#1637 『Be-2 / Minimum Unit Of Human Existence 人類生存可能最小単位』
text by 剛田武 Takeshi Goda
LP : Ottagono Design Of Music – ODOM 001
Zen Oikawa : g, perc, syn, vo
Psycho : vln
A1. In The Yaku’s Back / ヤクの背中に
A2. Tiger Dance / 虎舞
A3. She Looks For A Room In The City / 彼女は街に部屋を探す
A4. Kindness / やさしさ
A5. Shadow Of Flowing Cloud / 流れる雲の影
B1. Rain Song / レイン ソング
B2. Kitora / キトラ
B3. That One In The Bottom Of The Mind / その 心 の 奥 底 にある もの に ある もの
B4. Cool The Mask / ク一ル ザ マスク
B5. The Sky Of Trip / 旅の空
Written Produced Arranged by Zen Oikawa
Mastered By : Dietrich Schoenemann
Graphic Artwork By : Roberto Bosco
Executive Producer : Claudio Mate
イタリアのオタク青年が憧れた日本地下音楽の秘宝。
Be-2と書いてハーツヴァイスと読む。80年代に勃興したインディーズ・シーンで、東京を中心パンク/ニューウェイヴ系のバンドに交じってテープループやスライド、ヴィデオ等を多用したアート志向のコンセプチュアルなパフォーマンスを展開し異彩を放った男女デュオである。1982年〜84年にリリースした2枚のソノシート、コンピレーションLPやカセットマガジンなどで発表された作品に未発表曲を加え、2006年にCDRとしてウェブサイトのみでリリースされたのが『人類生存可能最小単位』。ギター、シンセサイザー、ヴァイオリン、テープループを中心とした穏やかなサウンドは、ブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックやクラウス・シュルツェやマニュエル・ゲッチングといったジャーマン・エレクトロニクスの影響が濃く、最近国内外で再評価が進む日本の環境音楽(吉村弘、芦川聡、高田みどり等)にも通じている。立ち位置はパンク/ニューウェイヴだったが、パフォーマンスはヴィジュアル・アートに近いBe-2のサウンドは、一概にアンダーグラウンドともハイアートとも言い切れないユニークなものであった。
中心メンバー及川禅の経歴は知られざる日本のサイケデリアの人生遍歴である。70年代ヘヴィ・サイケデリック・バンド「スペース・マンダラ」を率いてインドのゴアでヒッピー生活をしながらライブ活動。80年代東京で「Be-2」を結成、長髪をばっさり切りテクノカットに変身して、美術館、ギャラリーで映像と演劇的パフォーマンス。その後、ロス、シカゴ、ニューヨーク、シドニーなど、音楽仲間を辿って、演奏三昧。30代はレコード会社でディレクター〜プロデューサーを勤め、その縁でスタジオ・ジブリで宮崎駿と久石譲と共に5年間音楽制作を担当し、日露合作映画「おろしや国酔夢譚」で日本アカデミー音楽賞を受賞した。様々なアーティストのCDを制作したが、自分の音楽を追究するために演奏活動を再開し、2000年からライブ、作曲と自分のための音楽活動に専念する。現在三重県伊勢市在住で日本各地の野外フェスや音楽祭に出演。「サイケデリック最後の伝道師」としてロック/トランス/アンビエント/テクノ/ノイズ/即興/ダンス・映像音楽などジャンルを横断した幅広い活動を続けている。
知る人ぞ知るカルト・ミュージシャン及川禅による80年代地下音楽の秘宝が、何の前触れもなくイタリアの「Ottagono Design Of Music / オッターゴノ(=八角形)音楽のデザイン」と称するレーベルからアナログLPとしてリリースされた。高田みどりや芦川聡、ムクワジュ・アンサンブルといった日本の環境音楽を中心にアナログ・リリースするスイスのWRWTFWW(We Release Whatever The Fuck We Want)Records、以前紹介した80年代日本のカルト・カセット・レーベルDD.Recordsの所属バンドJumaなど、西日本の80年代アンダーグラウンド・ロック作品をリリースするNYブルックリンのBitter Lake Recordingsに続く日本地下音楽再発レーベルの登場である。
日本でも知られていないマニアックな音楽やアーティストの何が海外のレーベルの興味を惹くのだろうか。Ottagono Design Of Musicの主宰者クラウディオ・マテ氏にメール・インタビューを行った。
クラウディオ・マテ インタビュー
Claudio Mate / Ottagono Design Of Music
interviewed by 剛田武 Takeshi Goda / 2019年10月5日メールにて
