#2177 『河崎純 feat. マリーヤ・コールニヴァ/STRANGELANDS – Eurasian Poetic Drama』

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text by Yoshiaki Onnyk Kinno  金野Onnyk 吉晃

BISHOP RECORDS EXJP025

河崎純(comp,arr.)
マリーヤ・コールニヴァ(vo), 青木菜穂子(pf), 任炅娥(vcl), 小沢あき(eg, eb), 大塚惇平(sho), 河崎純(cb, programming), 小森慶子(cl, sax), 近藤秀秋(g), 立岩潤三(dr, perc), Tamuran Music (singing bowl), 崔在哲(korean perc, voice), 中澤沙央里(vln), 松本ちはや(perc, marimba), 八木美知依(21-string koto, 17-string bass koto), セルゲイ・レートフ(sax), ヌルヒャン・ラフムジャン(dombra)
弦楽四重奏:高橋奈緒(vln1), 高高岸卓人(vln2), 森口恭子(vla), 山本徹(vcl)
声:サインホ・ナムチラク、ジー・ミナ、吉村章、坪井聡志

「妣が國への旅」

河崎純の音楽詩劇研究所によるプロジェクト「ユーラシアン・オペラ」の第二弾。この製作過程詳細は、本サイト副編集長、横井一江氏により既に掲載され、河崎自身の言葉で明解に伝えられている。
本盤は、『河崎純 feat. ジー・ミナ/HOMELANDS – Eurasian Poetic Drama –』と対になったディプティク〜二つ折りの手紙。
一つの匣に収められた美しい二冊の本。それは画集か、写真帖か、あるいは日記、詩集、短編集なのだろうか。いや、どれでもない。
しかし私は二枚のCDを互いに参照しながら交互に聴き続けた。だからこのレビューは決して『STRANGELANDS』の紹介に終わらないだろう。

『STRANGELANDS』はまた三幕の芝居でもある。

湖底都市キーテジ伝説、ユーラシアン・ディアスポラの嘆き、ロシアの女性詩人アンナ・アフマートヴァとソフィア・パルノークら、韓国にルーツを持つウズベキスタン人とサハリンの現代詩人の詞による神話、これらを緯(よこいと)として、河崎は経(たていと)に「さんせう(山椒)大夫」を引いて織りあげる。

河崎が以前に好んで演奏した曲がある。
18世紀の作曲家マラン・マレのヴィオラ・ダ・ガンバ曲『夢見る人』(河崎純『左岸・右岸』2003年、BISHOP RECORDS EXJP009所収)がそれだ。
河崎の作曲のなかに、私はいつもこの曲の反映を感じてしまう。河崎もまた「夢見る人」である

その夢こそが「ユーラシアン・オペラ」といえるが、極めて日本的な説教浄瑠璃「さんせう(山椒)大夫」がモチーフとなっている。これは姉妹作『HOMELANDS』にも通底しているイメージだ。
なぜ、河崎はこの物語、安寿と厨子王の姉弟の流離譚を必要としたのか。彼が求めたのは、姉弟の母の行方か、いや「妹=いも」だったのか。
自らが狂言回しをしつつ厨子王となり、安寿となる「妹」を求めた。「妹」は勿論姉ではない。妹=イモとは男性には無い強い呪力を持つヨリシロ、巫女なのだ。

河崎は、ユーラシアに普遍しつつ潜む神〜それは民衆の念の集合〜を召すため、朝鮮半島の巫祭「クッ」で演奏される半即興的な音楽シナウィを、改めて『ユーラシアン・シナウィ』として演奏した。しかし全体は中央アジアを思わせる楽曲となっている。
tr.10『ユーラシアン・シナウィ』は同じタイトルで『HOMELANDS』と、本盤『STRANGELANDS』の夫々の中心に収録されている。ジー・ミナと、コールニヴァが立場を入れ替えてテクストを謳うこの曲は、二枚のアルバムを繋ぐ鎹(かすがい)と考えていいのかもしれない。

