#45 イレーネ・シュヴァイツァーを偲ぶ
text & photo by Kazue Yokoi 横井一江
イレーネ・シュヴァイツァーが7月16日に亡くなった。1941年6月2日スイス、シャフハウゼン生まれ、享年83。1960年代後半にヨーロッパでも活発化したフリー・ムーヴメントの主役たちの中で紅一点と言っていい存在だった。2021年、80歳の誕生日を迎えた後、健康上の理由からコンサート活動から引退していた。
シュヴァイツァーは十代でチューリッヒのアマチュア・フェスティヴァルに出演、当時はビバップを演奏していた。その後、イギリスでジャズ・ピアノを学ぶ。スイスに戻ってきてから、後にロック・バンド「グル・グル」を結成したマニ・ノイマイヤーとウリ・トレプテとトリオで演奏活動を始める。
当時チューリッヒにあった伝説的なジャズクラブ「アフリカーナ」で、南アフリカからアパルトヘイトを逃れてヨーロッパに来て、一時チューリッヒに滞在していたミュージシャン達、アブドゥーラ・イブラヒムやクリス・マクレガーのブルーノーツと出会い、影響を受ける。彼女のパーカッシュヴな演奏やリズム感はその表れと言っていい。またオーネット・コールマンやセシル・テイラーなどを聴き、彼女はフリージャズに向かう。そして、1966年にフランクフルトのジャズ祭に出演したことから、ペーター・ブロッツマンやペーター・コヴァルトと出会うのである。ドラマーのピエール・ファヴレとコヴァルトのトリオで活動を始め、1969年の第2回トータル・ミュージック・ミーティングにはそのトリオで出演、また FMP 第1作の『マンフレッド・ショーフ・オーケストラ/ヨーロピアン・エコーズ』にも参加している。1970年代に入ってからはサックス奏者のリュディガー・カールなどとも共演を重ねていき、FMP からアルバムをリリース。この当時の共演者は男性ばかりだった。まだまだ女性の即興演奏家は珍しかったのである。
1978年、シュヴァイツアーはリンジー・クーパー (bassoon) から誘われ。女性インプロヴァイザーによるバンド「フェミニスト・インプロヴァイジング・グループ (FIG)」に参加する。FIG はマギー・ニコルス (vo) とヘンリー・カウのメンバーであったリンジー・クーパーが出会ったことから生まれ、1977年にロンドンで最初の公演を行った。1983年にはシュヴァイツアー主導の「ユーロピアン・ウィメン・インプロヴァイジング・グループ (EWIG) 」となる。「フェミニスト」から「ウィメン」となったのは、「フェミニスト」という言葉が政治的に捉えられたことが一因だ。EWIG にはジョエル・レアンドル (b) なども参加した。
そして、1986年には即興音楽シーンで活躍する女性ミュージシャン達が集合し、フランクフルト、そしてチューリッヒで「カネイユ Canaille(悪党、ごろつきという意味)」という名前のフェスティヴァルが開催される。イレーネ・シュヴァイツァー、マギー・ニコルス (vo)、アンヌマリー・ローロフス (tb)、リンジー・クーパー、コー・シュトライフ (reeds)、ジョエル・レアンドルなどが出演、さまざまな編成で即興演奏が繰り広げられた。シュヴァイツアーとファブリーク・ジャズが協力してチューリッヒで開催された第2回は、スイスでレズビアンによる運動が起こっていたこともあってか、新聞等のメディアで取り上げられた。そのことから、「カネイユ」そして女性の即興音楽家の存在が知られるようになったのである。「カネイユ」はその後も毎回場所を変え、その土地の女性ミュージシャンが主体となって行われた。1990年代以降、シュヴァイツァーはニコルス、レアンドルとのトリオ「Les Diaboliques」で継続的な活動をする。
