JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 1,357

Concerts/Live ShowsNo. 338

#1412 ヘニング・シュミート Japan Tour 2026 レポート&インタビュー

Text by Minako Ukita 浮田美奈子
Photos by Natsumi Chiba 千葉奈都美,Fuminori Odawara 小田原史典 & Irie Ogasawara 小笠原湾

ヘニング・シュミート ジャパン ツアー2026/Henning Schmiedt Japan Tour 2026
2026年5月20日(水)  会場:渋谷WWW

Musician:ヘニング・シュミート(ピアノ)/Henning Schmiedt(Piano)
Setlist:
240g Mehl
Wanderschuhe
Pssst!
07:29:23 19.08.2025
07:42:03 19.08.2025
Meine Hand und deine Hand
Weitergehn
Libelle Stille Andacht
Der Regen hat aufgehört
Soon
mondlied
Am See vorbei
Violet(Unreleased Track)/Joie de vivre
Late
Raum (Encore)


今月は東ドイツ出身で現在ドイツ、ベルリンに在住するピアニスト、ヘニング・シュミートのライブレポートと彼へのインタビューをお送りする。私が行った会場は2026年5月20日の渋谷WWW。1年ぶりとなる来日ツアーのうち、東京での2回目の公演であった。

【ポスト・クラシカルという解釈だけでは捉えきれない魅力】
ヘニング・シュミートの名前は、たいてい「ポスト・クラシカル(Post-Classical)」というジャンルの棚に置かれている。今回の記事を書く前に、私はこのJazz Tokyoのサイトで彼の過去の記事を探した。見つかったのは、彼が日本で初めて紹介された頃のやや辛辣?なアルバム・レビュー が1つあるだけだった。横井副編集長に尋ねると、「彼はポスト・クラシカルの文脈で語られているからではないか」という返答だった。しかしそれは非常に勿体無いと思ったので、今回、敢えて彼を取り上げることにしたのだ。でも、白状すると、私がヘニングの名前を知り、その音楽を初めて聴いたのは、ライブの2週間ちょっと前であった。聴いていた音源も、最新作の『Music for 3』と『Spazieren』くらい。彼がドイツ人であること以外、経歴もほとんど知らなかった。
しかし、当日演奏が始まって、すぐにハッキリと感じた事があった。ここで鳴っている演奏は穏やかで優しく心地よいものだったが、「演出された作為的な静寂」ではない、ということだ。彼の呼吸や歌でテンポが躍動する。打鍵から生まれる音には、彼の人間性が「心の声」となって、その「歌」がダイレクトに表れてくる。背後には、キース・ジャレットの影も見える。私が勝手に抱いていた一般的な「ポスト・クラシカル」のイメージより、ずっと多くの要素を含んで、その場その場で生まれ直していく、自由で即興性の高い音楽だったのである。そういう意味では、先入観がほぼない状態で彼のライブを見られたことが功を奏した。

【出会いは偶然から。でも必然だった。】
そもそも私と彼の音楽の出会いは、まったくの偶然だった。5月頭、ロンドンからの帰国便のJALの機内オーディオの中に、彼の最新作『Music for 3』が入っていたのだ。あまりにも気に入ったので、東京に着くまでずっと聴き続け、彼の名前とアルバムタイトルだけをメモしておいた。それから数日後、たまたま彼がその頃日本でツアーをスタートしていることを知ったので、すぐに彼の2回目の東京のコンサートに行くことに決めたのだ。
また、彼の過去の作品をたどると、『Lost Songs』(2025年)というアルバムに行き着いた。これは、ヘニングが長年共同作業を続けてきたミキス・テオドラキスの未発表曲を、ヘニングがピアノ・ソロで制作したものだ。ミキスは、ギリシャを代表する国民的作曲家であり、英雄でもある。そしてそのアルバムの中の1曲のクレジットに見覚えのある名前があった。ドミニク・ミラーだ。彼はイギリスのミュージシャン、スティングの横で35年以上ギタリストを務めているが、彼自身は現在はECM Recordsに所属しており、3枚の作品をリリースしている。実は、私は承認を得て彼のファンサイトを運営しているのだ。(Jazz Tokyoでの彼の過去インタビューはこちら。)私はドミニクが以前、その曲とアルバムを宣伝していたことは覚えていた。ただ、申し訳ないことに肝心のピアニストの名前はすっかり忘れていたのだった。でも、これで点と点が1本の線に繋がった。

