#2225 『JUSU /サガリバナ ~島をくちずさむ~』 

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text by Maki Nakano 仲野麻紀

<JUSU ジュス>
笹子重治:作曲、アレンジ、ギター
ゲレン大嶋:作曲、作詞、三線
宮良牧子:ヴォーカル

<ゲスト・ミュージシャン>
Saigenji :Flute on 7 & Chorus on 7
ヤマカミヒト: Flute on 1, 2, 8 & Chorus on 8
林正樹: Piano on 3
橋本歩: Cello on 9
コモブチキイロウ: Bass on 1, 2, 5, 8 & Chorus on 8
石川智: Percussion on 1, 2, 5, 7, 8 & Chorus on 8

1. 島へ(作詞・作曲:ゲレン大嶋)
2. 島のワルツ(作詞・作曲:ゲレン大嶋)
3. サガリバナ(作詞・作曲:ゲレン大嶋)
4. 行(い)ち戻 (むどぅ )い(作詞:名嘉睦稔・作曲:笹子重治)
5. 竹富の 猫(まやー)小(ぐわぁ)(作詞・作曲:ゲレン大嶋)
6. 花とオルゴール(作詞:ゲレン大嶋・作曲:笹子重治)
7. 風(かじ)や向(ん)かい風 (かじ )(作詞:名嘉睦稔・作曲:ゲレン大嶋 )
8. あなたの島 あなたの歌(作詞:ゲレン大嶋・作曲:笹子重治)
9. イアイ(伝言)(作詞:ゲレン大嶋・作曲:笹子重治)

All songs arranged by 笹子重治

Produced by JUSU
Recorded by 村瀬遼太 (Studio Happiness) 2022年3月22日、31日、4月7日
Mixed and Mastered by 平野英二(Studio Happiness) 2022年5月4日
Recorded, Mixed, Mastered at Studio Happiness
Cover Art  名嘉睦稔
Design and Photo by 町田良夫 (Amorfon)


Archipelago ー諸島、群島、多島美ー  口ずさむ中から生まれる音の質感。 

パリはマイナス1 ℃。行きつけのcafé がある。
公共の場では禁煙となってから早15年。喫煙家はカフェのテラスで一服する慣わしとなっている。
凍える中、巻きタバコに火をつける。同じように巻きタバコを咥え、向かいに座っている70代位の男性と目が合った。
寒いですね、という目配せ。

「De quelle origine êtes-vous ? どこの出身ですか?」
その方はわたしに向かってこんな質問を投げかけた。

フランスのカフェ文化とは、そう、こういった一言から始まる。
「わたしは日本人です」と応えると、
「僕は、沖縄がアメリカから返還された1972年(*1)に、妻と共に、フランスから石垣、西表島へ旅に出たんですよ。」

白い息を吐くパリの街で、カフェテラスの空を見上げれば雲ひとつない凍空。
真っ青と真っ白、潔い空だ。

「それからというもの、Archipelago ー諸島、群島ーへの眼差しは、フランス海外領土へ向けられることはなく、沖縄への憧憬は郷愁と変わったのです。

大陸から人々は海を渡り新たな土地を求めた。
ブルターニュからインド洋に浮かぶレユニオン島、モーリシャス島へ、ナント港からカリブ海へ、大西洋から環太平洋へ…。
やがてクレオール文化が生まれる。必然だ。と同時に島々は常に”大陸”からその楽園を脅かされていた。

三線弾きのゲレン大嶋さん、ギターの笹子重治さんの奏でる音の中で、八重山諸島 – 石垣島出身の宮良牧子さんが歌う。
三人によるグループ名はJUSUという。

今聴いているのは、カフェで巻きタバコのおじさんに声を掛けられ、石垣島と西表島の話しを耳にするまで、スーツケースに入ったままだったJUSUによる「サガリバナ~島をくちずさむ vol.1~」と題されたアルバムだ。

聴こえてくる音は、三人が軸となって奏でられるクレオール。
ークレオールとは何だろう。
”植民地”という歴史から発生した語彙ではなく、広汎な意味でのクレオール~混血を表してみたい。
土地を象徴する音階や伝統楽器を取り入れただけである特異性を表出する、そういったものではない。彼らが経験した音の記憶や物語が奏でられている、音楽。

