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Concerts/Live ShowsNo. 247

#1040 『ユーラシアンオペラ・プロジェクト・イン・盛岡』

text by Yoshiaki Onnyk Kinno  金野Onnyk吉晃

 

2018年10月4日岩手県盛岡市 もりおか町家物語館 浜藤ホール

サインホ・ナムチラク(ヴォーカル)
河崎純(コントラバス)
三浦宏予(ダンス)
三木聖香(民謡)

 

「メドウ無きステップの、トライブ無きシャーマン〜野惑(ノマド)としてのサインホ・ナムチラク」

<Ⅰ.どこにでもあると言えばある土蔵の話>

浜藤は「はまとう」と読むのである。これは既に廃業した盛岡の造り酒屋の屋号であった。この酒屋の大きな倉が、北上川沿いに幾つかあり、これが保存されて「もりおか町家物語館」となってNPOの運営にまかされ、盛岡市の明治から現在までの歴史を垣間みたり、この辺の産品を販売したり、喫茶室、展示スペースがあり、また古い商家の構造も見学できる。その併設施設として「浜藤ホール」がある。
しかし、どちらかというと演劇会場を念頭に置いたような作りで、PAが十分であるとはいえない。それでも響きはいいので、生楽器のライブには良いと思っていた。
今回、ここを管理するNPO法人の援助を得られたのは望外の幸運だった。
声や弦楽器の生の響きを、ストレートにオーディエンスの知覚、認識、意識に浸透させるのにはこうした空間こそが相応しい。

<Ⅱ.音楽詩劇研究所とユーラシアンオペラ>

河崎純からメールが届いたのは6月の初めだった。「現在、『ユーラシアンオペラ』という企画を9月下旬に東京で公演する準備を進めている。4人の女性歌手、音楽家を招聘しているが、できればその1人、サインホ・ナムチラクを連れて遠野、八戸、盛岡を回り、各地の芸能や地元の信仰などと触れ合わせたい。同行者としては遠野出身のダンサーもいる」という内容だった。そして私への申し出は「もし、その旅の途中で盛岡でライブができるなら嬉しい」という極めて控えめなものだった。
河崎と私は、既に2枚のアルバムで共演し、何度かツアーもし、私にとっては最も信頼できる音楽家の1人である。盛岡にも彼の友人は多い。その彼の依頼であり、彼のライフワークである「音楽詩劇研究所」の活動を断る理由は無い。
実は、私にとってこの時点までサインホは苦手なタイプのミュージシャンだった。何枚かのFMP関連のアルバムを聴いたが、共感できる所がなかったというのが正直な感想だった。
其の意味で、河崎の申し出に私は躊躇した。しかし河崎の語るエピソードを聞いて、これは何か大きな転機が訪れるという予感がしたのである。河崎の話を要約するとこうだ。
「LEOレコード関連で、僕がイルクーツクでの音楽祭で演奏したときに彼女も呼ばれていたのです。そこで彼女が、僕と一緒に行きたい所があると言ってきた。そこは日本人が第二大戦後に抑留され、強制労働で多くが亡くなった、特別案内が出ているような場所ではなく、遺骨の帰還問題で、ロシア人か日本人の手によって土や石が掘り返されており、慰霊塔だけが残っていました。そしてそこで彼女は鎮魂のための儀式というか、パフォーマンスを始めた。僕もそれにつきあったのです。で、この人は違うなと感じた。日本に呼ぶことを僕はそのときまで考えていなかったのですが、この関係を発展させることを誓い合い、今回それが実現したんですよ」

<Ⅲ.ローカルなオーガナイザーの、よくある話>

私はそれから企画書を作り、なんらかの支援依頼を織り込んで、大学や文化施設などに送った。また河崎にはサインホ、河崎のソロや共演の映像、研究所の上演動画などを送ってもらい、それを編集したDVDを見せて廻った。
そして「いわてアートサポートセンター」が、会場と当日運営のスタッフを支援すると答えてくれたのである。
上演は10月4日と決まった。
すでに7月に入っており、急遽盛岡公演の準備を開始した。具体的にはチケットとチラシをデザイン、印刷して送ってもらった。NPOからは「八月一日までに広報の準備をしてもらわないと色々滞る」といわれた。彼らがプレイガイドへのチケット手配、関係公共施設へのチラシ配布、広報への記事掲載も手配してくれるというから、その要望に添うべく大車輪の作業だった。
またSNSでの発進力に長けた3、4人にライブ情報の拡散を依頼し、私自身は行きつけの店舗へのチラシ配り、メールやDMで知人へ来場を呼びかけた。
盛岡は人口約30万の中規模な都市である。南部公が居城を構え、江戸時代、一度も国替えをされたことがないものの、藩としては生産力は低く、戊辰戦争では賊軍の一部として制裁を受けてきた。維新後、岩手県の県庁所在地となり今に至る。地元の気質としては保守的であり安定した様式の芸術を尊ぶ風がある。
私の企画するようなものでは、多くて30〜40人、この数年平均すれば15人も入ればいいほうだった。
会場のキャパシティは約80人。料金設定もあまり高くは出来ないから、実は有料で満席になっても赤字は必至。いかに出血を減らすかが勝負だったとも言える。

