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Concerts/Live Shows特集『JAZZ ART せんがわ』特集『ピーター・エヴァンス』No. 246

#1033 Cross Review:ピーター・エヴァンス@Jazz Art せんがわ2018  

text by 齋藤聡 Akira Saito、定淳志 Joe Atsushi、剛田武 Takeshi Goda

photos by 齋藤聡 Akira Saito

 

第11回 JAZZ ARTせんがわ 2018

調布市 せんがわ劇場

9月15日(土)16:30-18:00 坂本弘道ディレクション
ピーター・エヴァンス×石川高×今西紅雪/千野秀一/坂本弘道

ピーター・エヴァンス Peter Evans(トランペット)、石川高(笙)、今西紅雪(箏)、千野秀一(ピアノ/Urklavier)、坂本弘道(チェロ)

9月16日(日)19:30-21:00  藤原清登ディレクション
坂田明×ピーター・エヴァンス×藤原清登×レジー・ニコルソン×藤山裕子

坂田明(サックス)、ピーター・エヴァンス Peter Evans(トランペット)、藤原清登(ベース)、レジー・ニコルソン Reggie Nicholson(ドラム)、藤山裕子(ピアノ)


3ヶ月に亘って特集してきたトランペット奏者ピーター・エヴァンスの初来日公演「JAZZ ART せんがわ2018」でのステージを3人のコントリビューターがクロス・レビュー。それぞれ異なる視点から注目のライヴ・パフォーマンスを分析する。


エヴァンスの技術のショーケースは、逃げ場のない完全ソロ演奏(9/16)で披露された。ハーフバルブやミュートや声による微妙な音色のコントロールだけではない。ピストンをストッパーのように使い楽器内での激しい衝突や破裂を生み出し、また、マイクをも楽器の一部とした。ただしそれは機械的な陳列などではなく、常に有機的に技術をつなぎあわせ、また次を目指すものに聴こえた。

ここまで強靭であっても、共演者によってエヴァンスのプレイは柔軟に変貌する。2日間のそれぞれのギグは、エヴァンスだけを取ってみても、まったくの別物となった。

直前のピアノソロにおいて衒いなく複数性を足し合わせる美学を強烈に示した千野秀一は、そのスタイルによって、エヴァンス、坂本弘道との共演に向かい合った(9/15)。しかし、ここでのエヴァンスの放出するエネルギーはあまりにも大きく、勝手が違ったのかもしれない。サウンド全体は、明らかに、エヴァンスにより牽引されたのだった。彼らは収束と発散を繰り返し、倍音、重音、ノイズを衝突させた。エヴァンスは野性的なダッシュ力をためらいなく発揮しつつ、ミュートやマウスピースを着脱して実に幅広い音を轟かせた。坂本は、苛烈なサウンドの中においても、チェロならではの撫でる音を効果的に介入させ、また、チェロをギターのように使うなど多彩な表現をみせた。

藤山、藤原、ニコルソン、坂田とのクインテットは、いわゆるフリージャズスタイル(9/16)。ここで極めて独自的な世界を垣間見せてくれたのは藤山のピアノとヴォイスである。ピアノトリオでは谷川俊太郎の詩「くりかえす」をモチーフに、ユーモラスでも抒情的でもあるサウンドを形作った。そしてエヴァンスらが入り、藤山のトリルに応じてエヴァンスもトリルで応じる瞬間などは最高の呼応だった。藤原のベースは柔らかくも強くもあり、速度のあるピチカートのみで背景から前景へと出る。トランペットとピアノとのデュオの時間があって、そこに藤原のベースが割って入り、それを契機として全員がフルスロットルで駈ける展開は、フリージャズの醍醐味であったと言えるだろう。

だが、来日までに聴いてきたエヴァンスのサウンドと異なったのは、石川と今西の和楽器奏者ふたりとのトリオである(9/15)。石川の笙はオルガンやキーボードのように響き、サウンド全体をいつの間にか持ち上げている。今西の箏は澄んだ撥音で随所に介入するうえに、数個の小道具を弦に挟んで自重で音を発するなどの幅広さをみせた。そしてエヴァンスのトランペットは、マシンガンのように激しい領域、動物の声の擬態領域、また、今西、石川とともに醸し出す静謐で透明性の高い領域までを落ち着いて行き来した。筆者にとって、この2日間のエヴァンスのベストギグはこれである。(齊藤聡)


