#2452 『八巻志帆 / Evoke』
text: Takashi Tannaka 淡中隆史
ALM-3138 ALM(コジマ録音)
—2 BASS CLARINETS PROJECT—
八巻志帆〈バスクラリネット〉
中村奈央〈バスクラリネット〉
柳原由佳〈ピアノ〉
伊東佑季〈ベース〉
則武 諒〈ドラム〉
01. Viva la Vida [Coldplay]
02. Dolphins [Shiho Yamaki]
03. Devil’s Waltz [Steven Verhelst]
04. Black [Marc Mellits]
05. Ditto+ [Shiho Yamaki]
06. SERTAO [Richard Galliano]
07. Time After Time [Cyndi Lauper, Rob Hyman]
08. mélancolie manège [Shiho Yamaki]
09. For [Shiho Yamaki]
Recording Location: Cultural Centre of Fujimi City Main Hall, 2–3 June 2025
Recording Engineer & Sound Editing: Jun Kawanami
Assistant Engineer: Ikuro Yoshida
Piano Technician: Osamu Adachi
Notes: Eiji Taniguchi, Shiho Yamaki
Photo: Karin Shikata
Cover Design: Anna Murakami
Booklet Editing: Kensuke Fujii
バスクラリネットは不思議な楽器だ。アンサンブルの一員として加わっただけで、ビロードのような深い底光りが全体を一変させる。エリック・ドルフィーのソロにとどまらず、ギル・エヴァンス、ストラヴィンスキーやラヴェルなどのオーケストレーションの低音域で輝きをみせ、ほんのわずかなパッセージ のソロでも深い印象を残す。肉声に近い息づかいであっても、似た音域のベースやバリトン・サックスとはぜんぜん違う。人が発する音を真のヴォイスに昇華できるこの楽器に心を奪われた方は多いはずだ。
八巻志帆が「ソロバスクラリネットの音楽家」として傑出した個性を発揮した新作が『EVOKE』 。
「私はジャズプレイヤーでもクラシックプレイヤーでもなく、自分自身をソロバスクラリネット奏者と名乗っています。『EVOKE』では、これまでの人生の旅のなかで、美しい音楽だな、とか、こういう形でバスクラリネットのサウンドを知って欲しいな、と思った曲を素直に揃えました。」(本人のライナーより)
八巻のアルバム作りの出発点はクラシック楽曲を中心としたファースト『Bassclarinet Recital』(2009)だ。セカンド『My Sweet Hometown』(2014)では童謡からキース・ジャレットまで懐かしい情景をキュレート。サードにあたる前作『HAZAMA』 (2018) は全てが自作曲で、続く『EVOKE』が4枚目のリーダー作となる。全てALM コジマ録音。
「2本のバスクラリネットのためのプロジェクト」として八巻以外に中村奈央〈バスクラリネット〉、柳原由佳〈ピアノ〉、伊東佑季〈ベース〉、則武諒〈ドラム〉が参加。
フロントの2バスクラ+ピアノトリオという編成はジャズ的だ。しかし、一聴するとジャズだけではない個性に満ちた成り立ちが分かる。バスクラゆえに曲調が一変して各曲が持つさまざまなユニークネスが浮かび上がる。そして、ワンテイクで録られたよう迫真性が胸を打つ。
もう一人のバスクラプレイヤー中村奈央の音楽はアグレッシヴでありながら、八巻と競い合うことはなく、時にまるで分身のような錯覚までを引き起こす。二人だけの2曲のデュオでの相互作用は美しいドッペルゲンガーのよう。他の楽器ではありえない音響的愉悦に富んだサウンドだ。
全9曲は静かな表情の2曲で始まる。バスクラの2本のみの2曲、5曲目からはさまざまに劇的な展開が訪れ、ふたたび静かに幕を閉じる。「バスクラリネットのサウンドを知って欲しい」というメッセージが見事に体現されている。
