#077 柳樂光隆『Jazz The New Chapter ~ ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平』
text by Masanori Tada 多田雅範
書名:『Jazz The New Chapter ~ ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平』
著者:監修 柳樂光隆
版元:シンコー・ミュージックMOOK
初版:2014年2月14日
定価:1680円
目次 :
■PART 1: ロバート・グラスパー以前/以後のパースペクティヴ / ジャズ新時代を担うワイルド・チャイルドの歩み / Discography Robert Glasper / 真価を発揮するエクスペリメントのライヴ・レポート / ジャズmeetsヒップホップを巡る変遷と更新 / 規格外な“実験”バンドの顔ぶれ / エクスペリメント成功の鍵を握ったドラムの進化論…他 ■PART 2: 新世紀に花開いた新しいジャズの可能性 / Blue Note Frontline 由緒正しき名門による格闘の記録 / Jose James / Gregory Porter/黒田卓也 / Jazz+More ジャンルの融合と解体を巡るいくつかの考証 / “今”を彩る100枚のアルバム / 注目度の高い14レーベルを厳選紹介 / ワールド・ジャズの新しい勢力地図…他
「必読!!!90年代以降の現代におけるジャズ批評の空白を埋める重要作」タワーレコード池袋店。まさに。
Vijay Iyer ECM盤の即日レビューをする昼過ぎに、平和台駅前のあゆみブックスヘ立ち読みしに出かけていたんだが、柳樂光隆さんによる見開きイントロ文を読むうちに感動してお買い上げしました!怒りにも似た、宣言文。こりゃあ、ジャズだ。世界初のジャズ本。知らんことだらけだ。
なにい?タワーレコードで購入するとボーナスディスクレビュー冊子があるのおお!ノオオ!そこには橋爪亮督グループの新譜が掲載されているという、やったー。
監修する柳樂光隆さんはまだ30代と。そして、中央線は国分寺の中古CDショップ「珍屋」店長だったと。国分寺プー横丁のお店の渡辺草店主からのジスモンチやジャズで育ったという。おれとおんなじやんか、珍屋は開店した頃おれ学生だったよく行ってた。あの不毛の東京学芸大学からジャズ評論家が出たのだ。不毛だなんて毒づいてどうする。ECMサウンドが満ち溢れている記憶のかたまりだのに。
プー横店主には学生時代以来お目にかかっていないけれど、柳樂さんが中継してくれてお互い元気にやっていることがわかった。ほんとにありがたい事態だ。「ほら、ただくんが好きなヤンヨンテリエアリルドが参加しているジョージラッセルフライングダッチマン盤が角の古着屋のエサ箱にあるよ」、なつかしいなあ。
つい昨年だったかECMの総帥マンフレート・アイヒャー(71)はレディオヘッドが好きなのだときいて、一瞬虚を突かれた。そして、それは当然だよなー、と、思い至るまでの数秒。耳のパラダイム・チェンジ。レディオヘッドもメルドーもアイヒャーも、現代を生きている。いや、現代を生きているという書き方は不遜で、単にリスナーであるワタシが聴きたいように聴いていた自閉を思うべきなのだ。
レディオヘッドもスフィアン・スティーヴンスもルーファス・ウェインライトもわたしは大好き。ニック・ドレイクもね。
柳樂さんのテキストでは、レディオヘッドもスフィアンも ECMマジコへの視野も現代ジャズの地平に在ることが記されている。こういうことがちゃんと活字になるということは重要なことだ。
それはとても痛快なことなのだ。
キッドAとエイジオブアズとマジコセカンド(当時これに中村とうようは0点付けたんだぜ)のジャケが並んで、印刷されているんだぜ。
ジャズおやじはそんなの聴かない。それはそれで自然なことだ。そして、ジャズファンがそこを通過していない、というのもあるけれど、ワタシはワタシでいろんなものを通過していないという恐れもあるなあ。
