#138 論考『地底のレコードへの飛翔』(前編)
副題:書評『ピボット思考〜ビジネスモデルを破壊し創出する』『大楽必易〜わたくしの伊福部昭伝』
text by Yoshiaki ONNYK Kinno 金野ONNYK吉晃
1.インダストリーとエコノミー
ウィル・ペイジ著『ピボット思考〜ビジネスモデルを破壊し創出する』(早川書房2022)
これからの音楽媒体はどうなっていくのか。それは作品の流通を考えるだけではなく、演奏者を、音楽の制作方法を、音楽産業を、そして音楽を享受する聴取者の心性を考える事でもある。
ウィル・ペイジ著『ピボット思考〜ビジネスモデルを破壊し創出する』(早川書房 2022)なる書を読む。この人は、デジタル音楽配信サーヴィス “Spotify:スポティファイ”の事業拡大を成功させた。
“スポティファイ”は、2008年に「アーティストらに十分な利益を還元することが当初の目的」(Wikipediaによる)として配信を開始した。その普及については改めて書くまでもない。
さて、ペイジは音楽を愛しているという。が、結局のところ、その愛は商品としての音楽経済へ向いている。彼は音楽産業の経済を研究するロッコノミクスの研究者であり、実践者だと自認している。
かつてインターネットによる共有と不法アップロードの蔓延で、CD売り上げは下落低迷。なんとか違法行為を規制しようと業界は躍起になるが、ヒットが出れば出るほど海賊盤、不法行為は増加する。
そこでペイジは気づいた。ある楽曲は売れるほどコピーが出回る。ならば、コピーする事を売れば良いと。もはや盤を作る必要さえ無い。最初からダウンロード専用の回線を開けば良い。そのアクセス権を売るのだ。すなわちサブスクリプション。
また、新型ウィルス禍で、ライブさえ配信される。つまり音楽はネットを経由し現前する。そして後にはゲームもその方式を採用した。ネットが媒体そのものとなった。
それでいいのか? つまりこれは音楽をあくまで商品として、いかに売り上げを伸ばすかという意志が根底にあることを忘れてはならない。
ペイジは「ヒット商品だけが売れればいいのではなく、優れた主張をしているマイナーな多様な音楽も売れた方が良い」と考える。しかし作品が流布する事、売れる事が全ての判断基準か。この問題はもう一度考察する。
私は反対の宣言をする。
世の中には、「売れなくても」ではなく、「あえて売らなくても」良質な音楽が沢山あるという当たり前の事を。
もうひとつ、この本では言及されていない問題が在る。
それは「時代が下るに連れ、音楽は、その生成現場のアリバイを失い、記録保存され、時を越え、場所を超えて再現されるためのデータ、信号の集積になっていく」という傾向だ。
当たり前の事だが、かつては音楽を聴くためには、自分が音楽家であるか、誰か音楽家がそこに居なくてはならなかった。今は?そう、電源を入れ、無数の楽曲から好みを選び、再生のボタンを押すだけ。
あたかも闘争(これも文化)が、フルコンタクトの肉弾戦から、投石、弓、銃、砲弾、ミサイル、ドローン、そしてサイバー攻撃になっていったように。
データ化とアーカイヴ化は実際、人間文化のあらゆる面で言える事なのだが。
20世紀、アメリカが世界の中心になってから、音楽産業、そしてその流通機構は、いかに媒体を販売するか、ある曲が一日に何度電波に乗るか、それだけを「良さ」の指標にして来た。キャッシュボックス、ビルボードといったヒットチャートは、懐かしきジュークボックスと一体で、マフィアの資金源。
ジュークボックスではそのメカニズム上、センターの穴の大きい7インチ盤がセットされた。その形状からドーナツ盤と呼ばれた。セットされたレコード群は定期的に交換され、古い盤は廃棄される。それを拾って聴き漁った若者達は愛好家に、ミュージシャンになった。ドーナツで心の飢えを満たした思春期。
かつてのハリウッド映画のスターシステムは、人気俳優が出演して、いつもの脇役と悪役が判で押したようなドラマを展開し、ハッピーエンド。俳優は、使い捨て。ジュークボックスのレコードと同じ。
このやり方を米国が世界中の映画業界に輸出した。プロダクションとスターシステム。プロパガンダと徹底した繰り返し。売り上げや動員数が下がれば、廃棄。
