#92 二人のピアニストからの贈りもの〜藤井郷子と野力奏一
text by Masahiko Yuh 悠 雅彦
photos: private collections
2019年も押し詰まった12月のある夕刻、藤井郷子さんから声がかかった。向かったのは新宿三丁目の伊勢丹デパートに近い通りに面した DUG。主宰者は田村夏樹と藤井郷子夫妻。夫妻に招かれた本JAZZ TOKYO誌の編集長・稲岡邦彌氏をはじめ夫妻が声をかけたメンバーの顔が揃い、やや遅れて皆がたむろする階下の歓談の輪にオーナーの中平穂積氏が加わっていつもの年と変らぬよもやま話の花が咲いた。実はオーナーの中平穂積さんとは私にとって久しぶりの再会だった。氏とは私の拙い記憶で恐らく10年以上お会いしていなかったような気がするが、外目にはさすがに年輪を重ねた跡を感じさせたその一方で、その後の団欒を通して氏の確かな記憶力と口調の滑らかさにはすっかり眼を見張らされることになった。
実は、その何日か前、ピアニストの野力奏一がピアノ調律師の宮崎剛史氏の私邸で親しい知人だけを招いたソロ・コンサート(後述)を催したとき、2台あるピアノの一方にセシル・テイラーのライヴ盤『アキサキラ』が飾ってあった話題が皮切りとなって、話が途端に弾み始めたのだ。何せフリー・ジャズへの関心では誰にも引けを取らない中平さんのこと。とりわけセシル・テイラーとなれば、オーネット・コールマンとともに当時氏が最も熱心に後を追っていたフリー派の巨頭だっただけに、恐らく10指を超えるさまざまな話のネタをお持ちであるに違いない。故植草甚一氏に捧げた『新宿DIG DUG物語/中平穂積読本』(高平哲郎編/東京キララ社~三一書房)を読むと、氏がいかに写真家として優れたセンスの持ち主であるばかりか、何より無償の真心でジャズを愛する生粋のジャズ愛好家であるかが実によく分かる。この本の中に<植草甚一さんとの出会いはセシル・テイラーのおかげ>(この本ではセシル・テーラーと表記されている)とあるが、それを持ち出すまでもなく中平氏のフリー・ジャズへの傾倒は即セシル・テイラーの音楽行為にいたく触発された最初の出会いが象徴的に示していた。『アキサキラ』といえば、セシル・テイラーの初来日コンサートの主だった公演の司会を、いまは亡き鯉沼利成プロデューサーの勧めでつとめたのが実はかくいう私であった。その京都公演(1973年5月20日)をピアニストの野力奏一が見たと聞いた時は驚かずにはいられなかった。というのも、当時の彼はわずか15歳。私はといえば35歳だった。父親が率いていたフルバンドで演奏しはじめたのが17歳だったというから、彼は10代の頃からすでにピアニスとして身を立てる覚悟をしていたということだろう。
右写真 (L to R):悠雅彦・中平穂積・藤井郷子・田村夏樹・稲岡邦彌・大久保哲郎
楽しかった時間は常にアッというまに過ぎた。別れ際に藤井郷子が大きな声で言った。田村夏樹も唱和して加勢した。素敵な夫婦仲だ。”明日みんな公園通りクラシックスへ来てよ。このドラマーを聴き逃したらきっと後悔するからね”。
■ 藤井郷子 東京トリオ
藤井郷子 Piano
須川崇志 Bass
竹村一哲 Drums
2019年12月20日 渋谷・公園通りクラシックス
藤井郷子さんにそこまでハッパをかけられたら、万難を排して聴きに行かずばなるまい。と、それほどまでに奮い立ったわけでもないが、今回に限ってはカケが当たるような予感があった。ある種の怖いもの見たさの感覚と共通する何かがあるような気がしたのだ。
この会場で久しぶりにマーク・ラパポート(注1)氏と会い、本番前の話が弾んだ、彼は私がプロデュースした<WHYNOT>レーベルのミュージシャンたちの動向にも精通しており、アンドリュー・シリルや藤原清登を筆頭にジョージ・ケイブルス、ヘンリー・スレッギル(AIR)、チャールス・サリヴァン等々らの動向はむろん、80を超えたシリルらが現在もなお爆発的なプレイを見せていることなどの朗報に人知れず涙した。会場の「公園通りクラシックス」に集まった熱心なファンはおよそ30人。ドラマーの演奏をまじかに見るかぶりつきとおぼしきテーブルでマークと並んで2ステージを、まさに終始圧倒され続けながら見、聴いた。須川と竹村にはむろんのことだが、当の藤井郷子の本領が発揮されたとでもいうべき、荒れ狂う潮のごとき音が炸裂し、いや演奏の相手に最良の人を得て自己を解放する喜びに浸りきった藤井郷子の爆発的プレイを久しぶりに目の当たりにして、このトリオを聴いた喜びを形ある情感として体験したことが予想を越えて嬉しかった。