つーか、ほんというとオレ、ロバート・グラスパーに何にも感じられてねー!スムース過ぎる?そうだそうだ、これがジャズなら、ジャズはポピュラーミュージックにもフォークにもあがた森魚にもボブ・ディランにもアンドラーシュ・シフにも偏在しているところまで拡張してしまうではないか。
あらら。それはワタシもとっても同意できることだった。
ワタシも”現代ジャズ”という言葉を、何の注釈もなく使用しているというのにだ。テイボーンもモーガンも菊地雅章TPTトリオもハルヴァーソンもホーレンベックもウイリアムパーカーもモチアンメソッドもオブスピークも見開き2ページになっていないのかー。それはとってもごまめの歯軋りっぽいが、ようやくJディラの良さに気付いた(聴いたことがなかったんだもん)ワタシは新しい武器を得たプレイヤー、ヴァージョンアップするんだ。
音楽は曼荼羅のようであるから。ここでディスクレビューに掲げられた300枚の個々、に、数えきれない影響と共演関係と音楽的リスペクトは反響していて、と同時に個々は未踏の彼方へチャレンジしていることが予測される。
タイアップが基調であることを臆面もなく表出する音楽誌の中を、擦れっ枯らしリスナーとしての勘を頼りに新しいジャズの動向を探れども見えなくなった21世紀。このディスク・セレクトの本音感は、それこそ現代ジャズを見渡す上での新たなパースペクティヴを与えてくれる。
ラインマーカーひきまくり。
聴取の快楽構造には、ウイルス感染とか免疫機能とか抗体の生成とか、さらに精神医学のメカニズムまで入り組んでいるものだから、ディスクレビューのテキストに触発されたりピンときたりすることは思いのほか貴重な体験であって、印刷物として世に出ることは決定的に重要だ。
つぶさに通読するに、原雅明、若林恵のテキストなども柳樂論文とはまた独立した小宇宙のようなパースペクティヴを提示していることに、その文体に拓かれてゆく。つまりは、ここに執筆しているライターそれぞれが小宇宙であり、それらが曼荼羅のようになっている、という理解に到達する。筆者ごとに特有の文体が鳴り響いているではないか。筆者の意識の到達を読むのだ。ああ、じわじわと勇気がわいてきた。
音楽は曼荼羅のようであるから。ここは、わたしもちゃんとした小宇宙をめざそう。
現代ジャズの扉は開かれた。ジャズ評論の21世紀はようやく始まった。
作曲家の柴田南雄は書いている。
「われわれは、音楽の演奏によって、ただ感覚や情諸を楽しみ、複雑なスコアの音符や記号を正確に再現するのにいくら感心しても、じつは始まらない。それはたんなる素材である。それにとどまらず、われわれはマーラーならマーラーの交響曲の構造を通じて、それが生み出された時代が、生き生きとした姿でわれわれの生活の中に再構築されるのを体験したいと望む。むろん、われわれはその時代を現実に知っているわけではなく、小説や劇や映像や論文などによって、各自がばらばらなイメージを抱いているだけであるが、十九世紀末のヨーロッパ文化の文脈とこの演奏との間にはどのような関わりがあるのか、ということを興味の対象にせざるを得ない。つまり、関心の薄い、たんに今日的な感覚で複雑なスコアを見事に再現した演奏であるかは、わたくしにとって、ほとんど面白い演奏かつまらない演奏かの分かれ目になる。」
(付録)
ジャズ評論家の王が後藤雅洋師であることは明白だと思う。四谷いーぐるからは村井康司が出て、コンポストで益子博之を知った。あそこで出会ったひとの名前を挙げるときりがない。わたしも20代30代は入り浸っていたので門前の小僧か破門の舎弟は名乗れる気がする。“現代ジャズ”を語る益子博之は四谷いーぐるコンポスト虎の穴から出てきたタイガーマスクに見える。同じくコンポストから柳樂光隆が “現代ジャズ” 単著編集で登場した。どっちもタイガーマスクなのだろうか。わたしは途中で渋谷へ放り出されたが、ミスタークエスチョンぐらいになりたい。
*初出:Jazz Tokyo 2014.3.30