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Monthly EditorialEinen Moment bitte! 横井一江No. 335

#55 箏という楽器の可能性 〜 沢井一恵を偲んで

text & photo by Kazue Yokoi  横井一江

 

沢井一恵 (1941 〜 2026.02.15) は邦楽という枠を超えてさまざまな音楽家と交流することで、同時代的に箏の可能性を拓いてきたまさに先駆的な箏演奏家だった。

随分と前になるが一度インタビューさせていただいたことがある。年刊誌 Improvised Music from Japanの取材で2003年12月下旬にご自宅に伺ってお話を聞かせていただいた。その年に沢井一恵はミシェル・ドネダ (ss)、齋藤徹 (b)、今井和雄 (g) とカナダ、フランスをツアー、ヴィクトリアヴィルのフェスティヴァルFestival International de Musique Actuelle de Victoriaville での演奏はCD化されたこともあったのだろう。当時は齋藤徹と時々共演していた記憶が残っている。

そのカセットテープが出てきたので、改めて聞き返してみた。

8才から宮城道雄に師事、東京藝術大学音楽学部を卒業したが、現代邦楽の第一人者となる箏曲家沢井忠夫と沢井箏曲院を設立。古典・現代邦楽の分野で活動していたものの 「古典からの流れではないところからの感性、刺激がほしい」ということで、「現代音楽の作曲家に書いてもらった」という。実際、高橋悠治など様々な音楽家と仕事をしている。そんな沢井が初めて即興演奏を行ったのは、80年代初め頃、来日したフレッド・フリスが日本人の音楽家9人と9分ずつの演奏をするコンサートだった。他に出演したのは、林英哲、高橋悠治など。その後、ジョン・ゾーンに自身のリサイタルのプロデュースを頼んだり、多彩な活動をしていたが、積極的に即興演奏の場に出ることはなかったという。

ひとつの転機となったのは、 80年代後半、助成金を受けて3ヶ月ほどアメリカに滞在したことだろう。これには経緯があって、お箏を習っている若い人が上手になっても行くところがない。これは師匠が旧来の邦楽家とは違って、一歩進んだ活動を始めていたこともあったと考えられる。内弟子が終わってから、同じ苦労するなら外へ出ろ、外国に行け、それには奨学金がいるということで、セゾンに相談に行く。そこで「あなたが行くならすぐ出す。あなたが行って若い人の派遣先を自分で見つけてこい」と言われたことから出かける。その間ジョン・ゾーンやフレッド・フリスとコンサートにも行ったという。その時に「BANG ON A CAN」フェスティヴァルを知る。そこでは色々な音楽が演奏されていたことから、ずっと夜通しで聴いていた。するとオーガナイザーから声をかけられたので「私も出たい」」と言ったという。ニューヨーク滞在中に自身のリサイタルを行った時は、ジョン・ケージやそのオーガナイザーも聴きに来たことから翌年に繋がり、竹澤悦子など若手7、8人を連れて行く。当時は何でもありのフェスティヴァルだったようで、沢井の前の出演者はワールド・サキソフォン・カルテット、それでも演奏後の反応が凄かったという。その翌年も出演し、ジョン・ケージの作品を弾いている。そこには様々なオーガナイザーが聴きに来ていたことから、カナダ、次はウィーン、次はロシアというにように道は拓かれていった。中にはコンピューターと箏との即興演奏というのもあったという。そしてまた、ウェズリアン大学やハワイ大学に箏の講座を開設してもらって、指導者を派遣することも始めたのである。

沢井にとって、ソフィア・グバィドゥーリナとの出会いも大きかった。グバィドゥーリナが初めて日本に来た1989年、彼女のスタジオに来た時のことだ。沢井の演奏が終わるやいなや楽器に寄ってきて箏に触れ、「なーんと素晴らしい楽器だろう」と言う。そんなに気に入ったのならと「曲を書いてください」と頼むと「ここで聞こえなかった音で曲を書くわよ」と。その曲は草月ホールで演奏した。グバィドゥーリナはソ連時代に前衛的な作品を書いたことで圧力がかかったことから、地下へ潜って即興をやっていた。そんな状況に耐えていたが、そのままでは生きていけないとドイツへ逃れる。その後、彼女が「コンチェルトを書いたら弾いてくれるか。こういう楽器のこういう奏者がいることを世界中に知らせる」と言う。それは後にNHK交響楽団との公演で実現した。「箏は音域も狭いし、音も小さいし、一回チューニングしたらコード変更ができない限界のある楽器だ」と沢井は言う。だが「グバ(グバィドゥーリナのこと)が寄って来たときの様子。音を出した瞬間、『あー、えー、こんな無限な可能性を秘めた楽器はないわよ』という言葉によって解放された」という。

また、齋藤徹と出会ったことから、韓国に行き、シャーマン音楽の重鎮、金石出とも演奏している。他にも板橋文夫とのデュオなど、誘われると出かけるようになり、1990年代には即興演奏の現場にも顔を度々出すようになる。ところで、即興演奏することで沢井自身の音楽への向き合い方に何らかの影響はあったのだろうか。それについてはこう語っている。

即興を始めて、初めて耳が開いた。聞こえてくる音に対して耳が開いたのは大きかった。自分ではそれなりにやってきたつもりだったし、ずーっと若いときから他の人よりはこういう音じゃないきゃいやだ、というのが強かった。でも、耳の外で弾いていたのじゃないかな。せいぜい上手く弾けたのかとか、思うとおりの音量だったのかとかその程度ですよね。

私が沢井一恵の演奏を最初に間近に見たのは、1992年のメールス・ニュー・ジャズ・フェスティヴァルだった(*)。これも何かの縁だろう。その頃のメールスはフリージャズに拘らず、ワールドミュージックも含めた世界の音楽シーンを状況論として提示していた。プレステントに居たら、箏を抱えた女性集団がきゃっきゃとお喋りをしながら入ってきた。演奏後、そこで写真を撮っていた人に箏譜について聞かれた。置かれていた五線譜ではなかったので興味を持ったのだろう。その時はKoto Ensembleでの出演で、後に自身のプロジェクトで招待される八木美知依を始め、翌年Koto Voltex(西陽子、丸田美紀、竹澤悦子、八木美知依)を結成するメンバーも含まれていた。

「ころりんしゃんから脱出したい。《春の海》に代表されるそこから先にはないものか」というところから始まった沢井のチャレンジャブルな活動。それはまた、箏という楽器が世界中のさまざまな楽器の中で同時代的に生き残っていてほしいという願いに根ざすものだったといえる。インタビュー時に「お箏にも結構いろいろなことが出来る。若い人も自分が刺激を受けることはやってほしい。自分は入り口を見つけたけど、それをさらに進んでほしい」と語っていた。なんといっても沢井の意思を最も継いだのはハイパー箏奏者として多方面で活躍する八木美知依だが、沢井箏曲院は旧来の箏奏者の枠に留まらず現代的なアプローチで活躍をしているLEOなどの若い世代を輩出している。

心からご冥福をお祈りします。

*一番上の写真は1992年6月6日メールス・インターナショナル・ニュー・ジャズ・フェスティヴァルで撮影したもの。

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。メールス ・フェスティヴァル第50回記念本『(Re) Visiting Moers Festival』(Moers Kultur GmbH, 2021)にも寄稿。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 https://kazueyokoi.jimdofree.com

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