<Ⅳ.ようこそ盛岡へ>

公演一週間まえになり、予約や売り上げをチェックすると、50人を超えそうだと分かり、なんとか面子が保てるかと安堵した。
東京での、六本木スーパーデラックスでの上演日、台風の影響で首都圏JRは運休。二回公演がどうなったのか心配だった。
一行は10月3日に盛岡入りして会場を下見という予定。しかし2日になっても一行の正確な人数が分からない。結局サインホの孫を含む一行が6人とわかったのは東京を出発してから、車中から河崎が電話で伝えてきたのである。
私は、当初の河崎の目論見である「北東北の芸能と信仰」という課題を、上演に活かすべきだと考えて、なんとか会場下見までに県立博物館または美術館を見せたいと思っていた。丁度博物館では「祈りにみる動物たち」という企画展をやっていたのである。
しかし結局、到着時間の関係でそれは無理だと分かった。私は一行をまずホテルに入れると、そこから歩いて十分もしないところにある旧盛岡城跡の公園に連れて行く事にした。その入り口には南部家の末裔が宮司を勤める桜山神社もある。これが結果的には実に良い効果を齎(もたら)したと思う。
サインホは、まだ日本の神社仏閣をゆっくりと見た事がなかったのかもしれない。だから鳥居も、あまり加工されていない自然石製の水場も、神社拝殿も、見るもの全てが新鮮だったようだ。彼女の参拝は、五体投地するのではないかと思う程真摯だった。そして注連縄(しめなわ)を巻いた神木や、ご神体と言われる巨石にもまた驚き、それらに触れ、額をすりつけて何事かを感じ取っている。
城跡に登り、標高2038メートル、整ったコニーデ火山の岩手山が見えると、またそれに深々と礼拝する。公園内の桜並木に来た時、今まで私は何十年も見てきて気にも留めなかった古木の瘤(こぶ)を見て彼女は大いに感じたらしく、それに触れまた額づく。
見えはしなかったが、丁度、鮭が産卵のため遡上している川の縁を歩いてホテルに戻った
博物館に行けなかった代わりの時間つぶしと思ってした小さな観光が、実は彼女が一番欲していたものを与えた。それは天然自然の事物と信仰の場所、これだったのだ。
河崎は事前に「岩手にいけば、田舎の風景や自然が見られると思うので」と書いてきたが、盛岡に居てそういうことはあまり感じないで生きている。だから「そんなにド田舎でもないですよ」と返信しておいたが、いや、十分にド田舎であり、来訪者が新鮮に感じるものは、居住者にとっては再発見となったのだ。
会場の下見は、翌日のセッティングの準備かと思いきや、河崎、サインホ、そしてダンサーの三浦宏予は、かなり真剣なリハーサルモードになってしまった。会場が気に入ったらしい。
そしてサインホが来日してから描いたというシャーマニックなモチーフの垂れ幕を三枚吊るし、椅子の配置も通常ではなく、さほど高くはないステージ上にも椅子を用意、会場入り口から奥までダンサーが踊りながら入ってくる通路を作り、会場側を面食らわせた。

其の晩、一行を連れて近所の居酒屋に入った。そこでまたサインホらしさが発揮された。酒が運ばれてくるとまずは、盛岡の地と岩手山に向かって酒を指で飛ばして捧げ、公演の成功を祈ってまた全員にふりかけ、それから乾杯である。興がのってきたとき、いきなり彼女は歌いだす。その場に居合わせた客も聞き惚れる。次はダンサー三浦宏予が現地語のハワイアンチャントを披露、スタッフとして同行した三木聖香は茨城民謡を歌い、私は河崎にまで歌わせてしまった。