神降ろしの音楽は既に日本では絶えて久しい。恐山の巫女、イタコの降霊儀式に近い音響は嘗てあった(今の自称イタコは既に晴眼女性による人生相談のごときものになってしまった)。神楽がそれだと考えても良いのだが、我々はどこまでそれを意識しているだろうか。
『HOMELANDS』では、「山荘太夫」(網野善彦の史学では「散所(さんじょ)」とも)のヴァージョンともいえる「お岩木山一代記」が、遠野出身の三浦宏予によるネイティヴな語りで聴ける。「お岩木山一代記」はイタコたちが伝えて来た、津軽の岩木山の神体を安寿姫とする物語である。安寿は陸奥の国の太守の娘である。父が讒訴されたことで流刑となり、母子が離され、娘弟は売られたというのが発端であるからだ。

古代より近年まで琉球でもオナリ、ウナイ、采女、ウナリという巫女があり(ノロ、ユタに近い)、アイヌの伝承にも兄と妹の神が現れる。琉球と陸奥・蝦夷地に古来の風習が残るのは、このニホンと呼ばれる弧状列島の旧い民俗の痕跡である。
古代の同胞としての妹=イモは玉依姫、斎院、斎宮ともなり、オナリは男子同胞の玉依彦の守護と指導の霊を宿す。
そして「妹」たるジー・ミナとマリーヤ・コールニヴァもまた、「夢見る人」、依り代となった。夢もまた預言である。

西日本では、「おなり神」が「田の神」であり、豊穣を齎すという。それは田植えと歌舞音曲が密接に関係することも想起させる。そこで「お鳴り」と踊りがあればこそ豊穣を祈念できるのだ。そして稲妻が鳴ると、稲の実が入る(なる)とされる。注連縄の形は雲と雷の形象である。ユーラシアン・オペラは、果たして我々に豊穣を齎すであろうか。

神は降ろせば帰さなくてはならない。この意味で、ジー・ミナが降ろした神を、マリーヤ・コールニヴァがお送りするのであろうか。そしてこの祭礼の仕切りはまさにシャーマンの血を引くサインホ・ナムチラクの役目ではなかったか。
あるいはまた、この数世紀の間に流された血、それが染込んだ大地と、流れ込んだ河、その浄めを想うのだろうか。

この列島の日本海(対岸からすれば「東海」)の沿岸には、また南西諸島も含めて、その岸辺に寄するものがある。それは椰子の実だけではない。古来から数知れぬ多くの人々が渡って来た。しかし国境が決定されて後、勝手にやって来るのは漂着ゴミ、殊にプラスティック製品だ。その表面にはロシア語、ハングル、中国語などが読める。海流の調査から、流れをシミュレートして逆転させると、これらのゴミは大陸の諸大河から海に流出している。つまりその奥深い内陸部からやってくるのが分かる。
大陸の奥地とこの列島は海によって隔てられているのではない。海によって繋がっているのだ。人も物も言葉も歌もゴミも、全て水、河と海が運んでくる。

思えばコントラバス奏者、故齋藤徹は名作CD『ストーン・アウト』(1996)において、シナウィとタンゴと邦楽とフリージャズをフュージョンさせた。それはやはり覡(男性シャーマン)たる金石出の薫陶と、彼の名前に由来するものだった。
韓国の音楽家達はその、あまりにも強烈な伝統と精神性からの脱却ないしモダニズムを目指す。しかし外部から見ればその豊穣さは羨望すべき物である。半島は、大陸と弧状列島の接する所。半島は回廊のひとつに過ぎない。そこから旋法音楽と調性音楽のあわい、拍節構造の定量的領域と伸縮自在の節の相克する世界がユーラシア全体に広がっている。

先達たる齋藤徹、吉沢元治らと河崎の違いはどこにあるか。それは言わば下座音楽への志向であり、妹の力を信じ、ウタを以て物語を完成させることにある。CDにおいては、舞台表現たる「ユーラシアン・オペラ」は見えない。しかし耳が見せてくれる世界は、違う想像力を喚起する。だからCD制作においては、より多様なる音響演出が可能かつ必要であった。
河崎の音楽は、出自となってしまった西欧的な要素と楽器を用いて、調性と無調、即興と伝承曲、器楽とウタの自在な往還を見せてくれる。あるいはまた様々な状況での会話や自然音、そしてプログラミングされた音響の<混血>。
次第に調性が不分明になっていくゆえに、歌の芯が明確になるtr.8『バイカル湖のほとり』は多重録音ゆえの効果であろうか。
これは極めて私的な感想だがtr.12『幼子の魂』は繰り返し聞いてしまう。マリーヤの歌声の透明感もたまらないのだが、小沢あきの歪んだギターに痺れた。そしてこれを聴くと河崎がかつて参加していたバンドを思い出すのだ。その名を<マリア観音>という。

