて格闘するようになったのだ。それはちょうど私がホワイノット(Whynot)というジャズ・レーベルを立ち上げて活動を開始したころと機を一にする。
これも後で判ったことだが、私がホワイノットのレコーディングでジョー・ボナー、リチャード・エイブラムス、ウォルト・ディッカーソン、ジョージ・ケイブルス、AIR 等々の吹込をプロデュースするためニューヨークやシカゴで奮闘していた時も同じ1975、76の両年、納見もまたキューバとメキシコで打楽器奏法の奥義を極めようと格闘していたのだ。帰国後、彼が東京キューバンボーイズや遠藤律子のFunnky Ritsuko Versionなどでボンゴを軸にラテン打楽器の真髄を披露し、後続のパーカッション奏者たちを鼓舞したことを忘れてはならない。見砂和照氏が涙を隠さずに納見義徳の死を悼み、その納見が再出発した東京キューバンボーイズのかけがえのないホットコーナーの主であり続けたことを改めて讃えるとともに、彼の冥福を祈りたいと思う。(2019年7月18日記)

悠雅彦

悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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