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悠々自適 悠雅彦~No. 201

Vol.62 | イーダ、それからコルトレーン

text by Masahiko YUH  悠 雅彦

イーダという名の女性がいる。18歳になったばかりだ。彼女はポーランドの片田舎の修道院で育てられている、いわば見習いの尼僧だ。ところがそこでは、彼女の名はイーダではなくアンナ。なぜイーダという名がアンナに変えられることになったのか。ここに物語が展開する最も重要な鍵がある。ある日、彼女は院長から自分が天涯孤独の遺児ではなく、血のつながったたった1人の叔母が生きていることを告げられた。叔母はなぜ一度も自分に会いにこなかったのか。院長から叔母に会うように勧められた彼女は、一度も会いにきてくれることもなかった叔母への興味から訪ねていく。叔母の名はヴァンダ。監督のパヴェウ・パヴリコフスキはこの叔母に映画の重要な鍵を握る役割を与え、普段は人目につかないポーランドの隠れた歴史を明るみに出そうと試みた。その結果・・・・・・・。
これは日本で8月に公開されたポーランド映画『イーダ』の、ストーリーの出発点となった粗筋の一端である。わが国でも例外ではないことだが、歴史の負の部分に光を当てて真実を人々に伝える努力は、とりわけさまざまな分野のアーティストに欠かせない。たとえば、ポーランドだったらアンジェイ・ワイダ監督が思い浮かぶ。現在57歳のパヴリコフスキがこの『イーダ』という、今日では珍しいモノクロームで撮った(遠回しにいえば告発したといえなくもない)この映画には、母国の人間だったら不快感を感じるに違いない歴史や民族の一断面がさまざまな形で現れる。
ちなみに、イーダ(Ida)。この名はユダヤ人に固有の名前だという。英米流に読めばアイダであり、ベッシー・スミス時代に活躍したアイダ・コックスのように音楽界ではさほど珍しい名前ではなかった。ちなみに、私の大好きな作曲家カーラ・ブレイの作品には<アイダ・ルピノ>がある。ルピノは英国生まれで米国に帰化した女優兼監督。彼女がユダヤ人かどうかは分からない。40年ほど以前、テレビの「刑事コロンボ」で見たことがあったが、1995年に他界した。カーラは77年の『Dinner Music』(WATT)に吹き込んでいるが、何らかの交流があったのかもしれない。私が忘れられないのはむしろポール・ブレイのソロ・ピアノ作品『Open,to Love』(ECM)の中の1曲だ。現代では「響きがよいという理由であえて“ユダヤ風に”命名するポーランド人がいる」(久山宏一)というが、第二次大戦前後のポーランドではナチス・ドイツとのからみもあって、ユダヤは忌むべき存在だったということだろう。それが布石としてあり、イーダが教会でアンナと改名された理由ともなったろう。おかげで彼女は一部のポーランド人やナチスから抹殺される危機を免れることができたということにもなる。だが、イーダは自分がユダヤ人であることを知らぬまま育った。いったんヴァンダと顔合わせをしたあと駅舎で時間待ちをするイーダを、当のヴァンダがじっと見つめる場面。このときヴァンダのどこかで何かが起こり始めている予兆を、画面を見ている者は感じるだろう。思った通りヴァンダはイーダを自宅に連れ帰った。ほどなく2人はヴァンダの運転でイーダの両親が死んだ謎を解く旅に向かう。イーダの母は実はヴァンダの姉だったのだ。アンナとの初対面でヴァンダは言った。「お前はイーダ・レベンシュタインというユダヤ人なのよ」。
院長の助言と計らいで叔母のヴァンダと会ったイーダは、両親が近所のポーランド人農夫に殺された事実を知ったばかりでなく、にもかかわらず叔母のヴァンダがなぜ1人だけ自由に、羽振を利かせて生きてきたかという過去の真実と向き合うことになる。ヴァンダとはいったい何者か。