今秋訪れた沖縄国頭郡本部町、備瀬。対岸には「六日戦争」と呼ばれる日米の激しい戦闘があった伊江島が見える。暴風から身を守るためにできた「フクギ並木」の中にある静寂。何回目かの来島の際、導かれるように斎場御嶽へ行った。あの静謐な水の滴り、鬱蒼と茂る樹々の隙間から望む久高島。
立ち入ってはいけない、歌ってはいけない事象があること、沖縄という島々で知った。
そして、知らなければいけない歴史というものを知った。
鳥瞰的に垂直的高度をあげれば、沖縄諸島から宮古列島、広義の琉球諸島が見えてくるだろう。解像度はいらない。小さき島々が群れをなし、散らばり、しかし見えないつながりの中にある美しさを眺めることになるだろう。
ー多島美。
やはり秋のツアーで訪れた瀬戸内海。地元の人が手をとって連れっていってくれた丘の高台、峰から見る小きさ島々の存在に圧倒的な美をみた。
呉に住むその人は、その美しさを”多島美”である、と教えてくれた。
それと同等の美しさが沖縄という群島にあった。
決して安易な気持ちでは立ち入ってはいけない、土地。ラディカルな例えであれば久高島のそれかもしれない。
遠く眺める人々が抱く憧憬。だからこその、あちらから吹く風をひたすらに捕らえ、風の抱擁を待つわたしたち。

沖縄という地で、ある歌い手が地元の人にひっそりと教えてもらった、人前では歌ってはいけない歌を、ある公共の場(本土)で歌ったという話しを耳にしたことがある。
その意味とは。
力の関係ではないことは明らかだ。一人の人間が、一人の人間に語ること。
そこに生まれる信頼、そこに生まれる関係性。そうやって我々人類の物語が語り継がれきたのだと思う。歌が魔力を持っている所以でもある。
私たちが知っている沖縄とはなんだろう。

JUSUが奏でる音楽は、島々の存在に触発され、様々な語りの中から、彼らの感性を通過して生まれたのだと思う。
JUSUというユニット名が「口ずさむ」という意味の古語であると、知った。
風景の中で、空の中で、風の中で口ずさむ。メロディーが生まれ、あの空気感の中で声の質感が誕生する。ゲレン大嶋さんが紡いだメロディー、詩、笹子さんが重ねるハーモニー、音列、ところどころのゲスト・プレイヤーたちが、それぞれの風を吹き加える。
この場合、きっと主体となるのは宮良さんの出自その存在だろう。
すると「わたくし」からの発する言葉や、そのアクセント、ニュアンスが主体であることに気づく。
”沖縄の作家” と呼ばれる崎山多美さんは、「見ると見られるの関係性の不随意な逆転により、読む者の立場性をも揺るがし、問い返す。」(琉球新聞書評:渡邊英理・宮崎公立大准教授)と評されている。彼女が綴る主体性、それを分析する 渕上千香子さんの博士論文『崎山多美研究―「私」と「他者」の物語』からこんな一節を引用してみよう。

“「島」を書こうとする試みは、「私」を支えるものは「島」にある、という考えが前提にあった。だがその前提は、実際に「島」を書いてみることによって裏切られる。”

“「わたし」によって示されるのは、「シマ」という舞台が様々な「他者」の演出のもとにあるということ、そしてその中で演技をする「わたし」という虚構の中にこそ、「私」が生きているということである。”

“「私」の根拠は場所としての「島」にはなく、唯一記憶に残っている祖母との、つまり人との関わりにおいて示された。その関わりは、音や波間に放たれた祖母の位牌のように、固定化されないものとして「私」の中で生きるのだった。”

“沖縄”を主体とする声の質感の在り方、ひとつの言葉の慈しみ。

主体と他者。映像文化人類学と呼ばれる世界で、他者を撮影し、それを観る第三者は真っ平らの画面からの情報だけでその全てを判断していいのだろうか?
匂いは?そよぐ風の音は?靴の下敷きを通して感じる土の湿度は?
JUSUが歌に、楽曲にしたことは、三人が感知した質感を、彼ら自身の創造として音楽に変換したということだ。三人という_群島。
直接性ではないかもしれない。しかし少なくとも彼らが感じた”何か”を、わたしたちは彼らが奏でる音楽により追体験することができる。