剛田武(以下TG):音楽関係の仕事に進むまでの経歴を教えてください。
Claudio Mate(以下CM):1980年12月17日生まれ、もうすぐ39歳の80年代育ちです。ナポリ近郊のノセラという小さな町で産まれて、アマルフィ海岸に近いサレルノという都市で育ちました。ポンペイやヴェスヴィオ火山にも近くて、風光明媚な美しい環境に囲まれていました。2019年は私が音楽ビジネスを始めて20周年に当たります。始まりは1996年、16歳の時でした。典型的なベッドルームDJだった私は、徐々に地元の学校やプレイベートなパーティでDJをやるようになり、99年にお金を投資してイギリスからレアなレコードを仕入れてレコード販売業を始めたのです。90年代のイギリスはヨーロッパの音楽の中心地でしたし、ニューヨークからももちろん仕入れました(ベルリンも今みたいにハイプではありませんでした)。イタリアのDJやレコード・ショップにお得意さんが出来ました。私自身ずっと音楽好きだったので、レコードを買ったり売ったりするうちに、あまり人に知られていない音楽に出会う機会が増えてコレクターになったのです。2000年代初めにクラブのプロモーターとしていろんなイタリアのDJをブッキングしました。彼らの何人かが新しいレコード・レーベルを設立し、2003年頃にふたつのレーベルでA&Rとレーベル・マネージャーとして雇われました。オファーがあった時、断る理由はありませんでした。マネージメントの面から音楽業界を学ぶいい機会だったからです。振り返っても素晴らしい経験でした。すべてが今でもわたしの役に立っています。もうひとつ、私自身の音楽的バックグラウンドに感謝したい気持ちもあります。私は若くて、レーベル創設者やオーナーの友人たちは10歳年上で兄貴分のような存在でした。ときどき私が紹介する音楽のクオリティに驚いていました。いまでも思い出します。北野武監督映画『ソナチネ』のサントラの久石譲の曲や、渡辺弘がKaitoとしてリリースした『Kompakt』を聴かせた時、兄貴分のひとりがあまりの美しさに泣いていたことを。2004年から自分のデモ音源を制作しはじめ、テクノ/ハウス/エクスペリメンタル・ミュージックの分野の音楽制作を始めました。幸運にもメジャーまたは良質なレーベルと契約することが出来て、今も新しいことやサウンドへの挑戦を続けていますが、常にアンダーグラウンドなヴィジョンを保っています。
TG : 日本の地下音楽と出会ったきっかけは?
CM : まずふたつのことを話しましょう。私の両親からの音楽的影響はありません。家にレコードは無いしも楽器演奏もしませんでした。だからすべて自分で音楽的なバックグラウンドを築き上げたのです。姉には感謝しています。90年代後半にクラブ・ミュージックのカセットテープを聴かせてくれたからです。私は過去も現在も未来もずっとオタクです。ビデオゲーム、アニメ、漫画で育ちました。「ニッポン音楽」が私の音楽人生の始まりのひとつです。80年代終わりから、いつもセガ・メガドライヴやスーパーファミコン、ネオゲオ等の日本製のゲーム機を買っていました。私が9歳のとき初めて刺激を受けた日本の音楽がビデオゲーム「アルタード・ビースト」のサントラでした。Masterと言う謎めいたプロデューサーが作った音楽で、昨年イギリスのレーベルData Discが初めてアナログ・リリースしました。成長するとアニメ『めぞん一刻』で有名なピカソや安全地帯、『北斗の拳』の主題歌を歌う80年代の子供バンド(数年前イギリスの有名なDJ、Kirk DegiorgioのレーベルA.r.t.のコンピレーションに「Heart of Madness」という子供バンドのトリビュート曲を提供しました)といった日本のシンセポップ・バンドを好きになりました。その当時日本では有名なポップソングだったと思いますが、ヨーロッパに住む私にとっては本当の地下音楽で、イタリアでは見つけるのが難しかったのです。幸運なことにナポリに数軒専門店があって、私のような少数のマニア向けに日本の輸入盤を扱っていました。93年には新世界楽曲雑技団に夢中になりました。大阪のビデオゲーム・ブランド「SNK Neo Geo」の音楽を多数手がけていて、私に最も大きな影響を与えたアーティストのひとつです。その影響で後にエレクトロニック・テクノミュージックを制作するようになったのです。十代のときからずっとロック、クラウトロック、コズミック・ミュージックが大好きだったので、日本の音楽でそういったジャンルを探すようになりました。90年代末にロンドンに住んでいた時、日本の音楽に関して重要な体験をしました。日本人の友人や、日本のレコードのコレクターとたくさん知り合い、彼らの家で知らなかった新しい音楽を聴かせてもらったのです。とてもアンダーグラウンドでしたが、ソウル、ディープ、ジャズ寄りの音楽が多くて、それ以来Kyoto Jazz MassiveやJazztronikのロンドン初公演をJazz cafeやBar Rumbaといった会場に観に行くようになりました。
TG : 日本でもあまり知られていないBe-2と及川禅を、イタリア人のあなたがどうやって知ったのですか?