監督のパヴリコフスキはインタヴューでオックスフォード大学に留学中のある体験を語っている。それによると、パヴリコフスキは滞英中、経済学者でマルクス主義者としても知られ、《プラハの春/チェコ事件》で有名な1968年にポーランドを去って英国に移住したヴウォジミェシュ・ブルス教授と知り合い親しくなった。パヴリコフスキが大好きだと言って憚らなかったのが、教授の夫人ヘレナだ。彼女は自由に飲酒と喫煙を楽しみ、冗談が好きで、彼が過去に聞いたこともないような面白い話を色々としてくれる女性だったからだ。しかも温かな人柄の心の寛大な女性だった。オックスフォードを卒業後はポーランドに帰ったパヴリコフスキだったが、10年ほど経ったある日、BBC放送が伝える次のような報道を聴いて愕然とした。ポーランド政府が、スターリン時代に非人道的犯罪を犯したとして、オックスフォード在住のヘレナ・ブルス氏の引き渡しを要請している、というニュースだったからだ。あの素敵な老婦人がスターリン主義の検察官だったとは。とりわけ彼女がある裁判で、実際には無実だったレジスタンスの真の英雄“ニル”フィエルドルフ(1895~1953)の処刑を工作したと知ったパヴリコフスキは大きな衝撃を受けた。それはそうだろう。彼が知っている思いやりのある冗談の好きな女性と、彼のまったく知らない冷酷で狂信的なスターリン主義者の死刑執行人とが、彼の頭の中で1つになるわけがない(マーメイドフィルム社発行本作品のカタログ参照)。

ヴァンダが映画の中でヘレナ・ブルスの生き写しのごとく設定されているところに、監督の衝撃の大きさを実感することができる。イーダが初めて会ったときのヴァンダはまさにヘレナの分身然として煙草を吸い、酒を飲み、奔放であけすけな態度でものを言う女性だった。やがて彼女もスターリン時代に検察官として非人道的な辣腕をふるっていたことが後になって明らかになる。両親が殺されたことを知ったイーダは墓参を懇望する。「第二次大戦のさなかに亡くなったユダヤ人の墓はない」とヴァンダはイーダに言った後で、観念したというべきか、イーダのために彼女の両親が住んでいた家を訪ねる。そこに住んでいた男と入院中の父親から隠された恐るべき秘密が明らかになる。イーダの両親は彼女の甥もろとも生き埋めにされたというのだ。二人は墓堀人とともに発掘作業をすすめたすえ、ついに3人の頭蓋骨を見つけだした。白い布に包んで抱きしめるイーダ。複雑な表情で掘られた穴を見つめるヴァンダ。かくして4日間にわたるヴァンダとイーダの旅は終わった。別れた瞬間、二人の生に忍び寄った、一方はささやかな、そして一方の大きな変化。最後を悟ったヴァンダは自宅に帰った直後ブルーノ・ワルターがウィーン・フィルを振ったモーツァルトの『ジュピター』(交響曲第41番ハ長調K.551)のLP盤をかけながら、窓から身を投げた。無人の部屋で蓄音機の中を回転し続ける『ジュピター』が主のいない複雑な虚しさを告げる(なぜ『ジュピター』なのか、監督に訊いてみたい)。
そして暗転。主のいない部屋に現れたイーダが、盤に乗ったままの『ジュピター』に針を降ろす。ハイヒールを履き、着飾ってワイン・グラスを傾けるイーダがほんの一瞬ヴァンダの生をなぞってみせた瞬間。その夜、演奏家のリスという若い男性と一夜をともにしたイーダは、ヴァンダからのぞき見た虚飾の半生からリスと語り合った夢にいたる、この世の人生のからくりをすべて知ってしまった。最終章で、イーダはまさに修道女イーダとして修道院への路を戻っていく。それはヴァンダに象徴される通俗を拒絶するイーダの決意の表れであり、新しい窓を見出したイーダの再生の第1章でもあった。その背後に流れるバッハのコラール前奏曲『われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ』はオルガン演奏でも教会合唱のどちらでもない。故アルフレッド・ブレンデルの奏するピアノの響きが、修道院に向かって歩むイーダの確かな足取りと神への祈りと重なりながら、彼女の新たな決意と共振する観客の思いを包み込む。