待望のピーター・エヴァンス初来日ツアーは、彼がとりわけ楽しみにしていたという和楽器とのセッションから始まった。特に石川高とは過去に共演し、「天から差しこむ光」を表す音色とされ電子音響にも通じる深遠な笙の響きに、並々ならぬ関心があったのだろう。セッションでエヴァンスは、あらかじめ用意していたのかどうか、笙とシンクロするかのように操作された微弱な音から演奏を出発させた。繊細な音場の中を、今西紅雪は時に琴柱をずらし弦にオブジェを挟み、弓やスティックも駆使しながら彩りを添え、エヴァンスも微細なノイズを散りばめた。弱音の中、エヴァンスが渾身の力を込めるように鬼気迫る表情でトランペットを操っていたのが印象深い。彼の顔に刻まれた皴は、照明のかげんで、歌舞伎の隈取りのようにも見えた。

千野秀一の耽美的ピアノソロを挟み、その千野と坂本弘道を迎えたトリオによるセットでは、一転して、攻撃的なエヴァンスが現れた。演奏中に起こったトラブルのせいか、極めて殺気に満ちた音の遣り取りとなったが、Urklavierで暴虐を尽くす千野、小道具を用いて異音を取り出す坂本のチェロ、2人の両サイドからの凶器(狂気)攻撃に対し、エヴァンスは中央に立ち、圧倒的なテクニックと強靭な意志で受け止め切った。

2日目は、ぜひこの目で見てみたいと願っていた完全ソロからスタート。漆黒のステージの上、スポットライトに照らし出されたエヴァンスは、膝を軽く折り、上半身はやや前傾、その立ち姿はどこか古代英雄像を思わせる。演奏は、このツアーで先行販売されたソロアルバム『The Veil』からの選曲だったようだ。多彩な技術を惜しげなく披露したソロ演奏にあって、最も興味深かったのはマイクの使い方であった。わたしのような素人はこの機材をどうしても「拡声器」と認識したがるが、彼はこれを本来の、空気振動を電気信号に変える装置、として扱った。トランペットのベルから発せられる楽器本来の音以外にも、声、ブレス音、リップ音、バルブ操作音、管の振動をも余すことなく「音」に変換し、それらを全て、山あり谷ありお花畑も灼熱地獄も渋滞も仙境もある豊かな「音楽」として提示し続けたのだった。また、楽器そのものをエフェクターとして駆使する彼は、かつて細田成嗣がエヴァン・パーカーを「電子音楽家」といみじくも指摘した(別冊ele-king 第8号)のと同じ意味で、電子音楽家なのだともいえよう。(エヴァンスの初めてのソロリーダー作が、パーカーの運営する「psi」から発売されたのは必然であったにちがいない)

藤山裕子とレジー・ニコルソンの滋味深いデュオを挟んだ後は、2人がステージに残りつつも、坂田明、藤原清登とのトリオ演奏が始まった。やがて観客全員の予想と違わずクインテットとなり、こうなったら理屈はいらない。無上のフリージャズである。70年代山下洋輔トリオのファンだというエヴァンスが、坂田のプレイに時折うれしそうにニヤリとするのが微笑ましい。藤山も笑顔で鍵盤を叩き、坂田が持ち出した鈴に大笑い。藤原のベースは唸りを上げ、ニコルソンはそれしかないというドラミングでひたすら音楽を持ち上げ続ける。何段階あるのか、際限なくギアを上げ続ける5人は、まるで誰が一番音数が多いか競争をしているかのようだ。操作するキーが3つしかないエヴァンスが飛ばしまくる。その圧倒的スピードの中にあって、一音一音の粒立ち、ニュアンス、丁重さ、行き届き加減がやっぱり信じがたい。

これまで彼のアルバムを何十枚も聴いてきたし、動画サイトで何度もその姿に接してきたけれど、ライブで触れたエヴァンスはやはり格別だった。(定淳志)


