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Monthly EditorialFrom the Editor’s Desk 稲岡邦彌No. 337

#27 山口ちなみと『ザ・ケルン・コンサート』(続)

text: Kenny Inaoka 稲岡邦彌

今月は横井一江副編集長の輪番なのだが、無理を言って先月号の続きを書かせていただく。
山口ちなみのCDがリリースされて以来、いくつかのレヴューが目に付いた。まず目を引いたのが、『ジャズ批評』250号所載の後藤誠一連載エッセイ「Slow Swingin’〜失われた名曲やアルバムを求めて〜第26回「キース・ジャレットと山口ちなみのケルン・コンサート』〜真面目な問題作を考察する〜」。著者紹介によると「福岡県北九州市生まれ。生地で地域のホームドクターとして診療活動を行う傍ら音楽療法を実践。ジャズオーディオにも深く傾倒し、ヘヴィー・リスナーとしての日々を過ごしつつ、本誌の連載記事や特集記事を寄稿している」とあり、どうやら同誌の主幹的立場にある人物のようだ。なるほど、5pに及ぶ氏の論評は論旨明快で説得力に満ちたものだ。氏も当初は「ジャズは即興が生命、キースが弾いた通りに弾いてみてどこが面白いのか」と山口のチャレンジに否定的だったそうだ。ところが山口の演奏を聴き込むにつれて「真面目な問題作である」という確信を持つに至る。(即興演奏とはいえ)「録音記録から採譜された楽譜も立派なクラシック曲と並ぶある意味芸術作品である」と判断するからだ。今では、「キース・ジャレットのケルン・コンサートと山口ちなみのケルン・コンサートを同時進行で聴き比べをする楽しみが増えたという。聴き比べの結果、氏は重要なポイントに気付く。演奏時間の長さである。全曲演奏に要した時間は、キース・ジャレット66.15分に対し山口ちなみ61.58分。「山口ちなみの方が4分17秒短い。瞬間産物と熟成産物の違いだ」と氏は指摘する。これは重要な指摘である。最近リリースされた山口のライヴ盤のカウンターが表示する演奏時間は64.55分。ほぼキースの演奏時間に近い。キースの場合は即興が瞬間作曲とはいえ音楽が降りてくるまでに時間を要する、山口の場合は楽譜をすべて読み込んだ上で表現するのであるからキースのような「待ち時間」は必要でなくなる。では、山口のスタジオ盤とライヴ盤の差はどこから来るのだろうか。山口にとって初めて経験するスタジオ・レコーディング、緊張もあり、心の余裕もなかったのではないか。ライヴでは通常会場の雰囲気に乗ってテンポが早くなるものだが、彼女の場合はある程度の余裕ができて「タメ」がとれるようになった。歌うところでは心ゆくまで歌える。「タメ」はグルーヴに必要である。このことは、筆者が2度目に聴いたライヴ演奏(恵比寿ブルーノート・プレイス)からも推察できることだ。
クラシックの場合、同一作品の演奏について指揮者あるいは演奏者によって異なる演奏時間が批評の一つのポイントとなる。よく知られた例がグレン・グールドのバッハ<ゴルトベルク変奏曲>である。1955年録音版は38.34分、1981年版は51.14分、その差は実に12.40分(後者には前者では省略されていたリピートが含まれている)。ちなみに、キース・ジャレットの場合は (1989 ECM)、ハープシコードの演奏ではあるが、61.19分である。グールドの極端なテンポの差はグールド独自の意図があってのことで山口の例とは比較にならないが、あくまで参考として挙げてみた。

次に目にしたのはPHILE WEBに掲載された哲学者の黒崎政男の論考。タイトルは「山口ちなみ『ケルン・コンサート』、クラシックとジャズの境界を問う21世紀的事件性」。氏も哲学者であるからして論旨明快。氏は[20世紀の鍵盤楽器において、演奏/録音史上特筆すべき二人の人物が存在する]として、グレン・グールドとキース・ジャレットを対比させる。グールドの『ゴールドベルグ変奏曲』とジャレットの『ケルン・コンサート』は、音楽演奏史上の二つの奇跡的出来事]であり、「それを永遠に残し続けようとする力学がどうしても働いてしまうことになる]という。グールドの55年録音の演奏は完全にデジタル解析されデジタル・ファイル化、児童演奏ピアノによる再演奏を可能にした。一方、キースの演奏は採譜、楽譜化されたことによりピアニストによる反復演奏が可能となった。そして、[山口ちなみの『ケルン・コンサート』は、ジャズの即興演奏をまねているのではなく、楽譜化されたキースを、あたかもモーツァルトを演奏するようにキースを演奏している]のであり、[キースの『ケルン・コンサート』を楽譜通りに再現する試みは、ジャズという「即興の芸術」をクラシックの「再現芸術」へと反転させる行為なのである]、と結論づける。山口ちなみの演奏は、ジャズとクラシック、即興と楽譜化、オリジナルとコピー&シミュレーションなどを考えさせる問題作であるという氏の主張に異論はないだろう。

哲学者の黒崎政男に宗教学者の島田裕己、さらに制作社の寺島靖国が参加した鼎談、季刊「アナログ」91号の「特集 聴こう、語ろう、世紀の即興『ザ・ケルン・コンサート』山口ちなみの再現作の是非を問う~即興ってなんだ? 」も興味深い記事だが、この場では紙幅の関係で紐解くことができない。興味のある読者はぜひ一読願いたい。

さて、『ザ・ケルン・コンサート』がらみで映画『ケルン 1975』に触れておきたい。山口のCD以上にネットを中心に賛否両論喧しく(ある記事によると賛80%、否20%ということだが)、近くの川崎アートセンターに観に出かけた。キース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』にまつわる経緯をコンサートを主催したプロモーターの視点から描いたという触れ込みだった。当時16歳の女子高校生が猪突盲信、両親や音楽関係者という彼女にとっての体制に激しくぶつかりながら初志を貫徹していくというストーリーに拍手が沸いたようだが、彼女の無鉄砲とも思える蛮勇を称賛するあまりミュージシャンや関係者に対するリスペクトが欠ける点が気になった。ドラマ仕立てとは言いながら史実をなぞったフィクションだからだ。彼女に「過保護で甘やかされた環境で仕事をしている」と罵られたキースが翻意して演奏を決意するという決定的なシーンがあるが、キースはライヴ楽音を前提のコンサートにオンボロのベイビー・グランドで望みたくなかっただけなのだ。この判断はキースに限ったものではないだろう。通常、ピアノ・コンサートを前提にホールに予約を入れる場合、ピアノはスタインウェイかベーゼンドルファーかはたまたヤマハか、調律師は誰にするか、ピッチは幾つに設定するか、調律師を立ち合わせておくかどうか、主催者はホール側と取り決めるのが常識である。彼女はアマチュアであるが故にその最低限の義務を果たしておらず、ライヴ・レコーディングに臨むにあたってベーゼンドルファー・インペリアルの希望に対してオンボロのベイビー・グランドをあてがわれた。これに体調不良も重なって演奏拒否を申し出たキースの態度は当然だったろう。応急処置を施されたとはいえ不完全な小型ピアノであの名演奏を残したキースのアーチスト精神をこそ褒めて然るべきだろう。それではエンタメにはならないことを百も承知でもの申している。

山口ちなみと『ザ・ケルン・コンサート』(前編)

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。最新刊に訳書『キース・ジャレットの真実』(DU BOOKS)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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