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悠々自適 悠雅彦特集『Bird 100: チャーリー・パーカー』No. 269

悠々自適#94 チャーリー・パーカー生誕100年と新刊『バード チャーリー・パーカーの人生と音楽』に思うこと

text by Masahiko Yuh 悠 雅彦

チャーリー・パーカーが生誕100年を迎えた。それを祝福するかのようにチャーリー・パーカーの人生と音楽を語り尽くした待望の新刊本が登場した。著者はチャック・ヘディックス。現ミズーリ大学カンザスシティ校ライブラリー(マー・サウンド・アーカイヴス)のデイレクター、チャック・ヘディックス(Chuck Haddix)その人。訳者はかつてRCAレコードのディレクターとして活躍した川嶋文丸氏。生誕100年記念刊行と銘打って出版された本書は川嶋氏があとがきで書いているように、ヘディックスの著した本書(343ページ)が膨大な資料を調査、検証し、それによって新たな視点でパーカーの歩んだ道が再構成されている点にあることだ。そのためパーカーのニックネームの由来をはじめとする多くの点において通説を否定する新たな事実が示されている点などを含めてすこぶる興味深い。
新刊の正式な邦題は『バード チャーリー・パーカーの人生と音楽』(シンコーミュージック・エンタテイメント)。本文だけでも335ページ。序文に続いて<カンザスシティ・ブルース>、<バスターズ・チューン>、<フーティ・ブルース>、<ビバップ>、<リラクシン・アット・カマリロ>、<デ¨ューイ・スクエア>、<パーカーズ・ムード>の全7章を一気に読破する体力はもうとっくに失せていた私ではあったが、それでも過去のパーカーの伝記をはるかに凌ぐ精細で沈着な筆致、何よりストーリー性に富んだ話の展開の面白さに、とうとう白旗を掲げる屈辱を舐める思いを味わわずに済んだだけでも幸運というべきだろう。

それはそうとして、チャーリー・パーカーがもしこの『バード チャーリー・パーカーの人生と音楽』における様々な逸話に登場するチャーリー・パーカーと同じ人間であるとすると、第4章の<ビバップ>の劈頭でアール・ハインズとジェイ・マクシャンがこんな会話を互いに笑いながらかわすなどということが現実にありうるだろうかと、いぶかしく思うファンがいても少しも不思議ではないだろう。
<チャーリーがアール・ハインズのバンドに入って数ヶ月後、ジェイ・マクシャンは52丁目のジャム・セッションでハインズと出くわした。ハインズはマクシャンにチャーリー・パーカーを引き取ってくれと頼んだ。マクシャンは笑いながらこう語る。
「ハインズは私を見るなり、両手を上げて  ”あれは俺がこれまでの人生で出会ったなかで最悪の男だ! あいつはバンドの全員から金を借りているんだ。頼むからあいつを連れ帰ってくれ!” と言ったのだ。ハインズはバードに400ドルだか500ドルだかのサックスを買ってやった。バードはそのサックスで、なんとブルースを演奏するかのように、恩人のハインズを嘆き悲しませたのだ!。挙げ句の果てに、<チャーリーはその新しいサックスを早くも質に入れてしまった>(第4章 ビバップ 128ページ)
というのだ。もっとも、マクシャンが笑いながら話しているところから想像して、こうしたことは恐らくパーカーの日常茶飯事の出来事の一つに過ぎなかったのだろう。また、彼の高度極まりない演奏能力を前にしてはおとなしく引き下がるしかなかったのだろう。

ところで話の腰を折るようで申し訳ないが、この新刊書の冒頭で思いがけなくも友人の名前を発見して嬉しくなった。『バード チャーリー・パーカーの人生と音楽』に続いて全7章の目次があり、第1章に入る前に著者自身による序文がある。これだけだったらわざわざ大騒ぎすることもないが、実は特筆すべき事柄が2つあったのだ。一つは全19葉の写真。半分以上は私には初めての写真で、その中には1931年のペン小学校時代パーカーの集合写真、カンサスシティでとらえられた18歳の演奏姿(1938年。現存する唯一の写真)もある。ジェイ・マクシャン楽団の集合写真、スリー・デューセスでの演奏写真。デューク・ジョーダン、マイルス・デイヴィス、トミー・ポッター、マックス・ローチらとの演奏ステージ、あるいはサラ・ヴォーンと並んでサイン会に立つパーカー、バードランドでの1951年のウィズ・ストリングスの演奏姿、オープン・ドアにおける英姿(w.チャーリー・ミンガス、ロイ・ヘインズ、セロニアス・モンク、そしてむろんのことパーカー)など。
さて、もう一つが著者による謝辞。たった1ページだが、何となく気になった。著者が本書を書くにあたってお礼を申し述べたいと断り書きをした中に、この伝記をあらわすにあたり、このプロジェクトとカンザスシティ・ジャズを熱心に支援してくれた人として竹村洋子の名を載せていたのだ。著者チャック・ヘディックスが僕らのジャズ仲間である友人、竹村洋子の名を掲げてくれたことに格別に嬉しい思いを味わうことになった。ちなみに、河出書房新社が2014年6月30日に発行した文芸別冊『チャーリー・パーカー』で、竹村洋子は「最新パーカー伝を”カンザス視点”で読む」、「バードとカンザス・シティの現在」、「KCの世界最高水準のジャズ・コレクション」という3点のエッセイを寄稿している。今は亡き相倉久人とサックス奏者の菊地成孔が語り合った対談「パーカーの託宣を解く」もあり、パーカーに興味おありの方には必読の1冊といっても過言ではないだろう。それ以上に、本書には当時著者のチャック・ヘディックスのインタヴュー記事が竹村洋子の文責で掲載されているので、この「KCネイティヴだからこそ書けた新事実」は機会があったら是非お読みいただきたい。