【渋谷WWWの夜】
さて、ライブ当日の渋谷WWWである。映画館を改装したすり鉢状の空間に、ピアノが一台。それ以外は何もない漆黒の空間だ。セットリストは『Klavierraum』(2008年)、『Music for 3』(2026年)、『Spazieren』(2011年)などを中心に、各時期のアルバムから曲が組まれていた。ヘニングは丁寧に日本語と英語を交えながら、次に演奏する曲をその背景を紹介する。『Music for 3』からの「07:29:23 19.08.2025」や「07:42:03 19.08.2025」では、まず彼のお気に入りの「森の音」が流された。そしてその音に応答するようにピアノの旋律と電子音が編み込まれて行った。この曲中の「森の音」は、2023年の春、ドイツ・ブランデンブルクの湖畔で録音されたもので、鳥や虫のざわめき、樹々の気配、水の流れる音などが収められている。この演奏を聞いていると、深層心理の奥へと潜っていく感覚に包まれた。

一方、『Spazieren』からの曲では、ヘニングが好きな「散歩」で見た風景が、演奏を通して我々にも見えてくる。『Schnee』からの「Meine Hand und deine Hand」では、一面が雪景色になって、全てが浄化されたようにキラキラと輝く世界が広がった。この人は本当に情景描写が巧みだ、と感じた。彼のこうした感性は、間違いなく日本人の心性に合うのだと思う。だから実際に、日本には彼の熱心なファンが大勢いる。この日も、そうした人々が真摯に彼の音へ耳を傾けているのが、強く感じられた。
全体の感想として、シュミートの音楽は「ポスト・クラシカル」の枠を超えている。そこには、聴く者の想像力をかき立てる普遍的な美しさが表現されている。そこで鮮明に浮かび上がったのは、音を通じて自由を求める人間の精神の切実な渇望と、自然との共存を探求し続ける芸術家の姿だった。ヘニング・シュミートにとって、即興演奏は単なる技術の披露ではない。それは「言葉を超越した真実を表現するための言語」なのだ。社会主義下の東ドイツという不自由な時代に培われた彼の自由への渇望は、即興という形で現れる。すると、一聴して静かな彼の音楽の中に、人間味あふれる「血の温かさ」と、聴き手との「共鳴」が生まれる。そしてその側面がとりわけ、日本人の心に深く刺さっているのである。

【レーベルFlau:福園康彦氏との長い共同作業】
彼を早くから日本に紹介してきたのが、2006年末に設立された東京のレーベル『Flau』だ。このレーベルを主宰するのが、トラックメイカー『aus』名義で、世界からも高い評価を受けている福園康彦氏である。『Flau』は福園の一貫した独自の審美感によってエレクトロニカ、アンビエント、室内楽、フォークトロニカなど多岐にわたるジャンルのカタログを100作以上リリースしており、静寂や繊細な音を大切にするレーベルとして海外でも高い評価を得ている。

この『Flau』がヘニングの『Klavierraum』(ドイツ語で「ピアノの部屋」)をリリースしたのは2008年。つまり彼は十数年来、ヘニングの音楽に賭けてきたことになる。二人の関係は、『紹介者と紹介される側』、という枠を超えている。特に今回のツアーの福園氏の会場選びには感心した。今回のツアーでは、いわゆるコンサートホールをほとんど使っていない。東京初日の会場は、フランク・ロイド・ライトの弟子である遠藤新が設計した自由学園明日館。札幌は、イサム・ノグチが設計したモエレ沼公園。つくばはギャラリー兼カフェ、富山は黒部のセレネ美術館の展示室——。これらの建築や美術的にすぐれた価値がある空間が、ヘニングの音楽に呼応する「もう一つの楽器」として機能するように選ばれた。
特に、モエレ沼公園 ・ガラスのピラミッドでの公演は特別なもので、私もこれはとても見たかった。日本のデザイナーのミズシマナツコ、調香師の沙里とのプロジェクト「Drei 3」のために制作した、最新アルバム『Music for 3』。そのリリースを記念した公演であり、音・香り・キャンドルライトといった多彩な表現を融合させたものだった。これらの会場は、ヘニングの音楽を生かすには「最適の場」だと思う。彼の音楽が環境音やノイズを抱き込むものである以上、どんな空間で鳴らすかは演奏の一部だからだ。その意味で、福園氏の会場選定はブッキングというより、キュレーションと呼ぶべき見事な仕事である。今回の会場選定やセットリストに込めた意図を、ヘニングはこう語ってくれた。

