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Jazz and Far Beyond

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No. 215CD/DVD Disks

#1283『Nakama/Before the Storm』

Nakama Records

Adrian Loseth Waade (violin)
Ayumi Tanaka (piano)
Andreas Wildhagen (drums)
Christian Meaas Svendsen (bass)

  1. Gyodo
  2. Empty Day
  3. Yugen
  4. End Point

Recorded by Peer Espen Ursjord and Jan Erik Kongshaug in Rainbow Studios, Oslo, Norway, 2015.
Mixed and mastered by Peer Espen Ursjord in Rainbow Studios 2015.
Cover art by Christian Meaas Svendsen and Ayumi Tanaka.
Cover design by Christian Meaas Svendsen.
All music by Christian Meaas Svendsen/TONO

「サイレンス」の諸相をめぐって

先進的なレーベル〈Jazzland Recordings〉からアルバムをリリースしているMoptiをはじめとして、複数のプロジェクトにおいて同時進行的に活躍している北欧の新しい世代のベーシスト、クリスティアン・メオス・スヴェンセン。彼を中心に2015年に結成されたNakamaは、今後その編成を拡大していく方針にあるようだが、ひとまず現在はカルテットとして活動を行っているノルウェーの音楽グループである。メンバーは他にヴァイオリニストのアドリアン・ロセス・ウォード、ドラマーのアンドレアス・ウィルトハーゲン、それに本誌『JAZZ TOKYO』に寄稿してもいるピアニストの田中鮎美が参加している。Nakamaの音楽には近年のヨーロッパ・ジャズ、60年代のアメリカ実験音楽、それに日本の伝統音楽と、さらにはロマン派のクラシック音楽からの影響が混淆しているとスヴェンセンは言うが、昨年末にリリースされたファースト・アルバム『Before the Storm』ではこの際立つコンセプトが集約され、スヴェンセンが関わる他のプロジェクトのどれとも異なるこのグループの立ち位置を、高らかに宣言するような気概溢れる作品となっていた。

本作品で主題化されているのは「サイレンス」という、多くの作曲家および演奏家を魅了してきたテーマである。ジョン・ケージの無響室における体験を引き合いに出すまでもなく、それが無音の状態をそのまま意味するわけではないということは、いまさら言うまでもないのかもしれない。しかし単に無音を聴くことがあり得ないというだけではなく、ケージがそれを「意図されない響き」と述べたことからは、わたしたちが音楽(=意図された響き)を聴くさいに、つねにその聴取に介入し、それを満たし、聴くことを構造的に方向付けていくような基層の響きがあり、そしてそれに対して自覚的になることの重要性を説いていたのだということを忘れてはならない。ならば具体的にわたしたちはどのような響きから「サイレンス」を聴き取るのだろうか。たとえば僅かな変化を伴いながら執拗に反復されるひとつのフレーズを聴き続けるということを考えてみよう。そこでわたしたちが耳にするのは繰り返される体験の同一性ではなく、演奏の些細な変化であったり響きの微細な動きといったような、そのフレーズを個別に耳にしただけでは気づくことのないような細部の差異性であるはずだ。かつていわゆるミニマル・ミュージックの作曲家らが提示したこのような音楽では、同様のフレーズをなんども繰り返すことが、聴き手の関心をフレーズそのものではなく、むしろその輪郭の外部において「沈黙」していたあらゆる響きへと誘っていく。

衝撃的な幕開けを告げる<Gyodo>において本作品はこのような「サイレンス」をまずは提示する。ところでケージは「ノイズ」に楽音と同等の権利を与えることによって音の素材の一元化を図ったのだった。だがいまだに広義の西洋音楽の制度のなかで生きているわたしたちにとって「ノイズ」をそのまま音楽として聴くことは容易ではない。パッケージングされた空調設備の響きを音楽として聴くことはあろうとも、周囲にあるそれに耳を差し向けることは難しい――空調設備からベートーヴェンの交響曲第五番が流れてきたらすぐに音楽として耳を傾けるだろうにも関わらず。だから「ノイズ」を聴くことを音楽的時間足らしめるためにはなんらかの契機が必要だ。たとえばわたしたちがふつう音楽と呼ぶような和声的な響き――とりわけその制度性の象徴ともいえるピアノによるそれ――が「ノイズ」とともに奏されることを考えてみよう。二曲めの<Empty Day>においてピアノによる叙情的なハーモニーが奏されていくとき、音程の不確かな擦過音や点描的に散りばめられていく打撃音など、それ単体ではかたちを見出し難く「沈黙」するだろう響きの数々が、むしろ音楽を彩る豊かさとして立ち現れてくるのをわたしたちは聴くことになる。

