#1354 『Andrew Cyrille Quartet / The Declaration of Musical Independence』
ECM2430
Andrew Cyrille (drums, percussion)
Bill Frisell (guitar)
Richard Teitelbaum (synthesizer, piano)
Ben Street (double-bass)
1. Coltrane Time
2. Kaddish
3. Sanctuary
4. Say…
5. Dazzling (Perchordally yours)
6. Herky Jerky
7. Begin
8. Manfred
9. Song for Andrew no.1
Recorded July 2014 at Brooklyn Recording
Engineer: Rick Kwan
Mixing engineer: Rick Kwan
Produced by Sun Chung
いささか個人的なコメントで始めることをお許し願いたい。この1作を聴いてアンドリュー・シリルの健在ぶりを確かめることができたというだけでも、少なくとも私には例外的なCD作品ではあった。なぜ例外的かというと、アンドリュー・シリルという演奏家はこの半世紀近い歳月を通して、私が友情をはぐくみ合うことができた唯一の米国ジャズ演奏家であり、本音で話し合うことができたかけがえのない友人だからだ。もし意にそぐわない内容だったら、CD評は辞退するのもやむを得まいと覚悟して聴いたのは、それゆえである。
繰り返して聴いた印象をまず率直に述べたい。以前なにかの折に、どんなミュージシャンもいざECM で吹き込むと、たとえマンフレート・アイヒャー以来のECMワールドとは異質の世界をつくりあげていた彼の音楽が、なぜかECMサウンドを帯びた音楽となって現れる不思議を指摘したことがあった。ここでのアンドリュー・シリルの音楽にもこれに近い印象を覚えた。だからといって、それがシリルの音楽に不名誉な傷を付けているわけではない。また、ECMワールドに固執することもない。たとえば、本作の前半のトラックを数曲聴いているうちに、70年代前半ごろのウェザー・リポートの音楽と似通った、あるいは共通したサウンドを発見したが、定則的なリズムを解放したり、特定のメロディック・ラインから自由になったスペースを感じさせたりする、いわば解放された浮遊性を印象づけるここでのサウンドが、ジャズが行き着くところまで来てしまった当時の脱力感に似た、あるいは中心を失ったジャズの悲哀にも似た喪失性を象徴しているように思われたのは、だから故なきことではない。
ここでのシリルは定則ビートに忠実なドラミングを展開しているわけではない。大向こうを唸らせるようなプレイとは無縁の、ここでのサウンドに即したリズムの在りようを見出し、ビル・フリゼール、リチャード・タイテルバウム、ベン・ストリートらが描きだすサウンド絵巻や音の情景描写にふさわしいパーカッシヴ・サウンドを、あたかもスティックを絵筆に代えたアーティストとなって生み出している。それは4者の集団演奏の形をとる「Sanctuary」、「Dazzling」、「Manfred」の3曲にも示されている。もし前もって何も知らされぬままこのサウンドを聴いて、ドラマーがアンドリュー・シリルだとはさすがの私も言い当てることがはできなかっただろう。ましてセシル・テイラーとの数々の歴史的演奏で名を馳せたシリルの白熱的ドラミングに熱狂したファンにとっては、ここでの彼のよきチームプレイのリーダーたらんとするかのようなプレイには当てが外れるかもしれない。だが、ジャズは時代の活きた音楽であり、現代に生きる音楽だ。あたかもジャズの戦国時代を生き抜いた歴戦の闘士とでも言うべきシリルのようなプレイヤーでも、半世紀の長きにわたって変わらぬファイターであり続けることは恐らく不可能だろう。それ以上に、彼は極めて知的なドラマーであり、70年代初頭に私が知り合ったころの、練習とレッスンを欠かすことのなかった冷静さと熱い闘志を内に併せ持った彼の変わらぬ姿が、ここでの演奏のそこかしこに窺われて胸にジーンときた。
オープニングの「Coltrane Time」。ジョン・コルトレーンがセシル・テイラーと初共演した1958年のUA盤『Coltrane Time』は有名だが、コルトレーンが「Coltrane Time」という楽曲を作曲していたとは知らなかった。原盤ノーツによれば、曲はコルトレーンがちょうどインド音楽に傾倒していた頃に作曲したものの、レコード化されることはなかった。トレーンが当時のグループのドラマー、ラシッド・アリに伝授したとあった。そのアリがミルフォード・グレイヴスとシリルのデュオ吹込の際に両者に伝授したというのが真相で、シリルは折りにふれこの曲をソロで演奏していた、とある。ここでの演奏は冒頭の部分のみが原曲通りともある。ノーツによれば、それ以降は何度もテンポを変えているが、ドラムの中枢がスネアであることが強調されている通り、シリルは原曲の生命力を保った展開に意を注ぐ。かくしてフリゼールの「カディッシュ」以下に繰り広げられる演奏を通してタイトルとなった『音楽の(を通した)独立宣言』を達成しようとしている。私見では「カディッシュ」と最後の「ソング・フォー・アンドリュー第1番」がともにビル・フリゼールのオリジナルであることと、ときに故オーネット・コールマンの「ロンリー・ウーマン」を彷彿させる曲調を持つことなど、新しいジャズのコンテンポラリー性を志向する演奏者たちの意志を見る思いだった。タイテルバウムの「Herky Jerky」などは一聴通常のビートが復元されているように聴こえるが、ここでもシリルはビートに忠実なドラミングを想定しているわけではない。ほぼすべての演奏でメロディーはあっても常に断片的であったり、あるいは回想風のイメージを重要な要素として現れる展開が大きなポイントではないか。そこではつまり、激高したり、火花を散らし合ったり、侃々諤々の議論をし合ったりするような光景はない。緻密に演奏されながら、それでいて音楽の自然さを失わないここでのサウンド展開にシリルの新しい姿を垣間見た。