パヴリコフスキは時代背景を国家と教会がせめぎあった当初の1968年から、1962年に設定しなおした。彼の家族を含む一般のポーランド人が最もブリリアントに生きた時代だったという意識が勝ったのかもしれない。この60年代初頭を活きいきと生きた彼の家族や人々の当時を象徴するのが音楽であり、とりわけポップソングやジャズだろう。62年といえば彼は5歳にすぎない。劇中で演奏されるジョン・コルトレーンのジャズなどは彼が長じたのちになって聴いた音楽であろう。
テナー奏者のリスが演奏を終え、イーダの傍に寄って話しかける場面がある。古びたホテルのラウンジかダンス・フロアの一隅だろう。あのときリスらが演奏した最後の曲はコルトレーンの<ナイーマ>だった。イーダは気に入ったらしい。リスが「コルトレーンという人が作った曲だ」というと、彼女はかすかに微笑んだ。<ナイーマ>は映画の終わり近くで再度流れる。今度は当時コルトレーンがウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミー・コブと吹き込んだ歴史的演奏で。パヴリコフスキは後にこの演奏を記録した『Giant Steps』(Atlantic)を熱心に聴いたのだろう。
この映画ではもう1曲、コルトレーンの作品が演奏される。翌60年10月に録音した『Coltrane’s Sound』(Atlantic)に収められている<Equinox>だ。だが、その<イクィノックス>が奏される1曲前に流れるシャンソン風のポップソングに耳が動いた。ポーランド語なので何を歌っているのか分からないが、リリカルな肌触りの優しい歌。見終えてカタログ掲載の「使用楽曲リスト」で確かめたら<Alabama>とあるではないか。<アラバマ>といえば、私には心を打つコルトレーンのバラードが忘れられない。
1963年秋(10月8日)、ニューヨークの「バードランド」におけるライヴ録音であるが、この<アラバマ>と<ユア・レイディ>の2曲だけは1ヶ月10日後の11月18日にスタジオ録音したものだ。バードランドでこのバラードを演奏することは、ためらわれたのかもしれない。というのは、余りにも生々しいある事件が起こってから1ヶ月も経っていなかったからだ。コルトレーンも傷心だったに違いない。惨劇は9月15日の日曜の朝に突然起こった。それが美しい州として歌にも歌われるアラバマだった。同州バーミンガムの黒人教会でダイナマイトが爆発し、黒人の少女4人が犠牲になったというのだ。ラジオのニュースでその悲劇を知ったコルトレーンは後に語った。「皮膚の色を超えて人間は互いに愛し合うべきで、それによってこそ平和な世界が実現するとの信念は揺るがない。私は音楽によってその強い気持を表現したいと思ったのだ」と。40日後、ヴァン・ゲルダーのスタジオでコルトレーンが4人の少女たちに捧げて演奏したのが、その<アラバマ>である。

それにしても、コルトレーンを夢中で聴いたはずのパヴリコフスキが、なぜコルトレーンの<アラバマ>をリスに吹かせなかったのだろうか。
それは、映画の中で<Alabama>を歌っている ルドミラ・ヤクプチャク Ludmila Jakubczak をネットで検索して分かった。彼女はポーランド・ジャズ界期待のシンガーだったが、コルトレーンが奇しくもインパルス入りして旋風を巻き起こしつつあった1961年11月5日、自動車事故で亡くなった、とあった。わずか22歳(1939年生)だった。この年、国際歌謡祭で入賞し、まさにこれからと期待を一身に集めていたさなかの突然の死だった。パヴリコフスキにとって恐らくコルトレーンと母国の新生ジャズ・シンガーとして伝説化しつつあったルドミラは、彼が音楽三昧の日々を送った青年時代のシンボル的存在であり、熟慮したすえの決断だったのではないかと私は想像する。コルトレーンの<アラバマ>を軽視したわけでは断じてないはずだ。そう思ったとき、ルドミラの歌に合点がいった。