ヘニング・シュミート(以下H.S.):今年のツアーのために3種類のセットリストを用意したが、それらは『Orange』アルバムを中心に構成されていた2025年のコンサートとはかなり異なっていました。東京での初公演は、主に『Spazieren』に焦点を当てたものでした。今年は同アルバムの発売15周年であり、Flauが『Spazieren』を初めてアナログ盤でリリースしたこともあり、その音楽を再訪するにはふさわしい機会だと感じました。モエレ沼でのセットリストは『Music for 3』に捧げられました。他のコンサートのほとんどは同様のプログラムでしたが、会場や状況に応じて若干のバリエーションがありました。

会場選びに関しては、福園さんは実に細やかな配慮を尽くしてくれます。彼は素晴らしいアーティストであり、非常に繊細なプロデューサーでもあります。こうした特別な建物が音楽にさらなる物語の層を加えてくれるので、彼の仕事には心から感謝しています。私は常に、音楽を通じて物語を語ろうと努めてきました。ある意味、私たちは皆、絶えず互いに物語を語り合っているのだと思います。それが、私たちがコミュニケーションを取り、つながり、互いに共鳴し合う方法なのです。
私の音楽も、場所によって毎回変化します。モエレ沼のような場所では、文字通り半分の音しか奏でませんでした。それは音響のせいだけでなく、イサムさんと彼の建築が語りかけるための余白を残したかったからです。一方、つくばでは、まさに「木漏れ日」の瞬間を体験しました。木々の間から差し込む光が、音楽をとても優しく自然に彩り、演奏そのものの一部となっていました。

【旧東ドイツ出身のピアニスト、その音楽的スタンス】
ヘニング・シュミートは、旧東ドイツ出身で、現在はベルリンを拠点とするピアニスト/作曲家だ。7歳からピアノのレッスンを受けている。ただ、本人いわく「音楽の魔法」を実感したのは14歳ごろで、それはキース・ジャレットとバッハからもたらされたという。ほかに、レイ・ハラカミやライル・メイズの影響も認めている。また、音楽が環境の中に存在することを意識したきっかけには、ブライアン・イーノの『Ambient 1: Music for Airports』を挙げる。こうしたラインナップを見れば、彼の音楽は確かに「ポスト・クラシカル」の系譜ではあるのだろう。ただ、彼がやってきたことはもっと幅広い。彼の音楽は、バッハの精密なポリフォニー、ショスタコーヴィチの調性、キース・ジャレットの即興演奏、さらにはエレクトロニック・ミュージック、ジャズ、ワールドミュージックなど、極めて多様な影響を受けて成立している。彼のプロとしての音楽活動は、1985年のジャズ・フォーメーション「College」に始まる。その後は「Fusion」やラテン・ジャズ・バンド「Bossa-Nostra」などで、シンセサイザーやピアノを演奏した。同時に、テクノロジーへの関心も強かった。当時は希少だったYamaha DX-7などのデジタルシンセサイザーを駆使し、ジャズとエレクトロニクスを融合させる先駆的な試みを行っていたのだ。

しかし、何よりも重要なこと——社会主義体制の東ドイツで育った彼には、自分の抑圧された心をピアノの自由な演奏を通して解放する「必要性」があったことだ。

音楽の源泉——音楽は「避難所」
では、ヘニングの音楽の源泉は、どこから来ているのか。一つは、彼が育った町にある。エルツ山地のシュレマ(Schlema)という小さな町だ。ここには、巨大なオルガンを備えた教会があった。子どもたちの巡回聖歌隊「クレンデ(Kurrende)」やトロンボーン合奏団といった地域の伝統も、彼の耳を育てた。しかし、重要なのは、そこは当時の社会主義体制下の東ドイツの街であった。ヘニングの父親は、西ドイツから東ドイツへ布教のために移住した牧師だった。無神論を掲げる社会主義体制下で牧師の息子として育つことは、常に当局との「衝突」を意味していた。当時の東ドイツでは、人々は思うことを自由に話すことも、演奏することもできなかった。その不自由の中で、音楽は彼にとって、自分を落ち着かせ、調和を取り戻すための「避難所」だった。彼の音楽の静けさの根底にある「芯の強さ」は、ここに根を持っている。

