#136 木村行成著『青森のジャズな人々〜占領軍兵士から始まり台湾とトランスローカルにつながるライフストーリー』
text by 金野ONNYK吉晃
木村行成著
『青森のジャズな人々〜占領軍兵士から始まり台湾とトランスローカルにつながるライフストーリー』
Kindle版及びペーパーバック版 ¥3,080 与力堂出版部 2024年
本書のタイトル、そしてサブタイトルの間に横たわる違和感、それはこの書を読み進めなければ解消する事は無い。
1956年、秋田県に生まれた筆者は、現在フリーランスの歴史社会学研究者を自認している。高校時代にジャズに出会い、半世紀に亘り愛好してきた。図らずも木村氏と私はほぼ同年であり、ジャズのみならず多くの洋楽を聴いて来たことも合致する。
氏が自らのファンライフを、社会学的「オートエスノグラフィー=自己生活史」として語るなかで、偶然入手した一人の占領軍兵士の手紙から始め、青森県弘前市、八戸市周辺のジャズ愛好家達の業績としての南郷村ジャズフェスティバルへと繋げ、さらには戦後の日本と似た立場にあった台湾の高名なジャズマンの懐古譚を挿み、ケイ赤城へのインタビューで締めくくっている。
そして氏は、この研究の歴史範囲を1970年前後までと限定している。その理由は、それまでに日本固有のジャズ概念が確立したと考えられること、また氏がインタビューした方々の基本理念もほぼその辺りで完成された事、メディア的(レコード、テープ、放送、ライブ、雑誌)な広がりとジャズ喫茶という「日本独自の装置」(これは私の解釈)が全国的に流布したという事をあげる。
また1970年は、日本の一つの変曲点である。社会的政治的にも大きな変動が起きた事は言うまでもない。ジャズもまた、そのスタイルを大きく変え始めた。ミュージシャンにしても、レコードのコピーや、先輩に師事して体で知ることから、音楽理論を学び、留学もすることは稀ではなくなった。すなわち「倣う、習う」ジャズから「学ぶ、書く」ジャズへ。
なるほど、そうした配慮からすれば、日本のジャズを敗戦まで、そして高度経済成長期の終わりとして1970年、その後のバブル期までといった区分を考えるのは適切かもしれない。
そして氏は、まさに戦後のスウィング、ビバップからモダンジャズの成熟期、コルトレーン、アイラーの死までの間に、ジャズというものが日本の地方都市に与えた影響を、まさに聞き取ろうとしている。決して普遍的であろうとしない探求。ローカルに徹することで見えて来るグローバル。
実は私が、音楽を意識的に内面に取り込み始めたのも1970年である。木村氏は64年にバスの中で聴いたビートルズが衝撃であったというが、私には66年の「サンダーバード」のテーマだったかもしれない。我々には共に、洋楽はメディアで運ばれて来た。いや、日本の音楽もそうだが、その距離感はまるで違う。いわば、その距離を埋めて行こうとすることが音楽探究だったかもしれない。
そして敢えて付言するならば、発祥の地アメリカにおいては、ジャズは我々が思うようなステイタス(状況)を維持してはいない。ジャズは確かに在るが、いわゆるメジャーではない。それはおそらく日本で知られる程では無いし、評価もまたそうである。日本人は実にジャズを大事にしている。
日本でジャズを愛好すると言えば、自らの嗜好と志向、好むミュージシャンとスタイルを明言し、しかもなるべく良い音質で聴くべしという意識を持つ御仁が多いだろう。
が、ジャズという音楽の得体の知れなさは、その安定を許さないだろう。木村氏の研究範囲の時代でさえ、ジャズは譜面からはみ出し、様式からはみ出し、フリージャズの混沌にまで達し、さらにロックの要素を吸収しつつ変遷して行った。そして幾多の段階のジャズが、同時に存在していた。
しかし日本の東北の地方都市で、ひたすらジャズを愛した人々は実に多くのレコードを収集し、それを紹介する為の場所(バー、喫茶、レコード店)を作り、一緒に演奏する仲間を募り、その発表の場を求め、ついにジャズフェスを自主的に主催し、それを継続するに至る。その労苦は大都市とは比べ物にならない。しかし、彼らは実に真摯な努力を重ね、逸脱や自由さよりも、直裁で保守的とさえ言えるような態度を信条とする。
例えばそれは、第一回南郷村ジャズフェスティバルを企画した、南郷村村長の壬生末吉、それを引き継いだ希代のプロデューサー鳴海廣、JAZZ in長者山の主催者である大久保景造らの人柄を読めばわかる。また八戸の「クローズ・フォー」なるカルテットは全国大会入賞の栄誉を得る。
関係者のインタビューや映像記録、新聞雑誌、広告などを資料に、これらの業績を木村氏は丹念に記述する。
彼ら偉大なるアマチュアの活躍こそ、地方都市でジャズというマイナー音楽を一般に知らしめ、世界的なミュージシャン(ジャッキー・マクリーン、ジョージ川口、ロイ・ハーグローブ、日野皓正、フレディ・ハバード、大西順子、ロン・カーター、ベニー・ゴルソンなど)に新天地を提供したのである。
ラディカルな音楽の代表としてアート・アンサンブル・オブ・シカゴの弘前公演があった(1984年、二度目の来日)。これを主催した菅原定夫の事も書いておきたいが、彼のジャズ喫茶「suga」は、1970年開店であるから、その活動は本書の守備範囲を微妙に越えている。が、菅原へのインタビューからも木村氏は多くを得ている。
まだまだ切り口はある。しかしこのような書評で「ああ、そんなものか」と知った気になってしまわれては、あまりに申し訳ない。木村氏の探求過程を思えば、その資料の量と質から、この273頁の本が出来るまでの抽出は想像に余りある。それはあたかもフィルム時代の映画製作で、撮影された多くのフィルムが使われずに終わったようなものだ。
筆者の知人の一人は木村氏と同じような手法でチンドン屋の歴史を一冊にまとめたが、文章になったインタビューは一割程度だと言った。
最後に希望というか木村氏へのお願いがある。
まずは文章が時に分かりにくい。一文が長く、複合的構文が多く、主語がどこか見失うことがままあった。文章を短くしていただけたらもっと分かりやすいのではないか。
また脚注の量も気になる。確かに必要であろう。しかし本文との配置関係を考慮して頂きたい。おそらく研究論文の影響が在るのだろうか。
これらの問題は、どこかの出版社(中央とは言わず地方でも)の良き編集者が居れば解決するだろう。
そしてテーマを更に絞り込み、縦書きの新書にしたらもっと多くの読者を獲得するであろうと思う。研究記録の集成ではなく、自分探しの旅でもなく、地元への寄与、同時代音楽の共感を支える、優れた成果として。
無礼を承知で申し上げた次第、ご容赦を。
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