しかし世界のどこでも完全にその方式で席巻されたわけではない。欧州にもロシアにもインドや日本にも、独自の美学で「良い映画」を撮ろうという連中がいた。映画は発展途上国でも最大の娯楽産業であった。
ニンゲンの表現/欲望を全て商品形態や売り上げに還元しようというのは、資本主義的志向である。それは「多様な差異の存在」を前提とし、その平衡化へ向かうエントロピー現象である。
各地域の歴史と風土に馴染んだアートの存在意義は何か。そのアートは根源的な欲求である。平衡化つまり死に向かうエントロピーに対抗する生命現象そのものが、アートなのだ。だからこそアートは猥雑で性的なのだ。
資本主義はアートを商品価値に変えるが、アートはまた、資本主義に反抗する。
2.マテリアリズム
片山杜秀著『大楽必易〜わたくしの伊福部昭伝』(新潮社 2024)
「文明はいったん回りだすと後戻りするものではないのですが、文化芸術は異議を唱えるためにあるので。」
作曲家、伊福部昭(いふくべ・あきら)の言である。
音楽、政治、歴史などを広く評論する片山杜秀は、著書『大楽必易〜わたくしの伊福部昭伝』(新潮社、2024)で、長年作曲家と対話して来た記録をまとめた。
伊福部の原初的な音楽体験は、なんとアイヌのコミュニティにあった。
彼らの旋律とリズムをずっと心中に秘めながら、ヴァイオリンを習い、作曲を独学した。驚くべき事に北大在学中に書いた『日本狂詩曲』で世界的コンクールに入賞、チェレブニンの認めるところとなり、注目の存在となった。しかし日本の楽壇には認められず不遇をかこつことになる。戦後すぐに、薦められて映画音楽を書く事になった彼は、それを決して余技ではなく、映画を音楽に依って完全なものにしようという真摯な意図を持った。
片山は若き硯学であるが、彼の伝える伊福部もまた驚くべき硯学であった。
娯楽は文化だが、それは現代文明を賛美するとか既存社会体制を肯定するに留まらず「異議を唱える」ものになりうる。
先進社会に拉致されてきたキングコングとは全く違う、海底で核兵器によって目覚めた怪物『ゴジラ』。それはかつて無かった恐怖、核戦争の可能性の顕在化である。その映画音楽で世界を席巻した伊福部。あのテーマ曲無くしてゴジラは考えられない。
ご存知のようにこの映画はハッピーエンドではない。核兵器の申し子ゴジラは、また別の究極兵器によって葬られる。悪を以て悪を制す?
劇中、山根博士の危惧のとおり新たなゴジラがやってくる。続々と。
ゴジラに先立つ1954年、マグロ漁船第五福竜丸は、ビキニ環礁で操業中、水爆実験の放射線を浴び、乗組員の悲惨な死と放射能を帯びたマグロの危険性が問題となった。福竜丸は、ラッキードラゴンと称されて世界的に知られる事になる。ゴジラは海から来た悲運のドラゴンでもあった。
1962年、作曲家ヘルベルト・アイメルトは電子音と語りによる『久保山愛吉の墓碑銘』という警世の作品を発表した。久保山はラッキードラゴンの乗組員である。
ギタリスト高柳昌行と彼のニュー・ディレクションは、その曲を流しながらメルス・フェスティヴァルで演奏し、聴衆を戦慄せしめた。1980年のことだ。
ゴジラを目覚めさせたのは水爆とされる。日本を敗北させた原爆は核分裂の賜物だったが、水爆は原爆を利用して核融合を起こし、さらに巨大な破壊力を生む。
核融合は恒星の存在原理であり究極のエネルギーである。人類は半永久的エネルギーの獲得を目前にしている。
しかし、まだそれに至らないまま、原子力発電が人類の欲望を満たそうとしている。その背景には化石燃料の供給と限界を懸念する社会がある。
気候変動の一因とされる大気中の二酸化炭素の増加を懸念するならば、原子力発電もやむを得ないという意見が政府にはある。また実を言えば、日本の原発技術の発端と維持は、核兵器開発の一助でもあり、原子力発電所システムの輸出の基盤でもある。
化石燃料として石炭の時代は終わり、石油が主となった。石油は燃料以外にも加工され生活、産業のあらゆる領域に浸透している。原子力の代替にはならない原料=マテリアルだ。結局、石油の支配は世界の支配である。
ジュラ紀の化石になれなかったゴジラは、エネルギーとマテリアルの怪物として復活した。(前編終わり)