#2355 『建畠晢×17人の美術家×sara(.es) / 詩人と美術家とピアニスト』
『Akira Tatehata×17 artists×sara(.es) / The Poet, The Artist and The Pianist』
text by 剛田武 Takeshi Goda
ノマル35周年記念詩画集(CD付き)
[詩人] 建畠晢
[美術家] (17名)
木村秀樹, 植松奎二, 片山雅史, 中川佳宣, 今村源, 名和晃平, 稲垣元則, 田中朝子, 藤本由紀夫, 東影智裕, 黒宮菜菜, 飯川雄大, 小谷くるみ, 山田千尋, 栗田咲子, 高嶋英男, 池上恵一
[ピアニスト] sara(.es ドットエス)
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アートディレクション: 林聡
仕様: A5変形 / 上製本 / CD付き
ページ数: 全80ページ(本文 72ページ)
発行日: 2024年10月26日
発行部数: 初版 500部
出版: ノマルエディション
販売価格: 3,300円 税込
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CD収録内容
- 旅の遅延
- 葉桜の町
- 秋のルフラン
- 茄子の構造
- アイダホの魚
- パトリック世紀
- 見上げると屋根の塔に
- 土蔵とシャンソン
- 円陣の夢
- 透明な住人
建畠晢:朗読
Sara(.es):ピアノ、パーカッション、ハーモニカ
宇都宮泰:録音、マスタリング
録音:9月14日、ギャラリーノマル
Gallery Nomart HP
Nomart Store
言葉とアートと音楽が交差するギャラリーノマルの粋を極めた35周年記念詩画集。
最初に告白するが、筆者は詩(Poetry)については限りなく素人に近い。中高生の頃、中原中也の少し前衛的な詩や宮沢賢治のメルヘンチックな詩にカブレたことはあったが、それ以降は音楽への興味が圧倒的に高まり、詩の世界に足を踏み入れることはなかった。「詩」を意識するのは音楽と関わりがある場合だけで、例えば白石かずこのジョン・コルトレーンに捧げたレコードや、アンリ・ショパンらの音響詩は、即興ジャズや現代音楽の文脈で「聴く」ことはあった。好きなミュージシャンが影響を受けたと語る詩人の詩集を図書館で借りることはあるが、あくまで音楽の肴であって、その詩集を熱心に「読む」ことは殆どない。歌詞の視点でいえば、筆者が好むのはパンクロックのように粗削りながら明確なメッセージを持つ歌詞か、逆に何を意味するのかわからない滅茶苦茶な言葉の羅列のどちらかである。それは美術(Art)に関しても似たようなもので、訳の分からない現代アートには大いに興味が惹かれるが、音楽との繋がりがなければ魅力を言語化することは難しい。ましてや古典作品については教科書で習った程度の知識すら遥か忘却の彼方である。
そんな筆者が詩人・建畠晢と美術家たちによる詩画集について語ろうと思いたったのは、詩人とピアニストの共演CDが封入されていることがきっかけである。もしピアニスト・sara(.es)が参加していなければ、筆者に語れることは何もなかったかもしれないし、そもそも本作に興味を持つ、というか存在を知ることすらなかったかもしれない。哀しいかな、音楽中心世界に生きる偏向主義者の性であるが、音楽を通して新しい世界への扉が開かれることは、音楽ヲタクならではの恩恵といえることも確か。
アート創造の場として35周年を迎えたギャラリーノマルを記念する本作品は、コンパクトながら白を基調としたハードカバーの装丁と豊かな空間(行間)のあるレイアウトが実際のノマルのアートスペースそのままで、アート作品への一貫した信念とこだわりが凝縮されている。まずは裏表紙に封入されたCD(レーベル面も白で統一されている)を聴いてみよう。2024年9月14日にこの詩画集のためにアレンジされたレコーディング・セッション。10篇の詩を建畠が朗読し、sara(.es)がピアノ、ハーモニカ、打楽器類を演奏。録音とマスタリングは、2023年5月から今までに「Utsunomia MIX」として8作のCD作品をギャラリーノマルと共同で制作してきた音楽プロデューサー・宇都宮泰が担当。7回に及ぶ共演歴のあるふたりだけに、なんの気負いもなく、自然体で産み出すこの一瞬限りの演奏を、あるがままに捕らえた秀逸なドキュメントになっている。筆者が気に入ったのは印象派風の調性のあるピアノを聴かせるM3とM7(なぜかどちらも海老が登場する)、「馬鹿野郎!」という怒声ではじまる激情的なM4、打楽器やピアノ内部奏法のノイズがイマジネーションを喚起するM5やM10。寓話風の物語、激しい言葉の弾丸、煙に巻く謎かけなど、異なる世界へ導く詩人の言葉が、音楽が生み出した更なる異世界を招き寄せる。1996年に発表された「パトリック世紀」のエンディングが「二十一世紀は遠い」(原詩は「近い」)になっていることに気が付いた。詩は時代と共に生きている。時代が変われば詩の形も変化するのは当然であろう。