CM : さっき話したようにアニメが好きだったので、スタジオ・ジブリのファンでした。クレジットを見て監督の一人にOikawaという人がいるのを知っていましたが、最近及川さんと連絡を取るまで同一人物だとは知りませんでした。人生でも一二を争う幸運に恵まれて、2007年にベルリンでマニュエル・ゲッチングに会うことが出来ました。彼は私の音楽のヒーローの一人で、後に彼の有名な作品『E2-E4』のトリビュートを作りました。話したようにクラウトロックやコズミックな実験音楽を聴いて育ったのですが、その頃Be-2を発見したのです。最初は日本の音楽だとは信じられませんでした。今でもドイツの音楽のように聴こえます。及川先生はすぐに私のもうひとりのヒーローになりました。DJをする時、Be-2の音楽は秘密兵器になるのです。おっしゃるとおり彼らの音源はとてもレアで、日本ですらこの美しさを知っている人は多くありません。いつかは激レアな1stソノシートを入手して、本物のニッポン音楽コレクターになるチャンスを諦めていません。オッタゴノで再発したことで恩返しが出来たと思います。確かにイタリア人が日本人の知らない音楽を知っているのは奇妙かもしれません。しかし、3年前に私が別のレーベルで『Nihon No Toshi』プロジェクトをスタートして日本の音楽だけのDJをした時、同い年で『北斗の拳』のファンでもある日本人の友人が「子供バンドを初めて聴いた」と言ったのです。その時心の中で、僕はイタリア人だけど、自分の日本音楽の知識を使って、多くの人に日本の音楽を紹介してあげることが出来るんだ、と確信しました。音楽面では日本は既に僕の一部なのです。
TG : あなたにとってBe-2の音楽の魅力とは?
CM : まず最初に及川さんのギターが大好きです。彼は私に話しかけるようにギターを弾くのです。感情面から言うと私がBe-2の作品を好きな別の理由があります。第一に30年以上経っても初めて聴くようなドリーミーでエモーショナルで鳥肌が立つようなサウンド。アヴァンギャルドで80年代的なサウンドが好きなら、間違いなく正しい薬と言えます。もうひとつの理由は、Be-2のサウンドには自由な感情と人間的な感性があるからです。目を閉じて音を聴いていると、美しい日本の風景がイメージできます。最後の理由はサウンドのクロスオーヴァーです。音楽好きなコレクターなら見逃せないキャッチーさと、DJならどんなスタイルでもプレイできる汎用性を兼ね備えています。
TG : 今後Ottagono Design Of Musicから日本の音楽のリリース予定はありますか?
CM : もちろん!現在Ottagono Design Of Musicは日本の音楽専門の小規模のレコード・ショップもやっています。すべては2018年12月20日に生まれました。最初はレーベルのみでしたがショップも開くことに決めました。毎日寄せられるの反応で、イタリアでは他に誰もやっていないことをやる誇りを感じると共に、正しくエネルギーを使えばもっと良くなると感じています。次のリリースは今年の末か2020年初めに伏見稔の1989年のアルバムの初アナログ盤リイシューの予定です。日本だけで彼のレーベルSyntaxからCDでリリースされたHoodoo Fushimi名義の『たまらん!!!』です。他にも日本の音楽のリリースを交渉中でまもなく決まると思います。紹介すべき日本の作品はまだまだありますから。
TG : 楽しみにしています。ありがとうございました。
(2019年10月5日記)