#1624 『喜多直毅+西嶋徹 / L’Esprit de l’Enka』

閲覧回数 1,035 回

Text by Akira Saito 齊藤聡

UNAMAS Label

喜多直毅 Naoki Kita (gut strings vln)
西嶋徹 Toru Nishijima (b)

1. 舟歌(浜圭介)
2. 赤い橋(山木幸三郎)
3. アリラン(朝鮮民謡)
4. 悲しい酒(古賀政男)
5. アカシアの雨がやむとき(藤原秀行)
6. ソルヴェイグの歌(Grieg E.Hagerup)
7. 五木の子守歌(熊本民謡)
8. ふるさと(岡野貞一)

(P)2019 沢口音楽工房
(C)2019 沢口音楽工房
https://www.e-onkyo.com/music/album/unahq2017/(ダウンロード販売)

演歌は艶歌とも怨歌とも書かれた。本盤の「Enka」はそれにとどまらない。古い朝鮮民謡の「アリラン」、浅川マキが歌ったアンダーグラウンドのフォーク曲「赤い橋」など、どのような形であれ辛くても生き続けなければならない人生の情念が、ここには込められている。だから、本盤の音楽は日本の狭い自己満足の世界ではなく、もっと普遍的な内省的世界だと言うことができるだろう。

ビョークは2015年の『Vulnicura』や『Vulnicula Strings』において、肉声に近いという意味でストリングスを多用し、痛々しいまでの心の傷を表現した。ヴァイオリンとコントラバスによる弦の響きにもまた共通する性質を見出すことができる。コントラバスには、大きい胴による残響や包容の力があり、またヴァイオリンには、小さい存在たる人間の感情と直結した表出力がある。西嶋徹、喜多直毅のふたりは、そのような力を拡張するとともに、互いの声の交換さえもしてみせている。

冒頭の「舟唄」にその交換がある。ヴァイオリンによる寂寞の舟、その音風景に八代亜紀の低音を思い出さざるを得ないコントラバスが出てきて聴く者を強く揺さぶる。間奏ののちおずおずと再び歌うのはヴァイオリンだ。演奏が突然断ち切られることの怖さは、視えない無数の人生に通じている。また、浅川マキの「赤い橋」でのコントラバスは運命のように大きく響く。それは抗いようがなくても抗うヴァイオリンとともに哀しさを歌いあげる。

西嶋のコントラバスは曲によって異なる貌をみせる。歌自体に無数の人びとの痛苦や喜びが刻みこまれている朝鮮民謡「アリラン」では、やさしく包み込むように歌を終えてゆく。「アカシアの雨がやむとき」では、ひっくり返る裏声のような音を出すアルコが曲の無力感や停滞感を表出する。ソロでの「ソルヴェイグの歌」におけるピチカートの残響は、この楽器ならではの表現力を持っている。また、「五木の子守歌」でヴァイオリンに寄り添い、最後のひと弾き前に息継ぎをする繊細さにも驚かされる。

多様な貌は喜多のヴァイオリンにも見出すことができる。「悲しい酒」に含まれたエアはヴァルネラブルな感情そのものだ。ここでは箏に聴こえる瞬間もあるのだが、「アカシアの雨がやむとき」ではときに笙のようにも諦念でかすれた歌声のようにも聴こえる。「五木」における震える弦は静かに万感の想いを含み持っている。

最後の「ふるさと」において、コントラバスの懐かしさの横で、ヴァイオリンが記憶領域を擾乱する。だがやがて、ふたりの役割が入れ替わり、声の交換がなされる。同じでも別々でもある語り直しは、記憶という音風景を何層にも重ねてくれるようだ。

激して震える声、耐えしのんで絞り出す声、むせび泣き、嗚咽、絶望の吐露、裏返しの喜悦。ベタとも思える歌謡と民謡の通俗的音世界が、カバーを超えてこのようにまで昇華され、一周して再び情念の世界に戻ってきている。とても面白いことではないか。

(文中敬称略)

アバター

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 環境・エネルギー問題と海外事業のコンサルタント。著書に『新しい排出権』など。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

↓ ロボットでないかお知らせください。 * Time limit is exhausted. Please reload CAPTCHA.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。