#2102 『田村夏樹/古希ソロ』
『Natsuki Tamura / KOKI SOLO』

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text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野 Onnyk 吉晃

Libra Records101-066

田村夏樹 Natsuki Tamura (tp, pf, wok, voice)

1.Sekirei
2.Karugamo
3.Kawau
4.Bora
5.Sagi
6.Kamome
7.Chidori
8.Isoshigi
All composed by Natsuki Tamura

Recorded by Natsuki Tamura at his home in Kobe, November 7, 2020
Mixed by Natsuki Tamura at his home in Kobe, November 14, 2020
Mastered by Mike Marciano, Systems Two, Long Island, NY, March 13, 2021


「ディアレクティーク・アナーキー」

このアルバムのレビューを依頼され、サンプルが届いたその日に、どうしても映画館に行かなければならなかった。上映最終日だったからだ。ディスクは逃げないから、まず劇場へ。
映画は「デヴィッド・バーンのアメリカン・ユートピア」である(タイトルではユートピアが逆さまになっている)。監督はスパイク・リー、翻訳監修はピーター・バラカンとくれば、雰囲気は予想できる。まずは見て、その完成度に驚く。これはデヴィッド・バーン師率いる12人の使徒(え、11人しか居ないって?監督を忘れるな)が、三方を鎖に囲まれた舞台から、第4の壁すなわち観衆に向けて、囚人服のようなスーツに身を包み、裸足で、生演奏しながら(これを強調するバーン)、歌い、踊り、一糸乱れぬ集団行動と、ユーモアたっぷりのナレーション付きで、この「ウィルス騒ぎ」と「環境問題」と「様々な差別問題」と「国家間および国家内対立」と「変貌する情報・経済」に絡めとられたクソったれな世界で、いかなる希望があるかをきっちり主張する、有り難くも興奮する100分ぶっ通しのライヴパフォーマンスなのだ。
それは半世紀も前のパンク、ニューウェーヴのブームで生まれでたトーキング・ヘッズで成功、自身のライブ映画、あるいは映画音楽を手がけて「ラスト・エンペラー」でグラミー賞を受賞と、大衆音楽家「勝ち組」の一人であるバーンが、いよいよそのリベラル精神を布教せんと起動した訳だ。その彼は古希を迎えた。
私は、ある意味感動をうけながら、何かわだかまりを抱いて家に戻った。そのわだかまり、一体なんだろう。
そこに待っているのは、もう一人の古希の音楽家だ。
藤井郷子との共演や、無伴奏ソロアルバムやら、数々の歴戦をここで書いてもしょうがないし、その技術やセンスの確かさを改めて書く必要は無い。
書かなければならないのは、私の許に届いた二つの音楽のかたち、それらはどちらも同時代の状況を表現していることである。
カウンターポイント、というと音楽では「対位法」を意味するが、私にはバーンの映画と、この田村ソロがまさに「対立的・位置」にある。しかしそれは決して「対決」するものではない。むしろそれは弁証法的にアウフヘーベンされてこそ、私の中に落ち着くべきだろう。なによりもそれが同時に届いた事が驚きだ。
「セキレイ」では謳い上げるブラスの響き、「カルガモ」ではご愛用の中華鍋から多様な音色が、「カワウ」のララバイ、「ボラ」の余韻たっぷりのピアノ、「サギ」では圧巻のノンブレス・フリーキー・トーン!、「カモメ」は一転して、何処の部族音楽ですか?、「チドリ」ではカップミュートでノスタルジックな旋律を、「イソシギ」はあの名曲ではない、ピアノのクラスターにかぶせて、うめき声、そして断ち切られる息。
これら全て「自宅の超狭い防音室で」録音した巣ごもり、手作りの、多重録音無しの即興演奏である。世界を股にかけて演奏して歩くトランぺッターが、世界の圧力によって軟禁されたとき、其の表現力は圧縮されてかくなる形をとった。
ここまで書けば、いかに私が『KOKI SOLO』によって「アメリカン・ユートピア」の衝撃を吸収されてしまったか分かっていただけるだろうか。全てにおいて正反対のアート=音楽。どちらもこの世界において、自由とは何かを、いや自由を得るための方法を提示している。
しかしそんな教育的な事ではない。私のわだかまりは「魚にとっての水、我々にとっての社会=第二の子宮が、不自由の源であるなら、自由とはそこから飛び出してひからびる事、野たれ死にすることか。そうではないはずだ」という問題に全力でぶつかる為の対象が不足していること。
だから「アメリカン・ユートピア」も『KOKI SOLO』も手応え十分であり、これらの<ジンテーゼ=合>はどうあるかを見いだす道は見えて来た。

特殊的・偶然的な表現にではなく、即自かつ対自的に存在するもの(自覚・認識と充足の一体性、形式と内容の一体性)の内に在ろうとする内的な欲求に従った現実との和解を、仮に芸術/表現としてみる。
それは、個々の主観・認識が、自己の性質・欲求に従いつつ、漸進的に、試行錯誤を経ながら、現実と調和していく形で、捉えられなくてはならない。
自覚とは行動する自我の意識覚醒である。
自覚の表現は自己認識を種々の人生経験により考察する現象学である。従ってその源泉と内容は人間界にある。自然の事物の知識を事とする現象でなく人間界に於ける自覚を事とする経験である。認識そのものが人間界だと言っても良い。また世界は諸事象の複合体ではなく諸過程の複合体である。
知とは行って知る知であり、表現経験は本来的に実践的な生活行動である。意識の段階は姿を変えて自覚の中に内在する。物は知覚的に知られるのではなく同時に行動の対象として在る。主体は知覚や悟性の自我ではなく行動する自我である。繰り返すが、自覚とは行動する自我の意識覚醒である。
対立物は相互に規定しあうことで成り立ち、依存的で相関的な関係にあり、決して各々が独自の実体として対立しあっているわけではない
表現にはあれもこれもでなく、あれかこれかの決断による選択、あるいは止揚による無理矢理な<合>ではなく、矛盾を孕んだ挫折による飛躍だけがあるともいえよう。矛盾によってこそ各々の実存に対して迫られた決断において問題を解くべきだ。従って…..随處作主、立處皆眞。

笑ってくれるな、おっかさん。それはアナーキズムだよ。(オワリ)

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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