「ユーラシアン・オペラ」における妹の力=ウタの強さは、例えばダグマー・クラウゼが歌うブレヒト・ソングといかに違うか。それはイデオロギーではなく、慈愛というべきだろう。
あるいはヴァーグナーの楽劇、『トリスタンとイゾルデ』でも良いが、これはまさにヨーロッパ型の舞台表現の一極限である。それは愛と死、フロイト的<エロスとタナトス>の対が弁証法的な昇華、あるいは破滅を見せている。
「ユーラシアン・オペラ」では、死と生は対立する事無く、アジア型の再生、すなわち輪廻の観念で旋回している。
音楽、詩はリベラルアーツであり最高の教養であり、儒学でもそうだった。そして劇とは、まつろわぬ民、散所(さんじょ)の民による饗宴を齎すイベントであった。

18世紀に成った『琉球国由来記』には、聖なる櫃の鳴る音が行く先を教えるという伝承がある。
全くの牽強付会ではあるが、櫃をコントラバスに比定したい欲望がある。櫃には神の詞が入っている。神詞の容器を開ける事が「告」の字形の原義であると白川静は言った。
コントラバスが唸るとき、ウタは導かれて行く。

柳田国男は『海上の道』において、列島の住民はイネとともに、大陸の江南地方から移住してきたと考えた。この説は、椰子の実が寄する浜に感じた柳田の詩的ロマン、直観の産物である。故に後々批判が多々あったわけだが、ニホン文化の源泉を探求するという学術的なモチベーション、インパクトとしては重要な役割を果たし、それによって研究は発展した。
そしてまた、祖(オヤ)達の故地、妣=ハハのクニへの回帰願望が、多くの儀礼や伝承、すなわち文化、民俗の根底にあるというのは、学術的にではなく、まさに気分として捨てがたく人々=生活者の間に存する。妣=ハハのクニは、根のクニであり、霊魂が帰る場所でもある。
折口信夫のエッセイともつかぬ論文『ほうとする話』では、放浪者(折口)がどこまでも青い空、白い浜辺を歩いて往く。妣=ハハのクニへ向かって。この後ろ姿に河崎を重ねたくなる。

この弧状列島に人が住み始めた頃、後に縄文的と呼ばれる生産基盤としての照葉樹林・焼畑農耕文化が定着した。その頃は部族ないし大きくても氏族社会であり、クニ的意識はかなり後で稲作と関連して強化されてくる。当然其処では、律令による班田制度が、まさに<祀り事>を<政り事>に変容させていく。
人々の信仰は、アニミズムから多神教的形式へと矯正されて行く。ユーラシア各地の大帝国では、さらにそれが一神教としての強い政治的文化的な制度へと整備される。
もしジー・ミナとマリーヤ・コールニヴァの差異を考えるならば多神教と一神教の巫女がどうあるのかを問わねばなるまい。しかし二人は「妹」として共通の精神性と強度をもっている。
一神教にも神と語る女性はあるのだ。古くはビンゲンのヒルデガルドのように。

マリーヤ・コールニヴァのルーツは、ロシア正教古儀式派(セメイスキー)にある。16〜17世紀、総主教ニコンとアレクセイ・ミハイロヴィチ帝が行った宗教改革を拒否した正教徒たちがセメイスキー=逃亡派教徒、反体制集団となる。
18世紀後半、セメイスキー達は『キーテジ年代記』をまとめた。これによれば、義人ゲオルギー公によって創建された町、大キーテジが、ジョチ・バトゥ率いるモンゴル軍の襲来で破壊された。町はバトゥに占領される前に、神の恩寵で湖底に隠され、見えない町になった。今でも、夏の穏やかな日には、湖の中に教会や宮殿や家並みが見え、鐘の音が聞こえるという。セメイスキーにとって、義人らとともに消えた町の伝説は、信念を守るために森に隠れた自分達と重なるものがあった。
彼等は各地に分散して生きのびた。聖職者、教会組織が存在しないため、洗礼、聖体拝領、塗油式、告解、結婚などの秘蹟を行わず、独自の教義を生み出していった。世俗の法律に従わず、20世紀もシベリアやウラル山脈北部の辺境の地に身を潜めて信仰中心の生活を続けた。これを聴くとソ連の奥地には、ロシア革命や世界大戦を知らずに居た人々がいたという話は、聴いた当初まさかと思ったが、今ならセメイスキー達のことかと想像できる。