チューリッヒの音楽シーン、タクトロス・フェスティヴァル Taktlos Fastival とインタクト・レコード Intakt Records についても触れておかねばなるまい。チューリッヒ湖沿いにローテ・ファブリーク Rote Fabrik という文化施設がある。その名のとおり赤い煉瓦で出来た元工場で、そこは取り壊して湖沿いに高速道路が造られる予定だった。しかし、そこを利用して文化施設をするべきだという運動が起こり、左翼政党と協力して陳情するだけではなく、時にはデモやシットインなどの直接的な行動も行われた。その結果、1980年には文化施設としての利用がスタート、そこを拠点としたファブリーク・ジャズの活動も始まる。1980年代を経て、ミュージシャン組織が作られ、公的機関や財団から助成金を徐々に獲得できるようになる。今でこそヨーロッパでは助成金を得てフェスティヴァルなどを開催したり、国外ツアーを行っているが、それは一日で成されたものではなく、スイスでもミュージシャンや周囲の人達の動きがあったのである。
1984年には第一回タクトロス・フェスティヴァルが3日間に亘って開催された。共同設立者のイレーネ・シュヴァイツァーは、ジョージ・ルイス (tb) とのデュオ、マギー・ニコルス (vo) とギュンター・ゾマー (ds)とのトリオ、ジョエル・レアンドル (b) とパウル・ローフェンス (ds) とのトリオで演奏。そこでのライヴ音源のレコード化を幾つかのレコード会社に持ちかけたが、全て断られた。彼女がレズビアン運動のシンボル的存在とみなされていたことが暗に作用したという。そこで、パトリック・ランドルトとシュヴァイツァーは自分達でレコードを制作することを決める。インタクト・レコードの第一作がシュヴァイツアーの『Live at Taktols』なのは、そのような背景があったのだ。続く二作目はチューリッヒで開催されたカネイユ・フェスティヴァルのライブ盤『CANAILLE International Women’s Festival of Improvised Music at the Rote Fabrik, Zurich, 1986』。ヨーロッパの女性即興演奏家の活動が世界的に知られるようになったのは、このアルバムがリリースされたことが大きい。また、シュヴァイツァーはスイスのミュージシャン、コー・シュトライフ、ユーク・ヴィッキーハルダー、オムリ・ツィーゲレなどともよく共演していた。彼女はローカルなシーンと深く関わりながらも国際的な活動を継続させたミュージシャンだったといえる。
私がシュヴァイツァーの演奏を観たのは3回。最初は 1987 年メールス・ジャズ祭での「カネイユ」のステージで、赤い衣装が似合っていたアニク・ノザティ(vo) の存在感、若いレアンドルがベースをくるっと回したのがカッコよかったことと共に、マリリン・マズールとシュヴァイツァーのツインドラムが強く記憶に残っている。その次は 1998年来日時の世田谷美術館での演奏でジョエル・レアンドル、橋本一子それぞれとのデュオ。この時のツアーではマニ・ノイマイヤー、また日本人ミュージシャンとの共演もあったが、彼女の来日はこの時が最初で最後だった。3回目は2007 年のローテ・ファブリークで開催された unerhört! という シュヴァイツァーも立ち上げに関わっていたフェスティヴァル。いわばホームでの演奏である。共演者はオリバー・レイク (sax)、レジー・ワークマン (b)、アンドリュー・シリル (ds)で、この時は彼ら作品を演奏。即興演奏を身上にするシュヴァイツァーだけに当初は難色を示したと聞いた。とはいえ、ワークマンとのデュオでのインタープレイやアンコールの即興性の高い演奏は彼女の持ち味が存分に現れていた。
イレーネ・シュヴァイツァーはパーカッシヴでありながらもピアノの音色を生かした演奏をする稀有なピアニストだった。また、女性即興演奏家の草分けであり、ローカルとインターナショナルな活動でも特筆すべき音楽家だったといえる。心からご冥福をお祈りします。
*写真は2007年11月26日、チューリッヒのローテ・ファブリークで開催された unerhört! にて撮影。
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フェミニスト・インプロヴァイジング・グループ、イレーネ・シュヴァイツアー、カネイユ
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