竹村一晢のドラム奏法は、彼が意外によく訓練された環境を経てきていることを感じさせた。一見、優等生的な奏法に見えるが、決してアンサンブル上でハメを外すこともなければ演奏自体を破壊することもないそのプレイは、演奏がどのような状況にあって、演奏者に今この瞬間に何が求められているかを冷静に判断し、その答えをプレイ上で機敏に表すことを的確に、しかも何らのミスも見識を欠く誤った判断もなく対応できる先天的な勘の良さを持っているということだ。ところが、この指摘から想像されるような、いわゆるソツのないプレイをするタイプのクレバー・タイプ一辺倒のドラマーではない。そこが最も竹村一哲らしいドラム奏法の最大の長所だと言って決して間違いではない。その魅力の源泉が、あたかも彼が打楽器奏者になるように生まれてきたことを信じさせる彼の天性豊かなリズムやジャズの即興性に生きいきと対応しうる能力と鋭い勘にあり、眼を見張らせる刺激と想像性に富むドラミングには間違いなく目を見張らされた。藤井郷子がなぜあゝもそのプレイを目の当たりにするよう勧めたかは、そのあたりのプレイの秘密はきっと直接見ることでしか理解し得ないと判断したことにもよるのかもしれない。
ネットで検索すると、かなりの情報が掲載されている。
竹村一哲は1989年12月18日、札幌生まれ。中学卒で活動を開始したということはもうその頃にはドラマーになる決意を固めていたのだろう。横濱Jazz Promnade のジャズ・コンペでグランプリを獲得。板橋文夫トリオで評判を呼び、渡辺貞夫や田中信政のグループでもその演奏と堂々たる対応が注目をひいた、とあった。
須川崇志のベースがまた素晴らしかった。過去に聴いた演奏の中では、といってもほんの数えるほどしか聴いていないが、この夜の演奏が竹村一哲に見劣りするものではなかったことは断じて間違いない。ときに大波が激しく砕け散るかのような藤井郷子のピアノに対しても、あるいは竹村の挑発的で段落の激しいドラム・サウンドが不意に襲いかかるような場面でも、彼が音をはずすことはないし、少なくともあらゆる演奏にきちんと対応する彼のような正確で高度なベース技法があって初めて、この夜のトリオ演奏のようにどれほど激越なフリーであっても起承転結が耳によく入ってくることが、このトリオの演奏でも実によく分かった。
須川崇志は1982年2月、群馬県伊勢崎市生。11歳でチェロを学ぶ。ベースは18歳から。2006年にボストンのバークリー音大卒業後、菊地雅章や辛島文雄ら故人となった日本を代表するピアニストのもとで研鑽を積んで名を挙げ、その後日野皓正、峰厚介、石若駿らのグループでも演奏。冒頭で触れた八木美知依とも共演しているとのことなどが分かった。
(注1)マーク・ラパポート
1958年生まれの演奏家ならぬ、ハイパー演奏家を自認する音楽プロデューサー。広島県出身だけに広島カープ・ファン。彼の前ではカープの悪口は言わない方がいい。妻は先ごろ新吹き込みのCD『Into the Forest ~ 森の中へ』(IDIOLECT ID – 08)を発表したばかりの箏奏者・八木美知依。彼女は沢井一恵の門下生だが、米国滞在中に現代音楽の演奏活動を経験したことで今日の特異な方向性に根ざした音楽を生み出すようになった。新CDは彼女の現在の音楽性を反映したユニークな新作である。
■ 野力奏一 Secret Live at 宮崎剛史 Piano Studio
野力奏一 Piano
2019年12月15日 at 宮崎剛史 Piano Studio
1st Set :
1. Seven Steps to Heaven ( マイルス・デイヴィス/ヴィクター・フェルドマン)2. My Song (キース・ジャレット)
3. Azumabashi (野力奏一)
4. Remark You Made (ジョー・ザヴィヌル)
5. Pastoral (渡辺貞夫)
6. Minor Contention (ハンク・ジョーンズ)
2nd Set
1. Kitchen (野力奏一)
2. 精神(絵理子)(野力奏一)
3. Up With the Lark (ジェローム・カーン~ビル・エヴァンス編)
4. Always And Forever (パット・メセニー)
5. Away (ドリ・カイミ&アレックス・アクーニャ、エイブラハム・ラボリエル)
6. What a Wonderful World ( クリスマス・スピリチュアル)
Enc. 上を向いて歩こう(中村八大)
冒頭で触れた故セシル・テイラーの初来日コンサート、その京都公演を野力奏一が聴きにいったという言葉に、最初私はひどく驚いた。なぜって?