個人的には、Jazz Artせんがわ2018で出会った演奏で最も印象に残ったのは、最終日9月16日(日)16時頃仙川中央公園で経験したドラム演奏だった。前日の雨が上がり陽が射す穏やかな日曜日、家族連れの姿も多い公園では恒例のジャズ屏風が開催されていた。丁度演奏が終わり襖が開いた屏風の中を覗き込んでいると、背後から不思議なドラムの音が聴こえてきた。まるで大粒の雨がスネアやタムをパラパラ叩き、時折暴風がシンバルを震わせ、突然バスドラの連打が地響きのように鳴り響く。一体どんな豪腕ドラマーの仕業か、と思って振り向くと、多数の子供たちがスティックやバチを手にドラムセットに群がって好き勝手に叩いていた。音の正体が分かっても、演奏の面白さは変わらない。寧ろ取り憑かれたように一心不乱にシンバルを叩く3歳くらいの少年の真剣な表情に、音楽の魔法に魅入られた無垢の才能を感じて霊感に撃たれた。やがて公園に居た“おとな”の演奏家たちが、バリトンサックスやトロンボーン、ウッドベースやピアニカを手に子供たちのドラムとセッションを始めた。彼らが分かり易いリズムのリフを奏でると、それまでバラバラだった子供たちが、リズムに合わせて叩き出した。その時、それまで叩くことに没入していた少年が、親の方を振り向いて微笑んだのである。その瞬間、音楽の魔法が解けてしまったことを知った。無為自然だった彼の演奏が、一瞬で「他人に合わせる」という社会性、つまり因習に染められて、他人を意識し始めたのである。もちろん学習とは社会性を身につけて世渡りを真似ぶ習い事だから、人としての成長に於いては避けられない。それは理解しているが、というより理解しているからこそ、因習に支配されない、つまり既存の音楽語法に依らない(デレク・ベイリー流に言えば「ノンイディオマティック」、灰野敬二の言を借りれば「なぞらない」)演奏こそ、インプロヴィゼーションの理想形とするのが筆者の信念である。一度失った無垢の魂を、学習により多数のイディオムを身につけた後で取り戻すことが出来るかが、筆者が演奏者に期待する命題なのである。

ピーター・エヴァンスは生涯の大部分を楽器演奏と音楽理論の学習に費やし、一般の演奏家よりも遥かに多くの音楽語法と技術を身につけたトランペッターである。そんな彼がNY地下音楽シーンの首領(ドン)のひとりであるドラマー、ウィーゼル・ウォルターと共作した2018年のアルバム『POISONOUS(有毒)』には、自らが培ってきたセオリーやテクニックを解体して、聴かれたことのない未踏のサウンドを産み出そうとする強い意志を感じた。そのスピリットをこの目で確かめようと興味を抱いてせんがわ劇場の初来日公演へ赴いた。

9月15日、邦楽器の石川高と今西紅雪とのドローン・アンビエント・セッションで、微弱音長時間演奏に挑戦するアスリート魂を見せ、千野修一と坂本弘道の挑発的なアングリー精神には、持ち前のいい人キャラを封印し、敢えてクールにいなすツンデレ味を発揮。翌9月16日のベテラン・ジャズメン坂田明と藤原清登とのトリオ、更にレジ-・ニコルソンと藤山裕子を加えたクインテットでは、先輩を引き立てながらも独特のプレイを炸裂させ、打たれることなく“出る杭”ぶりを見せつけた。先立つ単独ソロ演奏では、トランペットを吹くだけでなく、唇で咥え、舌打ちし、嘆息を漏らし、バルブを押し込み、指で撫で回すなど、あたかもラヴアフェアのような濃厚な触れ合いを、衆人環視の中で披露した。その瞳は、親や友達など周囲の目を気にせずに、ひたすらドラムを叩く喜びに没入していた少年の真剣な眼差しと同じだった。少年がこれから学習を重ねてどんなおとなに成長するかはわからないが、いつか機会があったら、同じ時に同じ場所で同じ意識を共有したピーター・エヴァンスという豪腕インプロヴァイザ―の演奏を聴かせてやりたいと願っている。(剛田武)


執筆者(50音順)

剛田 武 Takeshi Goda
1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。会社勤務の傍ら、「地下ブロガー」として活動する。近刊『地下音楽への招待』(ロフトブックス)。 ブログ「A Challenge To Fate

齊藤 聡 Akira Saito
環境・エネルギー問題と海外事業のコンサルタント。著書に『新しい排出権』など。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

定 淳志 Atsushi Joe
1973年生。北海道在住。執筆協力に「聴いたら危険!ジャズ入門/田中啓文」(アスキー新書、2012年)。普段はすこぶるどうでもいい会社員。なお苗字は本来訓読みだが、ジャズ界隈では「音読み」になる。ブログ http://outwardbound. hatenablog.com/

 

剛田武

剛田 武 Takeshi Goda 1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。サラリーマンの傍ら「地下ブロガー」として活動する。著書『地下音楽への招待』(ロフトブックス)。ブログ「A Challenge To Fate」、DJイベント「盤魔殿」主宰、即興アンビエントユニット「MOGRE MOGRU」&フリージャズバンド「Cannonball Explosion Ensemble」メンバー。

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