#1058 名曲能の会 第二十回記念公演 鸚鵡小町

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2018年12月8日(土) @喜多六平太記念能楽堂
Reported by Hideaki Kondo 近藤秀秋
Photo by Yuu Ishida 石田裕

<番組>

舞囃子『鞍馬天狗』
(シテ)大村稔生

狂言『二人袴』
(シテ)山本東次郎

能『鸚鵡小町』
(シテ)大村定
(ワキ)宝生欣哉
(大鼓)國川純
(小鼓)曽和正博
(笛)一噌幸弘
(後見)塩津哲生、内田安信、中村邦生
(地謡)金子敬一郎、出雲康画雅、友枝雄人、香川靖嗣、狩野了一、友枝昭世、粟谷浩之、粟谷能夫


しばらく作曲に取り組んでいた。完成した後に何度か修正を試みたが気に入らず、結局は破り捨てた。まるで魂の入っていない仏像を彫った気分だった。何が足りないのかを自分なりに真剣に考えたが、作曲作品の内部構造やサウンド以上に、それが扱っているもの自体に対して、あまりに無頓着であるという事ではないかと思い至った。この点は、実は自分だけでなく、現代の先進国の音楽や演劇など全般が抱えている問題点ではないかとも思う。

喜多流の大村定(おおむら・さだむ)が続けてきた「名曲能の会」の第20回公演は、舞囃子『鞍馬天狗』、狂言『二人袴』、能『鸚鵡小町』の三番立てであった。能楽は、いくつかの演目をセットにするのが普通で、伝統的な番組構成は「翁付き五番立」というものだが、これは料理でいうフルコースのようなもので、現在ではフルコースが出揃う事の方が少ない。喜多流は五流あるシテ方のひとつで、江戸時代に二代秀忠にとりたてられて一流を興した、他の流派に比べると成立の遅い流派である。『鸚鵡小町』は「老女物」に分類される演目で、老女物は格が高く、能の奥義のひとつと言われる。すでにシテ方の重鎮のひとりである大村定ですら、この日が老女物の披きであった。鸚鵡小町の主人公は、老いた小野小町。帝が新大納言行家に歌を持って遣わし、小町はこの歌の一字だけを入れ替えて返歌する。そして、舞を舞い、宮中にいた頃の昔を偲ぶ。

シテ方、ワキ方、囃子方のいずれも素晴らしかったが、どれが素晴らしいというよりも、すべての調和こそ素晴らしいと感じた。能の本舞台という、他にないほどの特殊な空間の奥行きを見事に生かしたシテとワキも、私には特にコミの部分が見事と感じられた囃子も、チベット密教のマントラのように機能して聴こえた地謡の斉唱も、すべて相補的に成立するものであって、その全景こそ見事と感じた。

それを大前提として、それ以上に心を動かされたのは、この能が扱っているもの自体だった。より正確にいうと、この能が扱っているものの背景にある思想である。私は現在壮年期で、残された時間が少しばかり足りない。その範囲で(あるいはその範囲の前と先を含めて)どうするか(あるいはどうあるか)を突き詰めていくと、何を決定するにも、先に何が前提であるかを正しく確定できない事には、何が正しいのか自体を確定できない。「私はこう思う」という不確かなものに縋っているようでは、砂の上に城を築こうとするようなもので、最後に後悔しか残らないだろう。無論、この問いにたどり着く以前の段階では、問題外だ。このような選択に立つ場合(恐らくこの選択は、あらゆる選択の根底に暗に存在している)、あらゆる振る舞いの根拠となる絶対的な基準のひとつは、間違いなく死生観である。問題は、どのような死生観が事実に離反しない上でかつ人間に有効であるかという事だ。この日の『鸚鵡小町』では、この最重要であるだろう問いを扱い、同時にその解答を示していたように感じられた。だから、震えた。

能楽はまったくの不勉強なので、見当違いであればご容赦いただくしかないが、やや音楽や科学や思想に偏った身の感想として言うと、能は、音楽、詩句、視覚情報で、役割を分担しているように見えた。そのなかで、視覚部分は哲学的な思想部分を受け持っており、舞ですらその例外ではないと感じた。能においてよく言われる「幽玄」や「序破急」などについて論じるだけの教養を私は持ち合わせていないが、しかし才色兼備の世界三大美人百歳の時の舞が何を表現するかは、私が言うまでもない事だろう。そしてそれは、感覚よりも思索において追及されたもので、シナウィの巫女やスーフィーの旋回舞踊とは根本から違って見える。私が日本の伝統芸能で問答無用で好きなのは、謡事ではなく囃子事に入っている掛け声だ。能では、生死や狂いなどにおける直接的な感覚的のものは、この囃子部分がすべて受け持っていて、舞はその狂いなどがなぜそうかを思索した結果を記号的に伝えているように見える。老女物なので余計にそうなのかも知れないが、大村の舞いは、わずかに摺り足で動く、扇がわずかに震えるなど、すべてが記号的であり、それは「感じる」以上に「読む」ものであるように見えた(但し、同席させていただいた雅楽師の中田太三と、地唄の田辺雅美和は、扇の震えは意図した舞の一部ではない可能性もあるという見解だった)。それを読めるかどうか、またどう読むかは、読み手の器量であり、そうした読み手を含めて能楽と呼ぶのかも知れない。

ここひと月ほど、音楽や舞台を含め、色々なパフォーマンスを拝見させていただいたが、一流と評価されている方々と楽屋で話して感じたのは、それほどの技術レベルにあるパフォーマーの意外に多くが、舞台裏で「こんな事をしていて何になるのか」という類の事を発言された事だった。謙虚さがそう言わせるのかも知れないが、自分が似たような経験を今させられているだけに、半分はそれが本音であると感じられる。

ある時期までは意味ばかりを追って来たが、ある時から、プロフェッショナルな技術は、その技術において掛け値なしに高く評価するようになった自分がいる。しかし一方で、それだけではパフォーマー本人ですら見失ってしまうようだ。何が足りないかというと、永劫普遍のテーマを扱い得ているか、この一点ではないだろうか。プラグマティックにいえば、人間にとってのあらゆる問いに関わる事になる死生観そのものを問うて見えた鸚鵡小町は、素晴らしかった。無論、テーマだけで人にそれを感じさせるのは不可能だろう。私の感想など、この似た観客の百とある感想のひとつにすぎない事は重々承知しているが、それでもひとりの観客がそう考えさせられた根底に、大村定をはじめとしたシテ方、それにワキ方、囃子方、そのすべてが有していたプロフェッショナルな技術が存在していたことは、間違いないと思う。ジャズ方面の方も、能は一度体験すべきと思う。ジャズが開いたプロフェッショナルの使い道は、恐らく楽理や演奏の追及やエンターテインメントだけではないだろう。能は、南アジアや西アジアの古典音楽に匹敵するだけの哲学を有しているように感じる。

近藤秀秋

近藤秀秋

近藤秀秋 Hideaki Kondo 作曲、ギター/琵琶演奏。越境的なコンテンポラリー作品を中心に手掛ける。他にプロデューサー/ディレクター、録音エンジニア、執筆活動。アーティストとしては自己名義録音 『アジール』(PSF Records)のほか、リーダープロジェクトExperimental improvisers' association of Japan『avant- garde』などを発表。執筆活動としては、音楽誌などへの原稿提供ほか、書籍『音楽の原理』(アルテスパブリッシング)執筆など。

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