チャーリー・パーカーは1920年8月29日、カンザス州カンザスシティ(我が国ではカンサスシティと呼びならわし、サを濁らせない呼び方が広く通っている)の生まれ。そして1955年3月12日にニューヨークで亡くなった。1955年といえば、まさに黎明期を脱したモダン・バップが世紀のモダン・ジャズとして本格的な歴史を展開し始めたころだ。パーカーは享年34ということになるが、たとえば先に紹介したオープン・ドアでの演奏写真をよく見ていただきたい。すなわち、チャールス・ミンガス、セロニアス・モンク、ロイ・ヘインズらをバックに演奏するパーカーはこれら共演者よりはるかに老けて見える。写真写りの問題かもしれないが、少なくとも30を超えてまもないプレーヤーとは思えない。これはパーカーが亡くなる約1年半前の演奏写真で、撮影日が1953年9月13日で間違いないとすると、彼はまだ32歳だったことになる。
初レコーディングの40年11月30日からたった13年弱の間に、彼は恐らくジャズ史上未曾有 の革命的革新を成し遂げたのだ。ここまでは通常のジャズ史ならどんな論考でもパーカーが単独でバップ革命の狼煙を上げ、やがて到来するモダン・ジャズ発展への礎を築いたことを力説してきたことは間違いない。少なくともこれまではバップ革命の本質的功労者はチャーリー・パーカー1人に帰せられてきたことは否定のしようがない。だが、私はあえてこう考えたい。
すなわち、パーカーの考え、アイディア、即興演奏のコンセプトを真っ当に理解し、共鳴し、その上で実践するだけの知識も能力ももつ良き相棒が彼のすぐそばにいたからこそ、パーカーの革新的アイディアがスムースに理解され、その上でジャズ界の第一線で精力的に活動する若き闘士たちを鼓舞する道が切り拓かれたのだ、ということを。パーカーが偉大な先覚的音楽家であったことを認めるに当たって、彼の周囲や背後にかかる先覚的な相棒や後輩が存在した実態をも理解し、それらを同等に評価する鑑識眼を持って接することが、モダン・ジャズの偉大な発展を後世に伝える上で真に重要なことではないだろうか。
その最も先覚的な演奏家として1人名前をあげるとすればディジー・ガレスピーを措いてないと、私は常々考えている。別の言い方をすれば、ガレスピーがいなかったら、パーカーは良き 相棒を見出すのにかなりの苦心を強いられたのではないかと思う。本書に現れる様々なミュージシャンの回想に触れて、頭では想像していた様々な謎がときにはその通りだったりする一方で、ときには思いもよらぬ結果へと導かれたりして目がさめるようなスリルを味わう体験を覚えたことも一つや二つではない。
たとえば、ディジー・ガレスピーの回想(本文162ページ)。≪≫内は注目すべき文章。<チャーリー・パーカーと一緒に出演したスリー・デューセスで、私たちの音楽は完璧の極みに達した。彼と私は気持ちが通じ合い、ようやく私たちの音楽に理想的なセッティングのクィンテットを組むことができた。メンバーはパーカーのほか、私(ガレスピー)とマックス(ローチ)、バド・パウエル、カーリー・ラッセルだった。ベーシストは途中でレイ・ブラウンに替わった。カーリーは譜面が読めなかったのだ。≪パーカーと私はうりふたつだった≫。彼の音楽と私の音楽は、まるで塩を水にふりかけるように調和した。≪チャーリー・パーカーと出会う前、私のスタイルはすでに形を成していた。けれども彼は私の音楽生活のすべてに大きな影響を与えた。彼の音楽についても同じことがいえるはずだ≫。私たちほどそっくりに演奏したプレーヤーは誰もいなかった。———私たちの出す音はあまりに似通っており、ときどき自分が吹いているのかどうかわからなくなることがあった———チャーリー・パーカーは音の明晰さが際立っていた。彼のひとつの音から次の音へと移るときのスムーズな流れは、私には真似できなかった。私はロイ・エルドリッジがやったことを足がかりにして自分のスタイルをを開拓したのだ~~私たちの音楽におけるフレージングの基準、明瞭な音の出し方の基準を打ち立てたのがチャーリー・パーカーだったことは間違いない>。

1940年にカンザスシティで初めて出会って以来、互いに意識しあいながらもそれぞれの道を歩んできたパーカーとガレスぴーが45年の春、ついに一つのグループとして活動することになった、その直前の在りし日を、ガレスピーはこう綴ったのであった。
ガレスピーのもう一つの回想。<私たちは白人客のダンスのために演奏していた。休憩中、私はピアノを弾いていた。白人の男が私に声をかけ、5セント硬貨を放り投げた。次のセットでこれこれの曲をやれ、と。私は無視した。~~その夜遅く白人専用となっていたトイレで用を足して出ると、うしろから何かの影が迫ってくるのを感じた。次の瞬間ボトルが私の頭に振り下ろされた。星が見えたよ。でも倒れなかった。5人ほどの男に取り押さえられたところへ、チャーリー・パーカーがやってきた。彼は私を殴った男に歩み寄り、”お前は俺の友人をだまし討ちしたな、この卑劣漢め!”と怒鳴った。彼はその男を卑劣漢と呼んだ。そいつは言葉の意味を知らなかっただろう。南部のバカな白人どもが卑劣漢とは何かを知っているはずがないからね>。

この続きを機会があったらぜひ描きたいと思っている。(2020年8月24日)

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悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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