H.S.:私の家族の多くは西ドイツの向こう側に住んでいました。彼らに会いに行くことは不可能で、手紙を書くことさえも困難でした。電話をかけるには、何時間も前に予約をしなければならないこともありました。ベルリンの壁が崩壊する数年前、私は壁のすぐそばに住んでいました。毎日、武装した兵士たちが見張る姿を目にしました。彼らは、ただ家族のもとへ行こうとする人々に向かって発砲することさえあったのです。だからこそ、私の音楽には調和的な要素が多く含まれているのかもしれません。私は、音楽には壁を越え、人々の間に調和をもたらす力があると信じています。(出典:https://atsea.day/blogs/journal/interview-henningschmiedt-02)

【検閲への抵抗】
ヘニングは過去のインタビューで、言葉による表現が厳しく制限・検閲されていた時代において、歌詞のない音楽、とりわけその場で紡がれる即興演奏は、当局の監視を受けにくい「秘密のコード(暗号)」のようなものだった、当時の東ベルリンでフリージャズが世界をリードするほどの人気を博していたのは偶然ではなく、人々の「自由を求める切実な飢え」があったからだと述べている。当時、言葉(歌詞)を伴う表現は厳しい検閲の対象であったが、「言葉を必要としない音楽」、特に即興演奏は当局がコントロールしにくいものであった。ヘニングにとっても即興演奏は、決められたルールから解き放たれ、自分の感情を爆発させ、その瞬間の自由を享受できる手段であった。彼の音楽的アイデンティティにおいて、ジャズ・インプロヴィゼーション(即興演奏)は、単なる演奏スタイルを超え、「自由の象徴」であり「自己対話の手段」という、極めて重要な役割を果たしているのだ。
さらに、ジャズの世界は彼に「西側の世界にに触れる」という特権的な経験をもたらすものでもあった。1987年、ヘニングはベルギーのブリュッセルで、国際フェスティバルの賞を獲得する。これにより、奇跡的に諜報機関の承認を得て、海外旅行ができるようになったのだ。この頃の彼は、(80年代の)マイルス・デイヴィス・バンドやラウンジ・リザーズのようなスタイルで、主にシンセサイザーを弾いていた。

【ドイツ・リートの歌心の世界】
彼は過去の日本のインタビューで、バッハからの強い影響を語っていた。しかし、私は彼のライブを見た後、アルバムをじっくり聞いて感じたことがある。彼の「心の声」の最も根底にあるのは、シューベルトやシューマンの「ドイツ・リート」の世界ではないか、ということだ。だから私は、ヘニング本人にも確認をした。

筆者(以下M.U.):私はあなたの今までの作品の美しいメロディと情景描写の巧みさの中に、シューベルトなどのドイツリートのピアノパートの影響が深い部分にあるように感じました。幼少期に、そういう音楽に無意識に触れ合う機会がありませんでしたか?作曲家にとって、バッハの影響は計り知れないと思います。これはキース・ジャレット、ライル・メイズ、坂本龍一、ドミニク・ミラーにも当てはまります。しかし、あなたのライブ演奏を見たとき、「演奏者自身の声に最も近いメロディー」は、バッハよりも彼らの音楽に近いと感じました。

H.S.:7歳の頃からピアノのレッスンを受け始めましたが、音楽の魔法を心から実感したのは、ずっと後の14歳頃になってからでした。ご指摘の通り、私はロマン派の作曲家たちによる特定の伝統から強い影響を受けています。とりわけ、「歌曲の王」フランツ・シューベルトの存在は大きいです。彼からの影響は計り知れません。今でも、私は自分の器楽作品を歌曲のように捉えています。作曲や演奏の際は常に心の中で歌っており、コンサート中にこっそりと口ずさんでしまうことさえあります。(筆者注:実際、渋谷の公演でも彼は口ずさんでいた。)シューベルトは、私の音楽に多大な影響を与えたミキス・テオドラキスにとっても、ヒーローのような存在でした。
もう一つの重要な影響は、私の故郷からわずか数キロの場所で生まれたロベルト・シューマンです。シューマンは、作曲家としてほぼ独学で学んだと自認していましたが、並外れた旋律の才能を持っていました。私は日本の童謡『赤とんぼ』を初めて聴いた時、妙に親しみを感じました。シューマンの『序奏と協奏的アレグロ(作品134)』には、この曲と驚くほどよく似た旋律があるのです。そのつながりは私の心に残り、後に2011年3月11日の東日本大震災の犠牲者に捧げる作品『Libelle Stille Andacht』(日本語で「トンボの静かな祈り」。アルバム『Spazieren』に収録)のインスピレーションの源として、『赤とんぼ』を選びました。

