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Concerts/Live ShowsNo. 249

#1057 即興的最前線

Text and photos by Akira Saito 齊藤聡

2018年11月24日(土) 江戸川区東葛西 EFAG East Factory Art Gallery

Wakana Ikeda 池田若菜 (fl)
Takuro Okada 岡田拓郎 (g)
Ayako Kato 加藤綾子 (vln)
Mitsuru Tokisato 時里充 (養生テープ)
Natsumi Nogawa 野川菜つみ (materials, PC)
Hikaru Yamada 山田光 (sax)
Narushi Hosoda 細田成嗣 (企画)

東京で活動する即興音楽家6人が倉庫のようなギャラリーに集まり、ソロパフォーマンスと共演を行った。また、終了後にはトークセッションが開かれ、「即興」という極めて曖昧なテーマを巡り、多くの発言がなされた。

敢えて「若手」と明言して出演者を選んだ理由はなんだったのか。「若手」であるがゆえに新しい形が模索されているという前提か(「最前線」)。ビルドゥングスロマン的な安ドラマが企図されたわけではないだろう。結果として、演奏者にも、目撃者にも、摩擦や違和感のような形で、別のものに向けた種を残したに違いない。その刺激剤こそ企画者の細田が狙っていたものではなかったか。

(1) 野川菜つみ

微かな高周波音に気が付き、振り向くと、野川が素焼きの植木鉢を擦っている。彼女はいくつもの鉢に石を落とし、叩く。それに加えて、吊り下げられた木片を叩く音、水を掬ってはこぼす音など、有機物を媒体とした振動がPCに取り込まれ、残響の上に残響を重ねるようにして、その場に立ち会う者の頭蓋も共振させた。

(2) 池田若菜

30分が経つ頃、会場の別の一角に池田が座っており、フルートを吹き始めた。音が、媒体の響きから管の共鳴へと移り変わることが新鮮だ。その音色には倍音、重音、ノイズ、震えが含まれているが、池田は決して演奏でのみ場を支配しようとしない。むしろ、演奏を行うことで演奏以外の音にこそ耳が吸い寄せられる。外の路地の話し声、バイクのエンジン音、扉の開閉音、近くの人の気配音。狭い場ではなく、場の外部や内部への往来にサウンドがシフトしているのである。フルート自体はもはや変化を求めず、繰り返しの差異が場の内外の差異とシンクロした。

(3) 時里充

また30分が経ち、近くで、時里が養生テープをばりばりと引っ張っている。ここにきて目撃者たちは、30分を目途にシームレスにバトンを渡していく趣向なのだと気が付いた。彼は強力なモーターの付いた機械でテープを巻きとってゆく。時里はテープを取り換え、機械の動きを手助けするかのように振る舞う。意思決定者や行動の決定者は誰なのか、自律性はどのように演奏に関与しているのか。だが自律性は行動者だけではなく、目撃者の耳や脳にもまた働きかけていた。養生テープはキャラ化し、関与のヴェクトルは複雑骨折する。

(4) 山田光

別室でサックスを吹く山田。ネックはぐるぐる巻きのホースに替えられている。長い共鳴感はより周囲を取り込んだ響きをもたらし、そのことが、通常のアルトのネックに変えて楽器を人間と直結させることで際立ってくる。彼は金属板をベルの上に乗せ、その限界によって哀しさや切実さをも表出させた。やがて、口で多くを制御する方法から、楽器が共鳴するがままに委ねる方法へとシフトしたように思えた。これもまた、演奏者が支配する音楽から自律の音楽への権限移譲なのかもしれなかった。

(5) 加藤綾子

ギャラリーには狭い2階がある。そこから弦の悲痛な音が突然鳴り響いた。しばらくは山田のサックスの反響と共存することで、加藤の音の制御がまた別のかたちで目立つ。彼女は自分を慰撫するかのような音を出しながら、狭い階段を降り、流麗な旋律、話すかのようなユーモラスな音、激しい足の踏み鳴らしを経て、弦のミクロな領域に目撃者の注視を見事に引き寄せてみせた。それは明らかにクラシックの訓練による高い水準の表現なのだったが、それにとどまらず、軋み、逸れ、狂っていった。

(6) 岡田拓郎

加藤のヴァイオリンと対峙する岡田。そのギターはかきむしるようなノイズとアンプでの増幅によって、大きなヴァイブレーションを生み出す。ヴァイオリンが死亡するように離脱したあとも(ほら、いつの間にかキャラ化している)、岡田の音は共振的に大きくなってゆく。自分自身が震えて崩れ落ちてからも、残された響き自体が主役に取って替わるようだ。やがて、音のクラスターひとつひとつが事件と化してゆく。

(7) 全体即興

これまでを通じて各演奏者に蓄積されたであろう何かが、それぞれのやり方で棚卸しされる。そのような形での場の共有は社会と重なってみえる。時里や岡田は個人の作業を続ける。山田や池田は別室と共存空間を出入りして、目撃者や他の演奏者との間のパスを開閉する。加藤は視えないところで叫び、それまでとの違いによって驚きを加える。野川は他の演奏や周辺音を取り込んでおり、自身のものとして再生産した。

(8) トーク

企画者の細田は、別々の場で並走しているインプロシーンを、敢えて「若い世代」によってリンクを作り出し、紹介の場、交流の場、実践の場とすることを狙ったのだと発言した。またそれは、アジアン・ミーティング・フェスティヴァルから触発されたのだ、とも。

ここで彼は、即興をとらえる視点として、哲学者の國分功一郎が説いた「中動態」(能動態でも受動態でもない、その間にあるようなもの)や、デレク・ベイリーのノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションに触発されたインター・イディオマティック・インプロヴィゼーションということを口にする。そして、この場で、循環や相互のフィードバックを狙ってきっかり30分おきに演奏者を変えるという計画に沿った行為を行わせたのだ、と。

この宙ぶらりんの試みについて、あるいは即興というフレームについて、様々な見解が演奏者から放たれた。時里は、自身のパフォーマンスはほぼ個人作業であり他者からの干渉はほとんどないのだと発言したのだが、しかしその一方で、養生テープを使う作業への慣れが表現に出てしまうことへの懸念を口にし、山田も、その蓄積をパフォーマンスと切り離すことはできないことだとした。その場での短時間でのものではなく、意識や時間を介したフィードバックを見出すことができるということである。加藤もまた、フィードバックとは演奏者間に起きるものには限定できず、場の作りや、目撃者の視線も演奏に影響するものであり、さらには即興とは高次のコミュニケーションに他ならないとした。

興味深いことに、池田は敢えて方針をこれと決めず「ぼんやり視る」ように臨んでいたのに対し、山田はいわゆる「フリーインプロ」をやるのだと決めていた。だが、それは演奏の分類や質の評価には直結しない。たとえばそれは「即興だから可能なこと」ではなく、即興がその予断や意図からはみ出ざるを得ないことゆえ、「即興で何が生まれたのか」が本質的なのだという議論もなされた。すなわち「即興」を目的のように語ることの無意味性である。

勿論、現段階で腑に落ちるような明快な共有解はないだろう。方法論や意識のあり方への議論そのものが、各演奏者への新たなフィードバックとなれば、それはまた愉快なことだ。

(文中敬称略)

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』などに寄稿。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

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