ありていに話せば、このコンサートの司会をしたのがかく言う私だった。セシル・テイラーを招聘したのはプロモーター界の名物男、故鯉沼利成氏(鯉沼氏については、本JAZZ TOKYO 誌第239号で、稲岡邦彌編集長が<ある音楽プロデューサーの軌跡”偉大な興行師” 鯉沼利成さんとの仕事>とのタイトルのもと弔意文を書いている)だった。有能にして個性的なプロモーターでもプロデューサーでもあった鯉沼利成という人間が僕は大好きだった。
そのセシル・テイラーのソロ・コンサートを当時高校生になったばかりの野力が聴きに行ったというのだ。渡辺貞夫のグループで脚光を浴びたことぐらいしか知らなかった私は大声をあげたい衝動に駆られたくらいにびっくりした。セシルの京都公演は5月20日(1973年)で、翌日が東京公演となっていた。レコード化されたのは後者の東京公演(アキサキラ~セシル・テイラー・ユニット at 東京厚生年金会館)だが、その前日の京都公演を彼自身によればチケットが発売された日に購入して聴きに行ったというのだから、当時まだ15歳に過ぎなかった野力がいかにジャズ音楽家としての意欲みなぎる青年だったかが分かろうというものだ。
この日、東中野の宮崎宅に参集したのは野力奏一・孝子夫妻、野力CDのプロデューサー伊藤潔氏、ポリドールOBの五野洋氏、JAZZ TOKYOから私と稲岡邦彌編集長、など10名弱。参集者がみな気心の知れた間柄の人たちで、のっけから和気藹々とした雰囲気のもと、ちょっとした内輪の誕生日会ふうの和やかな<野力奏一スタインウェイを演奏する会>が開演した。
ちなみに、コンサート・チューナーとして多忙な主の宮崎剛史氏は1月5日(1960年)生まれというから、ちょうど60歳の誕生日を迎えられたはずだ。鹿児島市の生まれ。河合楽器を経て、1981年にキネプチピアノに入社。ここであらゆるピアノ・メンテナンスを学び、その間NHK放送センターをはじめ、コンサートホールや吹込スタジオ等のピアノの調律を手がけ、85年からは独立してフリーのコンサート・チューナーとして高い評価を獲得している方だ。むろんスタインウェイ会の会員であり、温厚にして如才ない、かつ気さくな人柄。もう物故された音楽界有数のプロモーターだった斎藤延之助氏やジャズ界屈指の名物写真家だった阿部克自氏とも親密な間柄だったが、彼ら故人たちと同様、宮崎氏も1985年からフリーのコンサート・チューナーとしての活動に注力している。
ほどなくコンサートが始まった。
2台あるピアノのひとつは、当日集まった私たち全員が乾杯し合ったリヴィング・ルームにあり、もう一台は奥の部屋にある。奥の部屋といってもリヴィング・ルームとの境界には間仕切りがないので、ちょうど広いワンルームに2台のゆかしいグランド・ピアノが鎮座していることになる。私自身は決してピアノに造詣が深いわけではないので誤まった詮索はしないでおきたいが、宮崎氏の説明では私たちが愉快に語り合った居間のピアノは100歳を超えるハンブルグ・スタインウェイ(B型)で、そして奥の部屋でひっそりと鎮座しているピアノは、約76年前に作られたニューヨーク・スタインウェイ(L型)。野力奏一が主に演奏したのは後者、すなわちニューヨーク・スタインウェイの方であった。野力は通常の演奏会と変わらぬプログラムと真剣な取り組みの姿勢で座の雰囲気を損なわないソロ演奏を披露してくれた。たまたま私は彼のフィンガリングが手に取るように見えるすぐ真後ろの場所に座っていたこともあり、野力の息遣いが耳に入ってくるかのようなホットでインティメートな演奏の迫力を味わうことができた。