ルドミラが歌った<Alabama>はロミュアルド・ジリンスキ(Romuald Zylinski/1923~2013)が1958年に作曲した。残念ながらこの歌が何を歌っているかポーランド語に不案内な私には分からない。ただ、ジリンスキという作曲家は<赤い靴>や<子供のためのおとぎ話>など童謡やシャンソンに通じる小唄、あるいは劇音楽を数多く残しており、また大戦後の1947年にはジャズクラブの共同設立者ともなった人。『イーダ』はポーランドでは2013年11月に公開されたが、彼はその直前の4月に亡くなった。そのこともパヴリコフスキが彼の<Alabama>を映画に導入したことと深い関係があるような気がしてならない。ちなみに、映画ではジリンスキの楽曲がもう1曲流れる。<Serduszko Puka w Rytmie Cha Cha>といい、こちらはポーランド屈指の人気歌手で、巧みなジャズ唱法でも知られたマリア・コテルプスカ(Maria Koterbska/1924~)のヒット曲。彼女が60年代の全盛期に吹き込んだ音源だろう。
『イーダ』は一方で、ポーランドにおけるユダヤ人問題を扱った作品である。言い換えれば、昨今新聞を初めとするメディア媒体で大きな話題となっている「人種差別」や「人間差別」と深く関わっている映画だ。ポーランドというと普通、ドイツやソ連(当時)を筆頭に周辺諸国からの手ひどい苛めを受けた被害国として考えられがちだが、この映画でパヴリコフスキはその逆もあった史実をさらし、負の歴史に光を当てているのだ。一般のポーランド人にとってかくも不愉快な映画はないとパヴリコフスキを非難するかもしれない。イーダの両親と甥を生き埋めにしたのも、ヴァンダの息子や夫を抹殺したのもポーランド人だ。ドイツでナチス政権が誕生し、ユダヤ民族の排斥を看板に掲げ、ほどなくアウシュヴィッツに象徴されるユダヤ人大虐殺(ホロコースト、ショアー)を推し進めるようになると、ポーランド人がドイツの司令なしにユダヤ人の殺害に走った事件が幾つか起こっている。これは史実なのである。つまり、ポーランド人によるユダヤ人狩り、だ。これはこの国に反ユダヤの考え方が根付いていたことの表れではないか。ユダヤ人を標的にして撲滅を推し進めたのはドイツのナチスはいうまでもないが、ナチスばかりでなく「カティンの森」やウクライナの「ヴィーンヌィツヤ大虐殺」の旧ソ連、そしてイェドヴァブネ事件(1941年)などのポーランドなどが、ナチスの政治思想やスターリン主義を背景に手を染めたのだ。
私自身は1995年に見たクロード・ランズマン監督のドキュメンタリー映画『ショアー』でこの事実を知って愕然とした。映画はコメントや説明を一切省き、40人近い体験者に語らせる形で進む。すなわち、絶滅収容所で奇跡的に生き残ったユダヤ人、旧ナチスの親衛隊員、ユダヤ人と関わりのあったポーランド人住民たちである。彼らが被害者、加害者、傍観者の役割を演じていたことを明らかにしたこの映画は、「ホロコーストの現実以外を音声で解説するのは猥褻である」というランズマンの一個の人間としての良心と美学によって極限の奇跡を描き出していた。

人類がかくもおぞましい歴史を体験したことで人種差別は地球上からなくなりつつあるかといえば、そんなことはない。イスラエルとパレスチナの対立といい、ウクライナ問題やイスラム国問題といい、あるいは中国内陸部における新疆ウイグル自治区のイスラム教徒ウイグル族と漢民族を巡る中国政府の強権発動といい、世界の至る所で憂うべき人種暴動や争いが多発している。人種差別をめぐる歴史的騒動といえば米国における黒人たちの人種差別撤廃運動が良く知られるが、1964年に公民権法が成立して50年目に当たった去る2014年8月9日、ミズーリ州セントルイス郊外のファーガソンで、18歳のマイケル・ブラウンという黒人青年が白人の警察官に射殺された事件は、米国における人種問題が依然くすぶりつづけていることを曝(さら)けだした。