キーテジ滅亡の物語は徐々に変容し、義人たち、選ばれた人々だけが辿りつけるという町ということになっていった。キーテジもまたパライソ、ニライカナイの類であろうか。
キーテジ伝説のあるニジェゴロド州のスベトロヤール湖は楕円形の深い湖として知られる。CDレーベル面の風景がそれだろうか。
近年の学術調査の結果は、地すべりが古い町を呑みこみ湖底に流れ込んだ証拠を発見した。この天災が神話の起源になったという。あるいは「この集落は、我々の知らない理由で放棄されたのかもしれない」と研究者は言う。
それは例えば<目に見えない、匂いも無い、しかし確実に生命を脅かすもの>の蔓延だろうか。病原体や放射性物質ではない。荒廃し、彷徨うココロこそを私は怖れる。
後から来た新しい住民が、この見すてられた町の遺跡を見つけた。それが幻の町キーテジ伝説を醸成し、代々伝えられた可能性は高い。口承伝承は伝わる程に修飾されていく。いずれにしてもタルコフスキーの映画『ストーカー』(1979)の「ゾーン」を思い出すではないか。

もしジー・ミナが妹=イモなら、マリーヤ・コールニヴァは「水底の町」に住む妣=ハハかもしれない。
CDレーベル面に見える美しい湖、そこに眠るキーテジ。そこは山幸彦としての河崎が訪れた「わだつみのいろこの宮」に比定されるだろうか。
そこに行く為には妹=イモの助力が要る。妹=イモはまだ巫女として人と神の間にある。妹=イモは釆女、斎宮であり、巫女とはいえ一時的な潔斎、生涯未婚、あるいは婚姻で交代もする。
妣=ハハも妹も神的威力を持つが、母ならば子を産むという脅威がある。それが妹=イモと、妣=ハハの境である。しかし両者は異なると同時に一つである非論理的対なのだ。
妣=ハハはすでに神であり、豊玉姫のようにそこで待っている。
河崎は、なぜそこに赴くのか。祖(オヤ)の国にある妣=ハハが、霊魂=タマを呼ぶからだ。
マリーヤは妹=イモでも妣=ハハでもなく、実はウケモチノカミか、オホゲツヒメなのかもしれない。彼女は自らを犠牲に豊穣を齎すであろう。
あまりにも日本神話に依り過ぎていると思われそうだが、女神の身体から豊穣なる作物が生まれるという「ハイヌウェレ型神話」は東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布している。
これもまたある解題として捨てきれない。

冗長な、そして生半可なことを書いてしまった。これは私が二枚のCDから夢想した物語である。
予備知識、専門知識がなければ音楽が楽しめないということはない。旨い料理は、どうしたって旨い。材料や調理法を知らなくても。むしろ知らないほうが良いこともあるだろう。自分の舌、いや耳を信じるしかない。
音楽は譜面にも演奏にもない。それは想起だ。

河崎の夢「ユーラシアン・オペラ」とは、失われたグラン・レシ=大いなる物語の断章を拾い集める作業ではないのか。とすればそれに接するものは、自分でその物語を想像することが許されるだろう。
河崎純は我が夢の導き手である。(了)

(特にセメイスキー、キーテジ関連について、幾つかのネット上のテクストを参考にさせて頂いたが、基本的には構成し直し、相互に参照して書き直していること、全て記載するには煩瑣であることから、典拠を省略させていただくことをお許し頂きたい。記載に問題がある場合にはご連絡頂ければ幸いである。筆者)

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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