#2112 『沖至カルテット/ライヴ・アット・ジャズ・スポット・コンボ 1975』
『Itaru Oki Quartet “Live At Jazz Spot Combo 1975”』
text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野onnyk吉晁
NoBusiness Records NBCD 143
Itaru Oki 沖至- trumpet, flute
Yoshiaki Fujikawa 藤川義明- alto saxophone, flute
Keiki Midorikawa 翠川敬樹- bass
Hozumi Tanaka 田中穂積- drums
1. Combo Session 1 14:00
2. Combo Session 2 17:05
3. Combo Session 3 5:49
4. Combo Session 4 17:10
5. Combo Session 5 15:15
Improvised and composed by Itaru Oki, Yoshiaki Fujikawa, Keiki Midorikawa and Hozumi Tanaka
Recorded live on the 7th December, 1975 at JAZZ SPOT COMBO, Fukuoka City, Japan by Heihachiro Arita 有田平八郎 (cassette tape)
Mastered by Arūnas Zujus at MAMA studios
Design by Oskaras Anosovas
Cover photo by Tatsuo Minami
Booklet photos by Tatsuo Minami and Heihachiro Arita
Liner noto by Akira Saito
Produced by Danas Mikailionis and Takeo Suetomi (Chap Chap Records)
Release cordinator – Kenny Inaoka (Jazz Tokyo)
Co-producer – Valerij Anosov
「1975年という時代」
日本の美学とは、などと大上段に構えてアルバム・レビューを書いてみるのはどんなものか。というのは、このアルバムの一曲目が、私に別の一枚を強く思い出させたからだ。それは同年、八ヶ月先だってライブ録音された富樫雅彦の『スピリチュアル・ネイチャー』である。曲想が似ているとか、構造がとかいうのではない。
本アルバムのトラック1、そして『スピリチュアル・ネイチャー』の持つアトモスフェアは日本人にしか出せないものだろう。アフロ・アメリカンのジャズが彼等独自のソウルを持ち、欧州のジャズが否応無く旧大陸の文化に根ざしているように。
私はあるレビューで、『スピリチュアル・ネイチャー』を、「精神の本質」と訳してみたらどうかと提案した。ネイチャーは、ナチュラルであり、自ずと現れ、然り、当然として納得できる「質」なのだ。自然もその意を汲んだ訳語である。
これが音楽の美学としてどこに由来するかなどと考えだしたら大変なことになるのだが、敢えて言うならばそれは室町時代から戦国乱世あたりを想定しても良いのではないかと思う。
というのは、それ以前の日本の音楽として、民衆に由来するものは記録が無い。また雅楽などは平安期に半島経由で輸入された音楽であり、現在までその形態を保存された稀な事例だ。あるいは仏教、特に密教系の梵唄や声明などを含む儀礼音楽もある。しかし雅楽や仏教音楽は日本固有の音楽文化でない事は確かだ。民衆の音楽としては田楽、猿楽などだろうが、これも専門の法師が時節に山から下りて来て舞ったものと混淆している。では民衆由来の舞楽、俗謡はもはや記憶にすら残らなかったのか。いやそれは、見事な発展を遂げた。謡曲や能楽という形に進化したのである。あるいはまた平曲など語り物も形を成した。ここに来て初めて日本固有の芸術音楽は様式を成したのではないか。また琉球経由で入って来た三味線音楽も日本本土に入って、歌、踊りと共に多様な発達を遂げた。
その意味で、民衆的邦楽の成立を室町〜乱世と考えたいのだ。
こうした邦楽一般が、現代の日本のジャズに即反映しているとは言わない。しかしそれを否定する事もできない。アフロ・アメリカンのジャズがアフリカに直接由来する訳でないが、アフリカ無しに成立しないように。歴史は文化の体を作っている。
さて、沖至といえば、どうしても『殺人教室』(1970)と『しらさぎ』(1974)を思い出さざるを得ない。あくまでアグレッシヴ、実験性を横溢させた前者と沖自ら「日本のジャズを作り得た」と語る後者の間に何を読むか。