寛容の精神が人間社会から希薄になりつつある、と思わざるを得ない。天声人語(朝日新聞)氏が仏文学者の渡辺一夫が戦後に書いた随筆の一文を引いている(9月2日)くだりが目に入ったとき、今日、日本の社会で最も不寛容な憎悪表現がヘイトスピーチやヘイトクライムであることを改めて痛感した。自分が受け入れられない考え方を抹殺しようとすると、かえってその考え方を生かすことになる、と。渡辺氏の言葉で書けば、不寛容な姿勢で他者に臨むのは「むしろ相手の不寛容を更にけわしくするだけである」。実に明快だ。人種差別を煽動するヘイトスピーチに、「表現の自由」を都合のいい盾にした存在理由が許されるなら、日本は世界の良識からそれた方向に向かうことになるだけである。在日韓国・朝鮮人を誹謗中傷するデモを表現の自由と主張する立場に正当性はない。もしそれが表現の自由と認められるなら、当時のユダヤ排斥の主張も表現の自由と居直られかねない。それは世界の潮流から大きく逸脱しているのみならず、世界中の良心を敵に回す行為になりかねないだろう。国連人種差別撤廃委員会が日本政府に対して去る8月29日、「ヘイトスピーチを法律で規制するよう」勧告し、約30項目で是正を要請したのは、よほど日本と世界の間でヘイトスピーチに対する考え方や処置に大きな落差があるからにほかならない。ヘイトスピーチのデモを視察、審査した委員から「人種差別の煽動は、表現の自由には決して含まれない」との意見が続出したのは当然ではないだろうか。毅然と取り締まる場合、とりわけネット上に氾濫するヘイトスピーチにいかなる適切な措置を講じることができるかは知恵を絞らなければならないが、少なくとも委員会から改善を求める勧告を出されることがない確たる法規制をするよう促したい。これまで日本は「表現の自由」に触れるとして留保してきたが、こんな逃げの手は今や許されないし、憎悪表現が表現の自由に値しないことを認めるべきではないか。どう考えても、わが国に人種差別に対処するための法律がないというのはやはり嘆かわしい。ここはむしろ、厳然として「人種差別禁止法」を制定するくらいの気概を示して欲しいものだ。
話を映画に戻せば、パヴリコフスキがコルトレーンの演奏を用いた最大の理由は、コルトレーンがとりわけ60年に不滅のクヮルテットを率いて独自の道を歩み出して以後の活動で、1963年のワシントンでキング牧師が試みたスピーチと同じといっていい主張をみずからの演奏に托してアピールする真にヒューマンな音楽家だったからだろう。それにひきかえ、<The Internationale>というフランス生まれの、左翼系国歌ともいわれる歌の空疎なたたずまい。劇中ヴァンダのうらさびしい葬儀で歌われるのだが、今日の耳で聴くといかにも古臭い印象が濃い。19世紀の革命時代には雄々しく響いたのだろうと思うと、妙な感じだ。しかし、コルトレーンの<ナイーマ>や<アラバマ>が将来、色褪せるなどということは決してないと、私は信じて疑わない。(2014年9月23日記)
*初出:2014年9月29日更新 Jazz Tokyo #201

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悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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