【日本への、静かで深い理解】
しかしながら、ヘニングの日本文化への理解は、『赤とんぼ』だけの表面的なジャポニスムとは別物だ。実際、彼はFlau、福園氏意外にも日本人との多くの共同作業があるせいか、過去のインタビューを読んでも、本当に深く日本文化を理解している事がわかる。日本のミニマリズム、そして不完全なもの・朽ちていくものの美しさ(わびさび)、さらに「間」という概念に強く影響を受けているのだ。また、禅の鈴木大拙の影響も受けているという。

【ポストクラシカル、坂本龍一との接点】
2004年、最初に「ポスト・クラシカル」という言葉を使ったのは、マックス・リヒターだ。でも、その名前がつけられる前、坂本龍一が1998年に発表したアルバム『BTTB』が、ポスト・クラシカルの原点とも言われる。私は『Music for 3』で見せたヘニングの自然音への向き合い方から、坂本の『Out Of Noise』(2009年)、そして晩年の集大成である『async』(2017年)を想起した。私の坂本に対する評価は「世界中に存在するありとあらゆる音を注意深い好奇心で聞こうとし、それをできるだけ音楽へ昇華させようとした人」である。この姿勢が、ヘニングと共通すると感じた。

ヘニングには、コロナによるパンデミック期間中に制作した『Piano Diary』(2021年)というアルバムがある。ここで彼は、録り直しを一切しない「一発録り」——インスタント・コンポージングを選んだ。ここではアルゴリズムに最適化された定型のループとは正反対で、その瞬間の判断と呼吸だけが残る。自宅に篭らざるを得ない状況を、彼はそういう手法で「日記」として制作したのだ。さらに彼は、アナログ機材が生む小さな揺らぎを「Kleiner Fehler (小さなエラー)」と呼んで歓迎した。フィルムカメラの粒子のように、そこにも生命が宿るからだ。それゆえ、リビングルームで録音したこの作品には、窓の外を通る車の音や鳥の声がそのまま入っている。雑音を消すのではなく、その瞬間の物語の一部として迎え入れるのだ。
この、即興で作曲・録音し続けた「音の日記」『Piano Diary』の試みは、偶然にも同時期の坂本龍一の試みと重なる。坂本は最後の大手術のあと、自宅で闘病を続ける自らを癒す意図で2021年から日々の音楽を制作し続けた。それをまとめたのが、彼の生前最後の作品となった『12』(2023年)である。そこで私は、坂本龍一をヘニングがどう捉えているかも聞いてみた。

H.S.:坂本龍一は音楽界における巨匠であり、類まれな多才さと影響力を兼ね備えたアーティストでした。彼は卓越した音楽性と遊び心あふれる好奇心を融合させつつ、妥協のない卓越性の追求を貫きました。革新的かつ緻密な創造的アプローチを通じて、常に新たな基準を打ち立ててきました。私は特に、『Thousand Knives (千のナイフ)』( 1978年)のような初期の実験的な作品や、ドイツの同胞であるアルヴァ・ノトとの後のコラボレーション作品に強く惹かれました。ドキュメンタリー『Ryuichi Sakamoto: Coda』も、私に深い印象を残しました。
今年、私は初めて北海道を訪れました。幸運なことに、札幌の芸術の森スタジオで、ausと福園氏と共に、新しいHAUプロジェクト(注:ヘニングと福園氏のユニット)のレコーディングを行うことができたのです。そこは、坂本氏が『UTAU』を録音したのと同じスタジオでした。その空間には、歴史の重みがひしひしと伝わってきました。まさに、私たちは巨人の肩の上に立っているのだと実感できました。



