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Jazz and Far Beyond

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CD/DVD Disks~No. 201

#683 『デイヴィッド・バーン&ファットボーイ・スリム/ヒア・ライズ・ラヴ』
『David Byrne & fatboy slim / Here Lies Love』

text by Kei Wakabayashi 若林 恵

ワーナー・ミュージック(Nonesuch)
WPCR-13830-1 (2枚組) ¥3,570(税込)

CD1:
1.ヒア・ライズ・ラヴ
2.エヴリィ・ドロップ・オブ・レイン
3.ユール・ビー・テイクン・ケア・オブ
4.タクロバンの薔薇
5.ハウ・アー・ユー?
6.ア・パーフェクト・ハンド
7.イレヴン・デイズ
8.ホエン・シー・パスド・バイ
9.ウォーク・ライク・ア・ウーマン
10.ドント・ユー・アグリー?
11.プリティ・フェイス
12.レイディーズ・イン・ブルー

CD2:
1.ダンシング・トゥゲザー
2.メン・ウィル・ドゥ・エニシング
3.ザ・ホール・マン
4.ネヴァー・ソー・ビッグ
5.プリーズ・ドント
6.アメリカン・トゥログロダイト
7.ソラノ・アヴェニュー
8.オーダー1081
9.セヴン・イヤーズ
10.ホワイ・ドント・ユー・ラヴ・ミー?


一見して謎のアルバム。デイヴィッド・バーン、ファットボーイ・スリム、イメルダ・マルコス。誰が、なんのためにこんな珍妙な組み合わせを発案したものなのかさっぱり見当がつかなかったのだが、ライナーノーツと昨年発売されたバーンの著書「Bicycle Diaries」をじっくり読んでみてだいぶわかってきた。
話の発端は、バーンが小耳に挟んだある逸話にはじまる。70年代後半から80年代にかけてイメルダ夫人がスタジオ54に代表されるようなニューヨークやパリのディスコに熱心に通っていたというのだ。独裁者の妻として自ら権勢を振るった女性が一方で、ディスコに狂う。そこにバーンはドラマを見る。「幻想と個人的な痛みと政治がひとつとなって、ある時代の歴史のなかで、悲劇としてドラマチックに表出した」。プロジェクトの根幹をなすモチーフをバーンはそう説明する。
音楽的なフックはと言えば、複雑なドラマのサウンドトラックとしてディスコ・ミュージックを使うということだ。ダンス・ミュージックは、彼女のような人物の物語を走らせるための乗り物になりうるのか。検証してみる価値はある。そのためには、まずサウンドが「ちゃんとあのころのクラブっぽい音」でなくてはならない。そこでファットボーイ・スリムに白羽の矢が立つことになる。バーンは、それまでなんの面識もなかったファットボーイ・スリムにいきなり直接連絡を入れたそうだ。

物語は、イメルダと、彼女の育ての親でありながら、ほとんど歳の変わらない召使の女性エストレーラの、ふたりの内面を通して描かれる。エストレーラは、イメルダが忘れたがっている過去の象徴であると同時にイメルダの人生の原点にある人物だ。彼女の視点を導入することで、物語は重層化されより強固なリアリティをもつ。この影の主人公の存在こそ、語り部バーンがもたらしたオリジナルな視点だ。登場回数は少ない。が、ネリー・マッカイ、アリソン・ムーア、SIA、二コール・アトキンズらが声を担当した彼女の歌は、ディスコ・オリエンテッドなアルバムのなかでも印象深い結節点を刻んでいる。
それ以外の曲でバーンは、イメルダの人生におけるさまざまな局面を、80年代初頭のディスコ・ミュージックの語彙をふんだんに散りばめながら綴っていくが、あからさまに引用をするのではなく、むしろ物語を引き立てるバックグラウンドとしての機能に注意が注がれているように聴こえる。当時のディスコ音楽は大好きだとは言うものの、趣味性を前面に押し出して物語をかきけしてしまうようなヘマはしない。バーンは、作曲・アレンジにおいては、あくまでも職人に徹する。驚くとすれば、彼がここまで引き出しの多い巧みな職人だったのかという点だろう。  ちなみに本作において、バーンがもうひとつ行なった実験は、バラエティに富んださまざまな楽曲が、ひとつの流れとして連なったときに、単体で聴いただけでは持ちえない効果を与えることができるのかというものだった。それはインターネットを通じて1曲単位で音楽が切り売りされている時代状況へのアンチテーゼでもある。決められたシークエンスにしたがって積み重なっていくことで、ひとつひとつの歌がいっそう深みを増していく。そんな効果を求めて本作はつくられている。それは古典的なミュージカルの手法にも似ているとバーンは言う。物語は、エモーションやムードの積み重ねによってつくられていく。だから個々の歌は、状況の説明ではなく一人称で自らの心情を歌う。その連なりこそが、物語というものであって、もっと言ってしまえば歴史そのもののありようじゃないか。そう、バーンはライナーに綴っている。

ひとくせもふたくせもあるけれど、唯一無二の個性で音楽シーンに独自のポジションを築く才媛たちが、入れ替わり立ち代わりイメルダとエストレーラの心情を吐露してゆく。まさにオールスター・キャスト。豪華と呼ぶには若干渋いかもしれない。しかし、バーンのキャスティングは、現在の音楽シーンを俯瞰しながら、最もユニークな声の持ち主を的確に選び取っている。注目の若手も思い切って起用する。その耳の若々しく大胆なことに感服してしまう。
シンディ・ローパー、トリ・エイモス、ナタリー・マーチャントといったロック・ポップスのビッグネームから、フローレンス・ウェルチ、セント・ヴィンセント、サンティゴールド、ネリー・マッカイ、ロイシン・マーフィー、カミーユといったトンガリ系、アリソン・ムーラー、キャンディ・ペイン、マーサ・ウェインライト、SIA、二コール・アトキンスといった実力派シンガーソングライター、そして21世紀のソウル・クイーン、シャロン・ジョーンズまで、クラブ、フォーク・カントリー、インディロックから国外のポップスまで、現在の音楽シーンに対する広範な目配せには驚くべきものがある。思えば、たしかにバーンはコンピレーションをつくる名手だった。そのバーンが選んだ珠玉のキャストだ。これをきっかけに彼女たち自身の作品に手を伸ばしてみるのも、本作の楽しみのひとつだろう。

デイヴィッド・バーンは、本作では、音楽家としてよりも何よりも、演出家と脚本家として役割を十分に楽しんだに違いない。それは、長いキャリアのなかで、あまりクローズアップされることのなかった才能ではなかっただろうか。デイヴィッド・バーンがつくったオリジナル・ミュージカルなんて、想像しただけで一本調子のつまらないものになりそうだ、とうっかり思いかねないところだった。考え抜かれたコンセプトと手法。ポップなナラティブ。そして大胆な遊び心。最初は「謎」でしかなかったが、本作を知ればしるほどバーンというクリエイターの懐の深さに魅せられてしまう。バーン流の新しいミュージカルは、シリーズ化さえ可能なポテンシャルをもっているかもしれない。本道から逸脱した余技として斥けてしまうような考えは、とりあえず保留にしておくのがよさそうだ。


*初出:JazzTokyo #137   (2010.5.15)

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