#1603 『Makoto Kawashima / HOMO SACER』
Text by 剛田武 Takeshi Goda
Black Editions LP BE-006/0211
Side A
1. Improvisation
Side B
1. Improvisation
2. 赤蜻蛉 (Red Dragonfly)
Recorded at Ogose Yamanekoken
Front Cover Photogaphy by Minami Tatsuo
Back cover by Noguchi Rie
Design by Age and SEEN
Mastered by Elysian Masters
Produced by Hideo Ikeezumi
知性と理性と感性のトライアングルが産み出す記憶のアセンション。
何かに取り憑かれたような/何かが乗り移ったかのような演奏、という表現がある。神懸かりの茫然自失状態で口と指と身体が勝手に動き楽器を奏で、正気に戻った時には拍手喝采に包まれてステージに立っていた、なんて映画か漫画にありそうな感動的なエンディング。ところが実際には頭は常に冴えていて、どんなに激しい演奏をしていても、いや、演奏が激しくなればなるほど神経が研ぎ澄まされ、自分の演奏を冷静に分析しているのが、本物の演奏家の真の姿なのである。
特に自分の他に誰も演奏者のいない独奏による自由な即興演奏の場合は、理性を失ったら演奏が形になることは有り得ない。自暴自棄な暴走は飽くまでスピード違反であり、コントロールを失ってガードレールに激突して崖から落ちて命を落とす危険を冒すことが優れた演奏家の資質でないことは言うまでもない。ミュージシャンはアスリートではないので他人と競争する必要はないが、自己と対峙しリビドーとタナトスの葛藤を繰り返すことは優れた演奏家の宿命である。エゴとイドと超自我のバランスを崩す欲動を超克する為には、優れた知性を備え、常に理性を研ぎ澄ませながら、感性を自由に羽ばたかせることが重要である。
脳の10%神話と同様に、知性と理性と感性のすべてのベクトルを正三角形に保つことは、並の人間には不可能であろう。出る杭は打たれるが如し、ある頂点が尖れば、他辺は歪み鈍角になる。その意味ではどんな優れた演奏家も自ら発する音楽の中に歪んだトライアングルを秘めているのである。
古代ローマ時代に「ホモ・サケル」(聖なる人)と呼ばれ、殺害しても罪に問われなかったが、殺しても神への犠牲に供することはできないとされた犯罪者がいた。宗教的・政治的意味を失い秩序から排除された異端者である。生きるだけの物質的存在として区別(差別)された聖なる人の心のトライアングルは、社会適応者に比べ美しい形をしていたのではないだろうか。アウトローとして他者から干渉されること無く、自らの知性・理性・感性を自由に広げることが出来るからである。
それをタイトルに冠した本作は、2015年初夏の大雨の日に埼玉の山奥にある山猫軒でレコーディングされた。阿部薫のリードを使ってサックスを奏でる川島誠が澄み渡った目と頭で見たのは、天井を走る青い光の閃きだったという。その光は超常現象などではなく、知性と理性と感性を正しく働かせた者だけが体験できる、三つのセンスを繋ぐ神経シナプスの中を走る電気信号のフラッシュバックだったのかもしれない。明滅する光の中にこの世を去った家族やミュージシャンやレーベル・オーナーたちの顔が見えたとしても、それは冥界からの呼び声ではなく、自己の内に堆積した記憶のレイヤーの欠片のアセンションに違いない。それゆえ川島誠のサックスから発せられる音色には、聴き手の記憶の底のノスタルジアを呼び覚まし、現世の葛藤や欲動を音楽に昇華させる魔法が溶けこんでいる。ここから始まった音楽人生に偽りはない。
PSFレコードの最後のリリースとなったこのアルバムが、こうして海外のレーベルから再発され、世界中に存在する歪な心のトライアングルを少しだけ軌道修正することが出来れば素晴らしい。(2019年4月6日記)