「遠い過去から 未来へと吹く
島渡る風のように 翼広げ_____

二度と 会えなくても
あなたが作った 歌は忘れないから
きっと 未来の人が
あなたを知らずに歌って笑ってくれる」

島人たちの強さとしなやかさ。風に任せる潔さと、常在する悲しみ。
ゲレンさんがつくる”歌”には、あらゆるシグナルが隠喩によって見え隠れしている。要素が要素を越え、普通のことのように歌われる。
わたしはゲレンさんと笹子さんの出自を問わない。
真のクレオールを飄々と音楽を介して体現しているのだから。

フランス人であるあの巻きタバコのおじさんが郷愁と呼んだ沖縄。
そこから見える”島々”と”混血”を軸に視野を広げてみると、エドゥアール・グリッサンが、パトリック・シャモワゾーの作品群が思い浮かぶ。
そして、いみじくも、奄美群島へ旅したル・クレジオは、ガジュマルの樹を目にした時に、インド洋、モーリシャスとの繋がりを感じた、といった(*2)。
クレオールを捉えるということ。それは本来わたしたちのDNAの中に在する多様性への内なる眼差しへの一歩ではないだろうか。
単一民族なんてものは存在しないことを、すでにわたしたちは知っている。
寛容性を持って出自を受け入れる時、あるいは他者と接する時、あのおじさんの郷愁が沖縄であってもなんらおかしくないのだ。
Métropole 本土 とIsles 海外領土ー島々ーの間にある双方の見方。
目下続く基地問題、埋め立て問題ひとつをとってもその全てがこの関係性の中に潜んでいる。
すべては、連帯という関係性の中にあって、生きとし生けるものとしてのわたしたちであるはずだ。

〈サガリバナ〉を聴いた後、寒空夕暮れの街に出て歩いた。
雲ひとつないキンキンに冷えきった空は、セーヌ河の情景と一体となる茜色の黄昏。耳の奥に残るJUSUが奏でる音。
ウチナンチュウの言葉、「ちむぐりさ」を知ったのは、映画監督である越川道夫さんの、ある一節からだ。
「ー目の前の小さな道を、立ち並ぶ家々を包み込む夕方の光は、赤でも青でもなく、言ってみれば「青に近い紫」の光に包まれていたのだ。略:ー灼けた夕陽の赤い色がまだ空に残っていて、これからこの世界を包み込もうとする深い青色が混ざった光_。」
「一言で本土の言葉には翻訳することができない微妙なニュアンスを含んだこの言葉_。」

https://suigyu.com/noyouni/%e8%b6%8a%e5%b7%9d%e9%81%93%e5%a4%ab/%e7%b4%ab%e3%81%ae%e5%85%89%e3%81%ae%e3%80%81.html

「ちむぐりさ」とは、「あなたが悲しいと、私も悲しい」という共感の言葉。
わたしにとって、沖縄の空は、今まで海そのものである碧さだった。しかし今は「ちむぐりさ」の紫を帯びている。
アルバムジャケットの表紙を見たら、4曲目〈行き戻い〉と7曲目〈風や向かい風〉を作詞された、板画家である名嘉睦稔(なかぼくねん)さんの作品であった。その色は語るまでもない。

白い息は吐いたとたんに消える。冬を生きている証拠だ。
パリの寒空の下、「あなたの島 あなたの歌」を聴けば寒い日々だってへっちゃらだ。
もう少し、島々の風を想像し、春を待つとしよう。

*1:1972年(昭和47年)5月15日、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還。
*2:Voyages de l’autre côté (1975) 『向う側への旅』高山鉄男 訳:新潮社

追記:楽曲解説は演奏者本人によるものをエル・スールレコードからのサイトで確認できる。
http://elsurrecords.com/jusu-2022/08/07/2022/

( 2022年12月 記)

仲野麻紀

サックス奏者。文筆家。2002年渡仏。パリ市立音楽院ジャズ科修了。フランス在住。演奏活動の傍ら2009年から音楽レーベル、コンサートの企画・招聘を手がけるopenmusic を主宰。さらに、アソシエーションArt et Cultures Symbiose(芸術・文化の共生)をフランスで設立、日本文化の紹介に従事。自ら構成、DJを務めるインターネット・ラジオ openradioは200回を超える。他にInterFM:Song x Radio-old and new dreams-も。ふらんす俳句会友。著書に『旅する音楽』(2016年 せりか書房。第4回鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞)。CDに『サイクルズ』(DU)、『Anthology Vol.1』(Plankton) 他多数。最新作は『openradio』(Nadja21)。

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