さて、本作の楽しみはCDだけではない。主役は詩人と美術家のコラボレーションによる詩画集である。実のところ筆者は読書から遠ざかって久しい。読むのも音楽関係の書籍や雑誌ばかりで、小説などの文学作品を最後に読んだのは10数年前だろうか。特にここ数年は老眼が進んだせいもあり、本を開くことさえ稀になってしまった。しかしこの詩画集は文字が大きくページ数も少ないので、読むのに全く抵抗がない(感謝!)。1991年~2024年に亘る建畠の詩作から選ばれた17編の詩に、ノマル選抜のベテランから新進気鋭まで17人の美術家によるアート作品(の写真)が添えられている。ページを捲って、個性的なアートと共に綴られた言葉を目で追ううちに、不思議なことに気が付いた。言葉の意味を考える前に「文字としての言葉」の存在感が強烈に迫ってくるのである。目で読む言葉の聞こえない音の響きの圧倒的な迫力に夢中になる自分がいる。この響きはCDで聴ける朗読とは異なり、詩人の口から発せられたものではない。詩人が刻んだ言葉と言葉がハレーションを起こして発する叫びなのか。目から取り込まれた文字の視覚情報が、脳内で音に変換されている(例えば海老を「エビ」という音に置き換えている)わけではない。海老はあくまで海(9画)と老(6画)の漢字を形作る曲線でしかない。それがなぜ音と同じように知覚されるのだろうか。
絵画や彫刻など静的な芸術作品を鑑賞する際、作品情報は視覚を通して一瞬で知覚される。巨大な作品は一目では全体像は把握できないが、全景を見れば一瞬で知覚できる(もちろんここでいう知覚とは理解・解釈という意味ではない)。しかし詩や文学などの文字情報は一文字ずつ順番に読まなければ内容を知覚することはできない。つまり知覚するためには読む時間が必要なのである。さらに音楽は奏でられた一瞬の音は知覚できるが、演奏が続く限り音は流動的に変化し続けるため、全体像を知覚するためには、演奏が終わるまで聴き続ける=知覚し続けるしかない。普通の人にとって音楽を記憶することは文字を記憶するよりはるかに難しい。曲の長さにもよるが、最後まで聴いても全体像を知覚することは困難であり、そのためには何度も繰り返して聴くしかない。さらに、読むスピードは読者自身でコントロールできるが、音楽を聴くスピード(曲を聴くのにかかる時間)は曲の長さに限定される。今日は時間があるから30分の曲を2時間かけて聴こう、なんてことは不可能である(テープのスピードを遅くするといった反則は意味がない)。つまり音楽を知覚する時間は、読書の時間とは全く異なる次元にある事は明らかである。
そう考えると、この詩画集で筆者が経験した文字と音が同列で知覚される現象は、アートと詩と音楽が一体として提示されたことにより、それぞれの知覚の時間軸の違いが曖昧になった結果といえるのではないだろうか。3年前に白楽Bitches Brewで建畠晢とsara(.es)が共演した時の言葉と音のランデブーを、筆者は「言葉は即興ではないが、音楽と共に発せられるとき、すでに用意された形を脱して新たな衣装を纏った異形の響きとなって聴き手の脳に刺激を与える」と表現した(⇒ライヴレポート)。『詩人と美術家とピアニスト』では、同じことが言葉とアートと音楽に起こり、それぞれ従来とは異なる新たな形=刺激に変換されて、受け手=読者/鑑賞者/リスナーの新たな知覚の扉を開くのである。「音楽脳」の筆者の場合は「音」としての知覚であったが、芸術脳、文学脳の人たちは違った知覚の仕方をするかもしれない。
手にした人のバックグラウンドの違いにより、どのように読める/見える/聴こえる/知覚されるかは千差万別だが、本作こそ「SENSES COMPLEX-五感を超えて、感覚が交差・拡散する地点」というギャラリーノマルのコンセプトの具現化に違いない。ノマルによる「知覚変動」をぜひ体験していただきたい。(2024年10月29日記)
参考記事: .es(橋本孝之&sara)+林聡インタビュー:アートと音楽の未来へ向けて
【訃報】ギャラリーノマル代表取締役の林聡さんが、11月1日に60歳で永眠されました。謹んでお悔やみを申し上げます。