【ミキス・テオドラキスの意思を継ぐ——東ドイツという補助線】

ヘニングの音楽を語るうえで外せないのが、ミキス・テオドラキスとの仕事だ。ミキスは、ギリシャを代表する20世紀最大の作曲家である。作家、政治家でもあり、国民的英雄として崇められてきた人物だ。第二次世界大戦中の抵抗運動や、独裁政権への政治的抗争でも知られる。パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンやピエール・ブーレーズといった巨匠に作曲と指揮を師事した後、ギリシャ民謡やビザンチン音階を融合させた独自の音楽を確立した。代表曲には、ギリシャの民族音楽を下敷きにした、世界的に有名な映画音楽、アンソニー・クイン主演『その男ゾルバ (アレクシス・ゾルバ)』や、アル・パチーノ主演『セルピコ』などがある。

ミキスの生涯は、常に抵抗と隣り合わせだった。1967年のギリシャで起きた軍事クーデターにより、彼は逮捕・投獄され、彼の作品の演奏も所持も発禁になった。しかし、ショスタコーヴィチやレナード・バーンスタイン、アーサー・ミラーらが、彼の解放を求める国際的な連帯運動を展開する。こうしてミキスはパリへ亡命した。1974年に独裁政権が崩壊すると、彼は英雄として、熱狂的な歓迎の中でギリシャに帰還する。その後は大臣なども務め、ギリシャの政治と文化の発展に大きく貢献した。この上記のギリシャ軍事政権下のテオドラキス釈放運動の中心になったのは、ほかならぬ東ドイツだった。ギリシャでは第二次世界大戦後から1949年にかけて、激しい内戦が勃発する。この戦いに敗れた左派パルチザン約6万人が、近隣の社会主義国に亡命した。東ドイツ・ドレスデンなどには、1950年頃から約600人のギリシャ人亡命者が暮らしており、学校でのギリシャ語教育やギリシャ祭が行われるなど、ギリシャの文化がそこで維持されていたのである。

そしてここで、「旧東ドイツ」がもう一つの重要な「鍵」になる。ミキスとヘニングの出会いは、ベルリンの壁崩壊直後の1990年、東ベルリンの録音スタジオだった。当時、ミキスはアルバム『Theodorakis Sings Theodorakis』(1991年)のレコーディングを行っていた。ヘニングは友人から「セッション・ピアニストとして手伝ってほしい」と頼まれ、スタジオへ足を運んだのだ。熟練した指揮者であるミキスは、歌っているときにも指揮をする習慣があった。そのため、ヘニングによると、彼と一緒に演奏するのは「とても自然で簡単だった」という。この出会いから3ヶ月後、ヘニングのもとにミキスから直接電話があり、彼はヨーロッパ・ツアーのピアニストとして招聘されたのだ。これが、30年以上にわたる2人の深い芸術的協力関係の始まりとなった。

ミキスの側近であり、プロデューサーでもあるアステリス・クトゥラスという人物がいる。ギリシャ人亡命者の息子としてルーマニアで生まれ、東ドイツのドレスデンで育った人だ。彼は1985年から1996年にかけて、ミキスの自宅にあるアーカイブから、それまで「忘れ去られていた作品」を発見した。これらの未発表曲のほとんどは1940年代初頭に作られたもので、スケッチから完成曲まで、さまざまな段階のものだったという。2007年、クトゥラスはこの手書きの楽譜をヘニングに見せ、「これを何とかできないか」と相談した。
そして2009年、ヘニングはミキス本人の前で、ピアノソロに編曲したこの未発表曲を自ら演奏した。ミキスは、いくつかの曲は覚えていたが、ほかは記憶になかったという。それでも彼は注意深く耳を傾け、コメントやヒントを添えてくれた。その助言は、最終的にアルバムへ反映され、これにより、本作は作曲家本人の「承認」を得た2人の共同作業として、ミキスの死後、生誕100周年に合わせて世に出ることになった。ちなみにこの『Lost Songs』は、ミキス自身が歌うシューベルトの『菩提樹(The Linden Tree)』で幕を閉じる。

【ミキス・テオドラキスとドミニク・ミラー。「歌こそが王様」】
最後に、ヘニングとドミニク・ミラーとの邂逅について触れたい。ドミニクは、この『Lost Songs』の3曲目で、シングルカットされた「If you seek joy from the sun」に参加している。そのいきさつを、ヘニングに聞いた。