カヴァーの7曲は八巻が世代的にリアルタイムで接したと思われるラインナップだ。「これまでの人生の旅のなかで出会った音楽」。
オープニング(01.)はイギリスのオルタナティブ・ロックとして知られるコールドプレイの <Viva la Vida>(美しい生命 2008)。オリジナルとは異なり驚くほど繊細な表情を見せる。(03.)スティーヴン・フェルヘルスト<Devil’s Waltz>(悪魔のワルツ)はバストロンボーンのためのテクニカルな「ツーボトム」楽曲をバスクラにリアレンジ。(04.)アメリカの作曲家マーク・メリッツの <Black> も木管二重奏のバージョンがオリジナル。(03.)と(04.)の二曲はバスクラ二本のみの演奏。一転して、(06.)リシャール・ガリアーノ <SERTAO> はガリアーノが ビレリ・ラグレーン(G)とニューヨークに乗り込んで凄腕のジャズミュージシャンたちと作ったアルバム『New York Tango』から。八巻たちのプレイもガリアーノの高いテンションを引き継いでアルバム中のハイライトのひとつだ。(07.)<Time After Time> (タイム・アフター・タイム)はシンディー・ローパーのオリジナル(1984)。というより後期マイルス・デイヴィスがカヴァーし、ライヴでも名演奏を重ねた曲。2本のバスクラのアレンジと演奏はマイルスとも異なり、ユニークそのもの。八巻はどちらのバージョンにインスパイアされたのだろうか。
4曲の自作では(02.)<Dolphins> 2バスクラのみによる穏やかなテンポ、静かな展開が美しい。(05.)<Ditto+> 八巻と中村のコンビネーションが光る。作曲とアレンジが渾然一体となったオリジナル。(08.)<mélancolie manège>(憂鬱な回転木馬)はリシャール・ガリアーノ作曲の <SERTAO> 以上にガリアーノ的。さらに背後には、『HAZAMA』で2曲を取り上げたアストル・ピアソラの影響がありそうだ。メランコリーと陰影に満ちて、絡み合う2本のバスクラの表情は豊かで、インスピレーションとアドリブ性が迸る。前作よりの曲を再録したのは大きな意味がある。(09.)<For> ふたりのバスクラから聞こえる呼吸すらが楽しい。八巻の作曲、アレンジ独自の静謐な世界だ。
最近、特殊楽器に転じた音楽家からきいた愉快な話。
彼は都内の楽器店の片隅で「今はじめればパイオニア」という傑作キャッチコピーを発見してふるい立ったそうだ。
もっとも、「そんなキャッチが出回る頃には、もうパイオニアになれないんですけどね(笑)」とも言っていたが。
パイオニアを目指すことが彼らのエナジーの源泉だ。王道の路線から180度舵を切り、新しい視座から未知のフィールドに乗り出していく。
例えば17世紀フランスの牧歌趣味(pastorale)のバグパイプの一種「ミュゼット」(いわゆるパリのアコーディオン音楽ではなく、その源流のひとつです)、ロシア、トゥヴァ共和国の喉歌「フーメイ」(モンゴルのホーメーと似ているけれど、かなり違います)などなど。
歴史の中で忘れ去られていた楽器、世界の辺境に置き去りにされた音楽。絶滅危惧種を救い出して、自らが伝道師となり、一生がかりで追求する。そんなフレッシュな感性を持つ若い音楽家に出会うのは愉しい。
もちろんバスクラは19世紀後半には、すでにオーケストラの中でポジションを確立しているので「特殊楽器」ではないけれど。現代において一般に「バスクラ奏者」とはクラシックや吹奏楽のオーケストラに所属するトッププレイヤーたち。あるいは(楽器持ち替えを含む)ジャズなどの腕利きの演奏家を意味する。
他方、中学生の時に偶然に巡り合い、この楽器の魅力にとらわれた八巻。その後、現在まで音楽ジャンルにとらわれない貴重なソロ楽器として位置づけ、追求しているのは十分「特殊」なことだ。
八巻志帆は「ソロバスクラリネット奏者」としてこの楽器だけが表現できる新しい地平を切り拓いている。「EVOKE」とは呼び起こすこと。バスクラリネットの音色が呼び起こすイメージはあまりにも蠱惑的だ。
♫ 試聴サイト;
https://kojimarokuon.com/products/alm-3138