『殺人教室』は戦乱の始まりを告げている。そして『しらさぎ』は、彼の言う「日本のジャズ」が見事に萌芽して世界に繁茂し始めた、その瞬間であろうか。ここには間違いなく日本固有の美学がある。一言で言うのも憚られるが、それは「間」の美だ。しかしこの美しい「間」は同時に「魔」でもある。
亀井勝一郎は「日本人の精神史」において、仏教の役割について興味深い事を書いている。それは武家の台頭が始まって後、彼等侍にとって仏教は興奮剤であり、鎮静剤だったというのだ。彼等は戦勝祈願を自ら恃む念持仏、そして陣仏や旗指物、兜の前立物に仏や経の文字を用い、人殺しに行ったのである。そしてまた戦いが終われば敵味方の死者に対して慰霊鎮魂を、また仏の力でなさんとした。あるいは普段から参禅し、高僧の意を汲み、寺を建てた。侍は死ぬ事こそ当たり前で生き残るのは加護によるしかない。これは西欧でも似たようなものがあっただろう。
力は人心をゆがめ、権力者はそれに気づかない。敵味方、時には同じ神仏に祈りながら互いに殺し、その後嘆く。信仰もまた「魔」だ。
私は敢えて、沖が発見した音楽美のなかに「魔」としてのジャズを感じる。それは戦国の武士が仏教に求めた精神性だ。
「間」はスペース、ディスタンス、スパー、ルーム、スパン、タイム、デュレイション、テンポ…といった語の全てを包含して余りある。おそらく「間」には緊張感が不可欠だ。印象で語る事に躊躇するが欧米のフリージャズの美学は「間」ではない。近い物を感じることはあるのだが。また話は飛ぶがケージの「4分33秒」は「間」ではないし「RYOANJI」もそうではない。
日本のフリージャズの「間」には「魔」が潜む。それは仏教を信奉しながら殺しあいをした侍の精神かもしれない。
本アルバムは74年に渡仏した沖が一時帰国して盟友たる田中と翠川に再会、さらに藤川を加えたカルテットのライブである。翠川のアルコを使ったプレイがまさに緊張感を引き上げる。翠川はいつもそうだが、声高に主張をしない。それが却って彼の音に耳を惹き付けさせる。そして藤川の長いパッセージも、一音ずつの粒立ちの明瞭な、切れの良いサックスと鮮やかなフルート。沖も同時に篠笛のような甲高い横笛を吹いているが、その絡み合いも緊張がある。田中のドラミングは裂帛の気合いで入ってくるかと思えば、延々と管の二人を煽り続ける。これでもかこれでもかと。それも緊張を高める。沖はカップやミュートを時折、何気なく織り交ぜながら、朗々と歌い上げている。
そしてふと思う。EEU(エヴォリューション・アンサンブル・ユニティ)の旅立ちも1975年だった。当初ドラマーにサブ豊住と土取利之を擁してデビューしたEEUは、76年に近藤、高木、吉田のドラムレス・トリオでアルバム『コンクリート・ヴォイシズ』をリリースする。この過程に近藤等則は「ドラマーの専制的な力」を排除したと言及している(事実EEUの初ライブを聴けば、二人のドラマーに仕切られていると言ってもいいほどだ)。
そうだ、確かに本アルバムでも、もし田中の存在、そのプレイがなかったら、藤川も沖もあれだけ燃えただろうか。
思えば「サークル」結成にあたり、コリアはアルトシュルのドラムを口径の小さいものにし、かつドラマーというよりパーカッショニストの役割を要求した。また英国INCUSの諸アルバムにおいてはドラマーが専制的にリズム、ビートを用いる事が皆無に近い。ハン・ベニンク、トニー・オクスリーという強烈な個性があってさえも。
EEUは日本のフリージャズコンボとしてドラムの専制的地位を排除した初の集団になった。
私は、本アルバムにおいて、ドラムのパワーとビート感の専制としての「魔」を有する<日本のジャズ>が頂点を極めたことを確認した。
そしてパーカッショニスト富樫の構想たる『スピリチュアル・ネイチャー』により、あるいはまた本アルバムと同じ月に録音された『CPU』(富樫、佐藤、翠川)によっても、降魔すなわちジャズの「魔」は調伏され、遂にはドラムレスのアンサンブルEEUの出現を許すことになったと感じる。しかしEEUがモンク、レイシー、そして高木のオリジナルによるブルーズ感覚に回帰したのは、CPUらの調和美への反動かもしれない。
1970年代中期、ある限局した期間の<日本のジャズ>が、このように変遷して行くこと、それはやはり15〜16世紀の日本の社会変動にも相当し、その美学の醸成が「日本の『間』とジャズの『魔』」の相克によって起こったのではないかと言いたい。
掲載された写真に見るミュージシャン達とオーナー、客達の顔つき、それは戦国時代の武人達にも見える。1975年は実に恐るべき時代だった。