H.S.:ミキス・テオドラキスの未発表の最後の楽曲を収録した『Lost Songs』のレコーディング中、レーベル「Intuition」(注1)の代表であるステファン・グロス(Stefan Groß)と、ゲスト・ミュージシャンについて話し合いました。その時点では、すべての楽曲をピアノソロ用に編曲していました。シューベルトの『The linden tree』を私のアーカイブから使用し、すでにミキス本人が参加している曲は1曲ありましたが、それでもまだ何かが足りないと感じていました。
当時、ステファンはドミニク・ミラーと精力的にツアーを行っていました。私はかねてより、ドミニクの魂がこもった、情熱的でミニマルな演奏に感銘を受けていました。彼の音色は常に私の心を深く揺さぶってきました。追加のゲストを招く予算がないことはわかっていましたが、どうしてもステファンに、特定の1曲にドミニクを参加させることはできないかと尋ねずにはいられませんでした。興味深いことに、私は実際に彼と連絡が取れるとは夢にも思わずに、ドミニクのサウンドをイメージしてその曲をアレンジしていたのです。そして『If You Seek Joy from the Sun』のピアノトラックを彼に送ったところ、ステファンからすぐに「ドミニクはこの曲をとても気に入った」という返信が届きました。ドミニクはホテルの部屋で 、(確かストックホルムだったと思います。) 自分のパートを録音しました。私が彼に会えたのは、その後ベルリンでのツアー公演の際のことでした。そこでようやく、直接お礼を言う機会を得ることができました。
(注1:ヘニングは上記のドイツのレーベル「Intuition」にも所属している。このレーベルは、ヴェラ・ブランデス(Vera Brandes)がケルンで立ち上げたものだ。ヴェラ・ブランデスは、キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』(1975年)を企画した人物であり、映画『1975年のケルン・コンサート(原題:KÖLN 75)』の主人公でもある。現在、このレーベル・マネージャーであるステファン・グロスは、ドミニク・ミラーのマネージャーでもある。)

M.U.:ミキスは音楽制作に関して、「メロディーや歌詞への変更は絶対に許さないが、それ以外は一切制限がなかった」と語っていたようですね?ドミニクも常に「The Song is King (歌こそが王様)」と言っているため、そこには確かな共通点があると感じました。

H.S.:ミキス自身は驚くほど寛大で、新鮮な視点や異なるアプローチ、新しい編曲にも常にオープンな姿勢を示していました。私たちが共同作業をしていた際、彼は私にこう言いました。「何でも変えていいが、メロディーと歌詞だけは残さなければならない。」西洋クラシック音楽の世界では、これはかなり異例な姿勢です。その伝統は基本的にポリフォニックであり、和声や対位法が極めて重視されます。しかし、ミキスは異なる音楽的源流から来ていました。すなわち、ギリシャの民謡、東洋の伝統、そして古代ビザンツの音階の世界です。そのため彼は、自身の音楽の真髄が「メロス」、すなわちメロディーそのものにあることを理解していたのです。
ミキスとドミニクの間には共通点がある、という意見には同意します。二人とも、音楽の流れに身を委ねている。結局のところ、それは姿勢の問題です。「曲が王様だ」と言うとき、私が意味するのは、まず耳を傾けなければならない、ということです。そして、注意深く聴かなければなりません。音楽は、私たちのエゴを乗せるための乗り物であってはなりません。私たちの役割は、楽曲の本質を見極め、その自然な流れと質を支えることにあるのです。

2026年5月20日、渋谷WWWで彼のピアノと向き合いながら、私が感じたもの——ヘニングが過ごしてきた「不自由な時間」は、平和な時代を過ごしてきた日本人には、決して想像できないものだ。静かで耳に心地よい優しい癒しを届けるヘニングの音楽。しかしその奥底には「自由」を自ら勝ち取ってきた人間の強さと、その喜びに溢れていた。私は彼の演奏から「苦難を乗り越えて真っ直ぐ力強く、信念を持って生きる人間だけが持つパワー」を確実に受け取った。

浮田 美奈子

クラシック音楽教師の家庭に育った一級建築士。自身も2歳半からピアノとフルートを学ぶ。同時に13歳で洋楽ロックやJAZZにも傾倒し、バンド活動を行う。JAZZとECMとの出会いはキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」。 どんな音楽ジャンルも問わずに聴くが、基本的に実際に会場で聞かなければ真価は解らないと思っている。現在ドミニク・ミラー本人の承認の元、Dominic Miller_Fan Page JAPANを運営。https://dominicmillerjapanfan.com

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください