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悠々自適 悠雅彦Monthly EditorialNo. 260

悠々自適 #90 龝吉敏子 ~ the 90th  Anniversary ~

text by Masahiko Yuh 悠 雅彦

龝吉敏子 ~ 90th  Anniversary  Live ~
2019年11月8日(金曜日)19:00   東京文化会館小ホール

あと約1ヶ月後には穐吉敏子さんはとうとう90歳(!)を迎える。しばらくお会いしていなかった龝吉さんがステージに現れる瞬間を、いささか不安な気持ちで私は凝視した。会場は東京文化会館小ホール(649席)。ところが彼女が舞台下手から姿を現した瞬間、思わず安堵感が走って胸をなでおろした。自分でも驚くほどの穐吉さんの元気さを客席から見て、これが来月(12月)の12日に90歳を迎える方とはどうしても思えない私の脳裏を、あるニュースがこの瞬間にふとよぎったのだ。それは今年93歳になる作家の佐藤愛子氏が書いた新刊本のタイトルだった。曰く『九十歳。何がめでたい』。龝吉さんとてこの元気さぶりだもの、きっと佐藤愛子さんと同じセリフを吐くのではあるまいか。

穐吉さんの思い出というと、およそ30年ほど前になるだろうか。当時、朝日新聞のレコード評やコンサート評を担当していた私に、龝吉敏子さんの半生記と音楽について書くようにとデスクの責任者から依頼があり、たしか1989年の夏だったかにニューヨークの龝吉さん宅を訪ねてあれこれと尋ねては、色々と教えていただいたりしたことがあった。今回、彼女のソロのコンサートを中心に巻頭文を書くにあたってその時の思い出話に触れようと朝日新聞の文化欄に寄稿した長文の原稿を探してみたが、何せ30年くらい前のことゆえ残念ながら見つけることができなかった。

それはともかくとして1940年代末にピアノを演奏するミュージシャンとしての第1歩を飾り、50年代初頭にコージー・カルテットで活躍した往時を知る人はほとんどいなくなったものの、トシコ、渡辺貞夫、宮沢昭、原田政長(栗田八郎)、富樫雅彦(白木秀雄、猪俣猛)といった当時のそうそうたる、日本のモダン・ジャズの夜明けを飾ったミュージシャンたちのグループ演奏が日本のジャズの歴史を作ったことだけは決して忘れてはならないだろう。演奏家としての本格的なスタートを切った龝吉さんの、これがいわば出発点だった。その彼女が来日したピアノの巨人オスカー・ピーターソンの推薦で記念すべき1作『Toshiko』を吹き込んで4年後、56年に26歳で渡米し、バークリー音楽大学へ入学した。恐らく一念発起したのだろうが、これが彼女にとっての一大転機となった。卒業後ニューヨークで新たな音楽人生に入った彼女が、敬愛するチャールス・ミンガスらに会い、彼のワークショップ・グループに入ったのが62年。チャーリー・マリアーノと出会って結婚したのが翌63年で、彼との間に娘のマンデイ満ちるを授かるなど、彼女の目まぐるしい人生回転が始まったといってよい。

その彼女が数年後の1969年にテナー・サックス奏者のルー・タバキンと再婚し、新たな音楽人生の第2ページを開始した。それが龝吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドの出発で、1974年に発表した第1作『孤軍』は大きな反響を呼び、日本でも大きな話題となった。さらに82年にニューヨークに戻った夫妻は、翌83年に改めて穐吉敏子ジャズ・オーケストラ・フィーチュアリング・ルー・タバキンとして再出発した。その甲斐あって、1979年から5年連続で全米批評家投票の第1位に輝き、まさにトシコここにありを堂々と示したのであった。

90年代終わりごろから今日にいたる穐吉さんの歩みや業績等については、恐らくジャズ・愛好家の皆さんならよくご存知だろう。例えば、1996年、著書『ジャズと生きる』で日本の音楽執筆者の集まりであるミュージック・ペンクラブのポピュラー部門で最優秀賞に、翌年の1997年には紫綬褒章に輝いた。ジャズの殿堂入りを果たした1999年の翌2000年には東京都文化賞、4年後には朝日新聞文化財団の朝日賞、2006年にはジャズ・マスターズ賞等々、この約20年ほどは表彰ラッシュだった穐吉さんにとって、音楽以外でも実に多忙な日々だったと言っても間違いあるまい。

その穐吉敏子さんが90を目前にして東京文化会館小ホールのステージに若き日を偲ばせるような溌剌とした足取りで登場し、そのままステップを踏むかのようにピアノへ向かった。プログラムには岡崎正通氏が訊き手となって穐吉さんが答えるインタヴューが掲載されている。その中で彼女が大絶賛しているのが、会場となった東京文化会館のホール。むろん彼女が演奏した小ホールの方だ。確かに聴衆の1人となって聴いたとき、厳密には座る場所にもよるが、この小ホールの音はとてもいい。やや硬質でありながら混じり気のない、つまり人工的に造られたごまかしのまったく感じられないこの会場の音響が穐吉さんの感性とぴたりと合致していればこその快感、それがこの夜の彼女の高揚感と溌剌とした気持ちのいい演奏を導き出したといっても言い過ぎではないほど、実に笑顔を絶やさぬノリのいい演奏だった。別の角度から見れば、いい響きのホールで演奏することの喜びを彼女が事前に知っているからこその体内リズムが、恐らくは演奏直前に活性化したのに違いあるまい。先に触れたインタヴューの最後で、今回が9回目の出演となるこの小ホールを彼女は大絶賛している。「ここはお世辞抜きにいいホール。私は大好き。それだけで演奏するのが楽しい。このホールはただ小さいだけでなく、ホール自体が非常に温か。ピアノを演奏していると自分とピアノとの関係が非常に温かく感じられて大好き。あれだけ温かいって感じるホールはあまりない」、と手放しだ。実際、この小ホールへは2005年以来なんと9回目の出演だとか。彼女は心からこの小ホールの音の佇まいが素晴らしいと、まさに手放しで褒めちぎっているのだ。

コンサートはいつものように、「ロング・イエロー・ロード」で始まった。穐吉さんの原点といってもいいオリジナル。イエローは黄色人種の自らを、その長い(ロング)歴史の中で生を育んできた日本人の歴史と重ね合わせた、彼女の原点とも言える作品。彼女にとってテーマ曲でもあるが、その淀みないスムースな指使いからは、これが来月(12月)には90歳を迎えるピアニストの演奏とはどう聴いても思えない。果たして自身がいたく気に入っているこのホールの音響にこの瞬間も満足しているのかどうか。少なくとも終始笑みをたたえたまま90を目前にしたピアニストとは思えない躍動感が彼女の全身から弾け飛ぶ。1999年にデューク・エリントンの生誕100年を記念してモンタレー・ジャズ・フェスティバル側の委嘱で作曲したという「デイ・ドリーム」など全5曲が奏された。最後の「マイ・エレジー」は、彼女自身によればあまり弾いたことがない曲だとの紹介だったが、恐らく個人的に好きな作品なのだろうと想像した。

いささかクールな感じのファースト・セットだったが、休憩後のセカンド・セットは演奏自体もホットになり、曲紹介に費やす穐吉さんじたいの話も熱がこもって流暢になった。冒頭の「木更津甚句」。リズムを左手で激しく奏しながら、その上に右手で素朴なメロディック・ラインを正確に乗せていくその味わい豊かなリズムと演奏の間など、「えっ、これがまもなく90歳を迎える人の演奏?」と思わず呟きそうになるほどの活きいきとして闊達な演奏。のみならず、敬愛するデューク・エリントン(むろんビリー・ストレイホーンも同様)、セロニアス・モンクや彼女にとっては師のような存在であるバド・パウエルらへの愛情をピアノのキーに向かって、時には語りかけるように、時にはそっと囁くように愛情を注ぎ込む、穐吉さんの音楽を心底楽しみながら偉大な先達への感謝を決して疎かにしない人間味豊かなソロ演奏に、人々は楽しむというより酔いしれた。

この夜は空席が目に入らないくらい、上々の入りだった。このホールは649席だが、ここでの演奏で観客が満杯だったコンサートはほとんど記憶がない。それだけに当夜の穐吉さんのお喋りとピアノ・ソロの演奏に舌鼓を打つ人々の笑顔と楽しむ姿が実に印象深かった。

<第1部>
1. Long Yellow Road   2. Eulogy   3. From Bach’s Invention  4.  Day Dream   5.  My Elegy

<第2部>
1.  The Village(木更津甚句) 2. Take the A Train( A列車で行こう)3. Over the Rainbow(虹の彼方に) 4. Body And Soul(身も心も)5. Round Midnight(ラウンド・ミッドナイト) 6. Un Poco Loco(ウン・ポコ・ロコ)7.  Darn That Dream(いやな夢) 8. Polka Dotsand Moonbeams(ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームズ)      9.  Tempus Fugit(テンパス・フュージット)

<アンコール>
1. 月の砂漠   2. Hope(ホープ)~ From Hiroshima Rising from Abyss

ご存知のように、穐吉さんはチャーリー・マリアーノと別れた後の1967年にテナー・サックス奏者ルー・タバキンと出会って結婚(1969年)し、1973年に協力しあってロスで穐吉=タバキン・ビッグバンドを結成した。翌1974年に発表した『孤軍』は世界的にも大きな反響を呼び、1979年から5年連続で読者投票では1978年から5年連続で第1位、批評家投票では79年から5年連続で第1位に推されるという輝かしい成果を生み、押しも押されもせぬビッグバンド界の救世主的存在となって斯界に君臨することになった。彼女は1982年にニューヨークへ戻り、翌年にニューヨークの精鋭を集めて新たに穐吉敏子ジャズ・オーケストラ・フィーチュアリング・ルー・タバキンと名を改めたビッグバンドを再結成し、その充実した音楽的成果によって以前と変わらぬ評価を受けたことは周知の通りだ。

この数年、穐吉さんの音楽活動は多岐にわたっていて、マリアーノとの間に設けたマンデイ・ミチル(Monday 満ちる)とのジョイントで『ジャズ・カンヴァセイションズ』(ビクター・エンタテインメント)を吹き込み(2015年)、近くは去る10月末に発売されたばかりのルー・タバキンとの『 The Eternal Duo ! 』(CBSソニー/CD+Blu–ray)がかなりの反響を呼んでいる(ちなみに、このCDには龝吉敏子、ルー・タバキンへの45分余にわたるインタヴューが収録されている)。

龝吉淑子さん個人も、例えば著書『ジャズと生きる』で1996年に第9回ミュージック・ペンクラブのポピュラー部門最優秀賞に選ばれたり、翌1997年には紫綬褒章を、明けて2000年には東京都文化賞を授与されるなど、90年代末から2000年代にかけての数年間は、まさに多年にわたる奮闘と活躍が大きく評価され、まさに栄えある名誉に包まれた龝吉敏子イヤーズであった。2年後の1999年にはジャズの殿堂入りを果たし、2005年(1月)には朝日新聞文化財団の朝日賞(2004年度)を授かり、また12月に初めてシングル盤で「Hope」を発表した2006年にはジャズ・マスターズ賞に輝くなど、まさに留まることを放棄したかのような受賞ラッシュが続いた。この「Hope」は2001年8月の原爆の日に広島で初演した曲。

「ところがニューヨークへ帰った直後に9.11の同時多発テロが起こった。これは大ショックだった。以来、平和を念じ、どこでも必ず最後に演奏することに決めた」と彼女は語る。この日、彼女は「Hope」をそのとき以来と同様、最後(この夜はアンコールの2曲め)に演奏して締めくくった。

龝吉さんと同じ1929年生まれのミュージシャンにクラリネットの北村英治がいる。私は大学を出た直後に北村さんのグループに専属シンガーとして在籍したことがあるので、彼の温厚な人柄をよく知っている。その北村さんは4月8日の生まれ。ということは北村さんの方が穐吉さんより8ヶ月も年長ということになる。それはともかく両者のあの元気な演奏ぶりから察すると、穐吉さんも北村さんももしかすると100を越えてもプレイしているのではないかと思うと何やらワクワクしてくる。機会があったら共演してくれないかしら?

閑話休題。

アンコールの第1曲は童謡で馴染深い「月の砂漠」。この曲もソロ・ピアノ演奏にスケジュールを割くようになって以来、アンコールの定番曲となった感がある。先に触れたインタビューの中で、彼女が面白いエピソードを紹介している。先に彼女がビッグバンドを率いて世界的にも大きな成功を収めるようになってからというもの、自分に課されたソロ・パートのところを、普段ソロ演奏ができずにいるプレーヤーのために譲るようになったというのだ。ところがあるとき・ニューヨークのある有名なクラブで演奏していると、一人の女性が彼女のそばに来て「ひょっとして、あなたピアノが弾けないの」と言ったというのだ。彼女がソロでピアノを演奏する機会を増やした、これが最大の理由だと。また、トリオ演奏だとベース奏者やドラマーから曲目やソロなどで不満が出ることがある。これにはピアノの自分が責任を取らなくてはならない。ソロだとその煩わしさがない、と彼女は割り切っていう。

当夜演奏した楽曲の3分の1は、先に紹介したルー・タバキンとのデュオによる最新CDでも聴くことが出来る。前段でも触れたが、この夜セカンド・セットで演奏した冒頭の「ザ・ヴィレッジ」はトシコが「木更津甚句」をもとに作った1曲で、左手が規則的にめまぐるしく動く、いわゆるジャズのストライド奏法的なパターンが面白い。解説文には8分の15拍子とあるが、そんなことにはとらわれず右手のアドリブを聴く楽しさは格別。これはタバキンとのデュエット演奏と比較して聴くと興味深い。龝吉さんといえば、例外なく引き合いにだされるのがデューク・エリントンとバド・パウエルだろう。「A列車で行こう」とパウエルの「ウン・ポコ・ロコ」は彼女にとっては聖典に近い曲でもあろう。もしかすると「虹の彼方に」や「身も心も」などもパウエルの演奏に印象付けられている曲かもしれない。そして、にこやかな笑顔でアンコール演奏に入ったトシコ。「月の沙漠」では途中で笑い声を立てたり、すっかり調子に乗った彼女らしいユーモラスで時にひょうきんな弾きっぷりに相好を崩し、後半は聴衆もすっかりトシコ節に浸って90歳の饒舌(演奏の)を楽しんだのであった。(2019年11月19日記)

悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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