#2140 『SAM GENDEL & SHIN SASAKUBO』
『サム・ゲンデル & 笹久保 伸』

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text by Maki Nakano 仲野麻紀

カルネ音楽部 CARNET 001(LP) 4500円
カルネ限定カラー盤は店頭販売のみ(税込 5,000円)

サム・ゲンデル Sam Gendel (Alto Sax, Fx)
笹久保  伸 Shin Sasakubo (G)

Side A:
A1. IN THE DUNES
A2. REEDS
A3. PENSIVE FROG
A4. PIPE
A5. COPYEXERCISE

Side B:
B1. CARNET
B2. OPUS
B3. FONTAINEBLEAU
B4. HUMAN LOOPER
B5. NADJA

アルバム・ジャケット:ますこえり


Reciprocity, Empathy -互恵と共感-、そして孤独な -coexistence- 共在

Reciprocity, Empathy -互恵と共感-。
音楽ではこのふたつが瞬間に行われている。よく耳にする「音楽をやりたかった」、「ミュージシャンになりたかった」と人々が言う理由はここにある。
人類が根底で求めているこの二つの欲求を満たす術を、ジャズは孕んでいる。

Sam Gendel と笹久保伸 / サックスとギター。長らくわたくしもこの構成でユニットを組んできたので相互の器楽的機能と可能性に魅了され、あるいはまだみぬ音世界への不安を抱いてきた。
SamとShin、彼らの音世界が細胞に浸透(フランス語では浸透 pénétrer=挿入という意味でもある。なんとsensual・官能的な語彙だろう)するという感覚を得た。

A面B面を互いのソロで分担し、各面最後の曲を共に演奏するという構成。
A面、Samによるソロは、近年よく聞くこととなるエンドを中途で切るような手法が使われている。
「手法」なんて大げさなことではないかもしれない。現象としていえるのは、今や音楽で行われる起承転結あるいは序破急的形態は必須でなくなっているということだ。形式への問いであり、時空間の捉え方の、只今の感覚の表れでもある。対して笹久保の場合、最後の一音を楽曲全体の気息=命とする。その両者の音的感覚の対比が面白い。
わたくし自身がサックス奏者であるからにはSamの存在はルイス・コールあるいはライ・クーダーのバンドで吹いている、という印象以上に、彼が息を吹き込むサックスの音そのものの、あるいはエフェクターによる音の変容の妙、サックスである必要否か、に興味があった。対共演者の息を内包するかの如くある彼のサックス奏者として突出性。ここでいうまでもなくアルバム「SATIN DOLL」然り。ジャズに対する固定概念的アプローチをジャブで返すのではなく飄々と躱(かわ)し高みへゆく術を心得ているSam。もちろんLAの音楽シーンの流れの中で、彼の存在は喜劇的で神話性をも孕んでいる。シーツサウンド的展開を聞かせるもの、フォルクロール的要素を前面に出すもの、しかし実のところ最近Ringsレーベルから発表された2016年のあの幻の録音、インガ(Inga)の中にある音世界こそが曼荼羅的彼の世界観が表出されている気がしてならない。
B面1曲目、「Carnet」というタイトルは今回このアルバムのプロデューサー/レーベル(カルネ音楽部)である、秩父にある名喫茶店の名前だ。オーナーが選曲する店の音空間には唸るしかない。だからこそ、秩父の音楽家である笹久保との友情、あるいは土地に生きる人間の連帯として音楽レーベルが生まれたことは、世界にある町、都市が表立つレーベルの存在というものと直結している。
笹久保はSamのエフェクターペダルに対し、「Human Looper」という楽曲で呼応する。
サックスでもペダルを使わずに、循環呼吸、インターバルの工夫により、音列効果が得られる。しかし身体的負担は想像できぬほどのもの。笹久保の場合はピックを使わず、またその特殊な調弦からして曲名通りHuman Looper を実現する身体的過酷さが、彼の演奏からは微塵も感じられない。
反復の流れの中に現れる低音ハーモニー。揺らぐ反復、ルーパーの域にはない有機的なゆらぎ。重複機能の時間的差異を見事に人力でやった、ということだ。
こういうテクニックをさらっとやってのける、それが笹久保伸の勝負のやり方であり、共演者へのレスペクトの流儀だ。

最終曲、二人が共演した楽曲Nadja(この時点で忘れてはいけないのは、彼らは遠く離れた土地で、それぞれがマイクを前に、孤独に録音していたという事実だ)。言わずもがなアンドレ・ブルトンの著書の名前。シュルレアリズムのムーブメントには音楽はなかった。だが、渦中の人々の体内には音が溢れていた。彼らが発した言葉、声は当時の音楽形態に対するアンチテーゼ。言葉の内にある意味を、音楽という質感で表出されている。
以前レーモン・ルーセルの「ロクス・ソルス」(平凡社ライブラリー版)のあとがきに、ピアニストである青柳いずみこさんが「いつかルーセルのこの作品のような音楽を聴いてみたい。」と綴っていたことを思い出した。
まさにSamとShinが織りなしたこの音世界こそ、ルーセルではないか。ナジャを読み、この音楽を聴いたルーセルが彼らにウインクしているようだ。
いつの時代も、文芸、音楽も、互恵と共感という関係性は蜜月的要素をもっている。

彼らの音楽に怯懦な印象はまったくない。では反語的に、エネルギー、強度、パワー、密度という語彙を使って印象を語れるかというとそうではない。とんでもない自我をもつ二人、その二人が織り成す音の織目から生まれる、炯炯たる音。

今年笹久保はすでに3枚のアルバムを発表しているが、話題をさらった「CHICHIBU」では、自身がセメント(格闘技用語の隠語で真剣勝負)をするタイプの音楽家だからこそ、石灰石=セメントを産出する武甲山あっての街、秩父そのものの名前で、ゲストミュージシャンとのクリエーションに成功した。
真の想像もできないほどの音楽、絶対的に存在しない音楽を、彼らは個体間の共鳴によって成した。
彼らが作り出した音楽は、どの角度から見ても、聞いても、The Art = The Jazz。

ジャズはいつもアクロバチックに、リスクと共にあり、予測不可能で、ジャズを体感するすべての者が興奮するものだ。
ジャズはかっこいい、というならば、人類はかっこいいとも言える。このような肯定的あるいは楽観的思考を許していただきたく、またこの思索をいつか言及できないものかとの思いに耽る。回りくどい言い方になってしまったが、ここで言いたいのは、ジャズはSam GendelとShin Sasakuboを待っていたということだ。
互恵と共感、そして孤独な -coexistence- 共在によって生まれた音楽を、ジャズは待っていた。

ところでこのLP、発売前に予約完売とのこと。
これが今を生きるミュージシャンのやり方。かっこいいじゃないか。


仲野麻紀 Maki Nakano (alto-sax, metal-clarinet, voice)
2002年渡仏。2009年から音楽レーベル、コンサートの企画・招聘を行うopenmusicを主宰。フランスにてアソシエーションArt et Cultures Symbiose(芸術・文化の共生)を設立、日本文化紹介の講演・ワークショップをプロデュース。著書に『旅する音楽』(せりか書房 2016年)。最新CDに『openradio』(openmusic/Nadja21)。
インターネットラジオ openradio: https://www.mixcloud.com/makinakano/

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