<Ⅴ.博物館にて>

翌日、午前中から時間があったので、いよいよ博物館に向かう。
入館するとすぐ正面に高さ5メートルほどの木造毘沙門天像(レプリカ)が立っている。その後ろには恐竜の化石が並ぶ。大階段をあがると、盛岡の有名な祭りのひとつ「チャグチャグ馬っこ」の展示がある。農耕馬に華麗な装飾をして、過去は何百頭、現在は数十頭の馬が、お参りの為に練り歩くというものである。そのマネキン馬の祭り衣装もサインホはしげしげと眺めていた。
展示室でいきなりサインホはアンケートの為の画板をとりあげ、鉛筆を走らせる。何を描いているのかと思えば私の顔だった。そしてまた竪穴式住居時代のジオラマもささっとかきあげる。本当に何をしだすかわからない。
そして信仰や文化のコーナーに入ると、河崎にいろいろと尋ねている。
それは岩手の古代からのフォークロア、祭、 庶民の暮らし、仏教の受容と信仰、キリシタンの踏み絵、オシラサマ、座敷童さまざまな動物に現された日本の多神教的信仰など。
オシラサマ信仰では、「オセンダク」という布を、30センチほどの、人形や馬に見立てた木の棒に毎年かぶせてゆくが、その布には願い事等が書かれる。サインホはオペラやコンサートで、顔を覆おうことが多いという。ときにはマスクまでしたままだという。それは一種の仮面なのだろうか。
農村、山村、漁村のそれぞれの民謡が聴ける装置の前では三木と並んで熱心に聞いていた。
普段、遠来の客を連れて見学するよりも倍近い時間をかけて鑑賞を終えた。

<Ⅵ.一幕劇、そして歌手であり思想家としてのナムチラク>

会場入りの後は、再び細かいリハーサルをし、最後に、サインホは同行した三木に「一部の最後に民謡を歌って」と指示した。民謡を勉強している三木は東京公演ではかなり重要なキャストをあてられていたので、それほど臆することもなかった。

午後七時半、第一部が始まった。
頭から上半身まで、布をかぶって覆ったサインホが呪術的な声とともに現れる。その声に導かれ、会場の外から、三浦が精霊のようにゆっくりと惹かれて、客席の中央に開かれた通路をやってくる。反対に舞台後方からのっそりと大きな獲物を運んでくるように河崎が現れる。時折り美しいハーモニックスを響かせながら、激しく優しくコントラバスは歌う。
サインホは次第にトランス状態になり、倒れ伏し、また三浦は激しく四肢を泳がせてステージ上へと。河崎はコントラバスを横たえると、まるで獲物を解体するかのようにスティックやマレットでパーカッシヴな演奏をする。其のサウンドは韓国のカヤグムのようであり、サインホの声はパンソリのようでもある。
三浦はまるで魂を抜かれたかのように立ち尽くし、後方から三木が、全く現代の普通の女性の姿で現れ、民謡を歌う。秋田県の祝い歌だった。
その声が消えて行くとともに、全ては静寂のうちに鎮まっていく。
この第一部はひとつの連続した、舞踊付きの音楽劇、あるいは巫女と舞い手を伴う儀式を呈している。
第二部.サインホは可愛らしい赤いワンピースを着て登場、手拍子を取りながらトゥバの民謡を最初に披露。そして喉歌、倍音唱法ともジューズハープ・ボイスとも言われ、日本ではホーミーとして知られるあの声を。彼女に取ってはかずある声のひとつにすぎないのだが。河崎が再び現れエレジーのような曲を。次は英語でジャジーな曲をひとつ。最後はサインホの作曲になる”3 language song”。アンコールには再び、ホーミーを含む故郷の民謡が選ばれた。
かつては超絶的なオクターブが話題になった彼女だが、今はそんなテクニックの評価よりもパトスの溢れる成熟した歌手がそこにいると感じた。

幸い、観客数は77名となり、私の企画としては近来まれに見る集客ができて大変に嬉しい。会場側も予想外の入りに驚いていた。またアンケート回収率の高さにも驚いた。観衆にインパクトを与えたことは間違いないし、比較的年齢層が高い事が、音楽とも劇とも儀礼ともみえるようなパフォーマンスを許容できる人々が集まったことがあるだろう。
ほとんどが好意的な評価を記入していたが、私の印象に残ったのは「理解できなかった」と書いた「70代の男性」だった。まさにそういう感想が大事だと思う。なんだかよくわからないが、これもアジアの音楽で多様性のひとつという囲い込みや、エキゾチシズムの括りに入れてしまわれるより、圧倒的な違和感として、我々の日常を脅かすかのような霊的な何かとして記憶してもらう方が良い。