「サイレンス」はしかし、作品のなかだけにあるとは限らない。わたしたちはレコードを聴くとき、そこに録音された音楽の時間に、実際にいまここでそれを聴いている具体的な時間を、つねに重ね合わせながら体験しているということを思い出そう。そこにある響きはふだん聞いているものと同じかもしれないが、レコードを前にして耳を澄ますという儀式的な行為によって、あらためて音楽的時間のなかに介入してくるのである。つまりレコードが「無音」になるということは、何も鳴らないのではなく、わたしたちの居る空間/時間が前景化するということなのだ。収録楽曲中もっとも「無音」に満たされた三曲めの<Yugen>を聴くときにわたしたちが出会う「サイレンス」とはそれである。この固有の聴取空間/時間が、先にみられた反復がもたらす差異性と音楽の素材としての「ノイズ」という、ふたつの「サイレンス」と組み合わされるとどのようになるのだろうか。その答えが最後の<End Point>に収録されている。甘美なハーモニーが一瞬ごとに「無音」の状態を挟み込みながらなんども繰り返されていくこの楽曲では、フレーズが響きの襞を露わにするとともに、それぞれの聴き手に特異な響きがときに前景化し、ときに音の風景を彩色していく。こうして四つの形態で示された「サイレンス」は、わたしたちがふだん漠然と接している「沈黙」や「静寂」の多様なありようを触知する、またとない機会となることだろう。

だがここで見落としてはならないのは、このアルバムが「サイレンス」に関連する音を探索する試みであるのみならず、Nakamaというグループに固有のイディオムを提示するものでもあると、ライナーノーツに記されていることである。そしてこのことが「サイレンス」の探究そのものを目的としたあらゆる実験音楽と本作品との袂を分かつ。具現化された音があり得べき無数の結果のひとつでしかないような実験音楽作品とは異なって、わたしたちは本作品において合奏の力強さや嫋やかに響くハーモニー、あるいは音の余韻や独特のリズム感といったものを、その音楽に固有のものとして耳にするのである。だからわたしたちがここで「サイレンス」に接するということは、基層の響きに対する気づきであるにとどまらず、そこで耳を澄ますことの必要性を、すなわちこの音楽を経験するためには持続する時間に身を委ねなければならないということをも意味しているのだ。それは「飛ばし聞き」によって手短に特徴を掴もうとする聴き方を拒絶する。音楽ファイルが手軽にやり取りできる時代に、その膨大なアーカイヴに少しでも多く触れようとする聴き手がいることを思えば、時間を伴わなければ知り得ない音楽というのはアナクロニズムにみえるだろうか。むしろ音楽を聴くことから時間が抜け落ちた体験の貧しさが覆い隠されつつあるからこそ、このような反時代的試みにアクチュアリティが見出せるとはいえないだろうか。時間が剥落した音楽体験ほど空虚なものもない。反対に時間さえあれば音楽の未来は保証されているということを、まさにジョン・ケージは語っていたのではなかったか。(細田成嗣)

細田成嗣

細田成嗣 Narushi Hosoda 1989年生まれ。ライター/音楽批評。2013年より執筆活動を開始。編著に『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(カンパニー社、2021年)、主な論考に「即興音楽の新しい波──触れてみるための、あるいは考えはじめるためのディスク・ガイド」、「来たるべき「非在の音」に向けて──特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から」など。2018年より「ポスト・インプロヴィゼーションの地平を探る」と題したイベント・シリーズを企画/開催。

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