ちなみに野力奏一は1957年(10月20日)生まれというから60を越えているのだが、見た目はまるで万年青年のように若い。確かに彼が渡辺貞夫や日野皓正のグループで生気みなぎる演奏を披露して注目を集めた80年台半ばから換算すると35年以上が経っていることを思えば、当方の視界から彼が消えていた日々の失われた時間がなるほど大きかったことを思わぬわけにはいかない。
タイトルに<敬愛するミュージシャンズ特集>とあるように、野力奏一がピアニストに限らぬ自身の敬愛するジャズ演奏家の作品を、自身のオリジナル曲をまじえたプログラムに構成して全11曲を2つのセットで演奏した、ある意味では実に特別なコンサートだ。従って、キース・ジャレット、ジョー・ザヴィヌル、ハンク・ジョーンズらピアニストたちの作品とともに、マイルス・デイヴィスとヴィクター・フェルドマンが共作した「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」、渡辺貞夫の「パストラル」、オリジナル演奏はジェローム・カーンだがピアノのビル・エヴァンスが独自の解釈を施して演奏したという「アップ・ウィズ・ザ・ラーク」、パット・メセニーの「オールウェイズ・アンド・フォーエヴァー」、ドリ・カイミとアレックス・アクーニャ・ラボリエルによる「アウェイ」、ダグラス(ボブ・シール)とジョージ D. ワイスの「この素晴らしき世界」、アンコール曲の永六輔と中村八大作品を含むピアニスト以外の作品、といった恐らくは野力の愛奏曲を並べた全13曲。
私はといえばこんな間近で、というよりまさに彼の真後ろでソロ演奏を聴いた初体験の新鮮さがよほどエキサイティングだったと見え、帰る道すがらも帰宅して床につくまでもハンク・ジョーンズの「マイナー・コンセプション」やジェローム・カーンの「アップ・ウィズ・ザ・ラーク」が耳元で鳴っていた。これまで野力奏一というピアニストの演奏を真剣に聴いたことがなかった私には、純粋に音楽を愛する一人のピアニストの演奏の真摯なたたずまいに胸打たれる初めての体験がいつになく新鮮に感じられた。
野力の演奏後、宮崎さんが何を思ったか、奥のニューヨーク・スタインウェイのところに皆を手招きした。このスタインウェイもハンブルグ・スタインウェイ同様、宮崎さんの話では自宅スタジオに入れてからメンテナンスをほどこして申し分ない形に再生させたという。ピアノの弦やキー、あるいは本体の様々な場所に耳を近付け、耳をこらせと宮崎さんが言う。倍音の素晴らしさを聴き取って欲しいという。試しに私もピアノの弦の近くで耳を澄ませた。減衰する前の豊穣な倍音が私の鼓膜を揺すった。まさに、演奏するピアニストのみが耳にする特権を許された豊かな倍音の響きがそれだった。ピアノ本体から始まり、キー、弦、ハンマーの選択と調整、調律、整音、これらのすべてがベストのコンディションに整えられ、然るべきピアニストが演奏して初めて所期の倍音が生まれるのだろう。楽器と調律師とピアニスト、いわばこの3者が三位一体となって生まれた汚れのない倍音、それを初めて耳にした気がした。生涯忘れることのできない貴重な体験だった。(2020年1月12日記)
*右写真(L to R):宮崎剛史・悠雅彦・野力奏一・稲岡邦彌・伊藤潔・五野洋
*関連記事(野力奏一インタヴュー):https://jazztokyo.org/interviews/post-44167/