面白かったのは、アンケートには書かれなかったが、私の知人達から、あの第一部終焉の民謡はなんだったのか、とても良かったという感想がメールで寄せられたことだ。
つまり彼らは、日本民謡という音楽を再発見したと言ってよいだろう。近年、邦楽や民謡の人気が高まり、若い世代でも志す人、DJで用いる人が出てきた。これが変にナショナリズムなどに結びつく事がなければいいのだが、つまり懐かしい日本の原風景というような虚構を醸成する縁(よすが)にしてはならないだろう。それはサインホという音楽家のスタンスにも関連する事だ。
つまり私が言いたいのは、サインホを仮想の共同体のシャーマンにしてはならないと同時に、それでも否応無く響いてくる、異界への微かな径を齎す、あの声の主、彼女はメディウム=媒介者なのではなく、やはり表現者なのだ。そして1人の哲学者である。
それを圧倒的に感じたのは、それも酒席ではあったが、隣に座った彼女が過去と現在の世界、そして地球というひとつの圏について雄弁に語ったことだった。産業と戦争とテクノロジーが変える世界、彼女自身、トゥバに生まれ、モスクワに学び、オーストリアに住む、人生の漂泊者であり、引き裂かれた彼女の家系(その悲劇の詳細をここに記すのはためらわれる)、信仰と政治の戦いだった。そして同行した19才の孫、ティムルのIT世代との関係など、聞き直す間がないほど一気に語ってくれたのである。
其の内容を全て伝える事はできない。そして彼女の表現は、失われた世代へというよりも、これからの世界への鎮魂慰霊に思えるのは私だけだろうか。
彼女はシャーマンであるよりもまず表現者であり、現代世界のノマドであろう。それは群れを追いながら大きな循環をする遊牧民部族(トライブ)の意味ではなく、現代的な解釈として「時間、空間を選ばず、遊弋(ゆうよく)しながら思想を伝える人」という解釈をしたい。

<Ⅶ.彼女の心性>

公演翌日の午前中、古刹の法恩寺に、私は同行せずサインホと3人が出かけた。フビライとマルコポーロの像が混じっていると言われる「五百羅漢」の見学に行ったのだ。私は河崎と撮影の三行氏と一緒に帰路のチケットを取りに行ったのである。
我々が法恩寺に着くと、サインホはぽつんと本堂前の階段に座っている。一緒に行った面子に依ると「私は入らない、ここが良い」といって座り込んだという。一時間程彼女は座ったままだった。次の予定もあり、傍らから声をかけると正面を向いたまま、独り言のようにつぶやく。
「風が吹いている、鳥が鳴いている。光が美しい。ここはいい場所だ」
彼女は瞑想の時間と場所が欲しかったのだ。
午後、県立美術館での鑑賞の時間を持つ事が出来た。常設の県人関係の展示室に一行を案内した。
サインホは、近代具象画には関心を示さず、現代の抽象化された作品群へ興味を持っていた。なるほど、抽象作品のほうが心性という意味ではストレートなのかもしれない。
例えば、私は、実に多様な表現をした萬鉄五郎について、いろいろな説明を試みたが通り一遍の態だった。近代洋画の技法吸収と日本人としての自覚の上で葛藤し、最後には南画にたどり着いた芸術家という意味で、日本人なら興味を持つであろうが、彼女には西欧文化に翻弄された一例にしか見えないのか。
では、萬とならんで特別展示室がある舟越保武と松本竣介のどちらに関心を示すかに興味があった。さてどうだったでしょうか。これは書かないでおこう。
ホテルに戻り、そこで一行に別れを告げた。

<Ⅷ.ラッチョドローム!、河崎、サインホ>

その後、一段落した河崎からメールが来て思わず吹き出した。
盛岡で、新幹線乗車直前、サインホは河崎に「酒を買いたい」といった。どういうことか。彼女は盛岡の地と岩手山に別れを告げる儀式をしてなかったというのだ。あと十分しか無い。河崎とサインホはカップ酒を買い、駅の正面に出て、また例の酒を振りまく儀式を済ますと、慌てて乗車したのだという。
もし私が現場に居たら拒否しただろうか。河崎はサインホの心情を何よりも大事にした。東京公演ではサインホは、メインのキャストではあっても4人の歌姫の1人にすぎなかった。河崎は4人を平等に扱う事を心がけたという。其の意味で盛岡行きは、誇り高いサインホのストレスを解放するには良い機会だったろうし、また何より河崎自身、盛岡に来て少しは気楽になれたこと、この意義は大きかっただろう。

「音楽詩劇研究所」の次の企画、今後の発展に期待し、また祈らせてもらう。それと同時にサインホ・ナムチラクという希有な存在に出会えたことを感謝し、彼女の霊的な成就が叶う事を願う。

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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