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Concerts/Live ShowsNo. 252

#1071 3/10 The Music of Anthony Braxton ~ アンソニー・ブラクストン勉強会&ライヴ

Text and photos by Akira Saito 齊藤聡

2019年3月9日(土) 東池袋・Kakululu
2019年3月10日(日) 渋谷・公園通りクラシックス

ホストメンバー
Kyoko Kitamura 北村京子 (vo)
Masayasu Tzboguchi 坪口昌恭 (p, electronics)
Nonoko Yoshida 吉田野乃子 (as)
Shinpei Ruike 類家心平 (tp)
Hiroki Chiba 千葉広樹 (b)
Manami Kakudo 角銅真実 (perc, voice)
ゲスト参加(2019/3/10)
Masayo Koketsu 纐纈雅代 (as)
Hiroko Kokubu 国府弘子 (key)

アンソニー・ブラクストンの多楽器奏者としての演奏に向けられる印象は、ジャズやブルースの伝統と隔絶している、そのため極端に過激、ノリがない、といったところだろうか。音楽家としてみればさらに理解の範疇を超えてしまうのかもしれない。しかしそれは、たとえば、異形のサックスソロ『For Alto』(1969年)、コントラバス・クラリネットなどで驚くべきスタンダード演奏を行った『In the Tradition』(1974年)、チャーリー・パーカー曲に「回帰」したかのようにみえた『Charlie Parker Project』(1993年)など、ジャズというリファレンスを設定可能な作品のみを挙げたうえで、そこから如何に逸脱しているかにあらためて驚いてみせるというクサい身ぶりのひとつの側面に過ぎない。

まずは、そのような「視たいようにしか視ない」態度をともかくも棄て去らなければならないだろう。なぜならば、今回の企画を行った北村京子によれば、従来のジャズや即興の方法論を用いて音楽家の頭脳と肉体を通過させて出てくる音楽には限界があるのだとブラクストン自身が確信し、さらに拡張可能な方法論を開発したからである。

音楽は演奏者や鑑賞者の間の共感を前提としているが、ブラクストンの方法論はその共感領域をまったく新しく創出するものにみえる。従って技術的には困難なものになっている。たとえば、スタッカートやトリルなどの音色の表現方法が細分化され、そのパーツが独自のランゲージとして図で表記される。あるいは、テンポが目まぐるしく変わる。連日の公開リハーサルにおいて、腕利きの演奏家たちが苦労している様子を観察することは面白くも新鮮でもあった。

しかし、ブラクストンの方法論は音楽要素の解体抽出だけではない。たとえば、五線譜の左側にダイアモンドの印があり、ここにはト音記号であろうとなんであろうと音部記号を演奏者が自由に入れてよい。あるいは、楽譜の途中に記号があり、丸は即興開始、三角はその楽曲の後ろに付された小曲(secondary material)に移動してもよい、四角は別の曲(tertiary material)に移動してもよい(!)。これを個々の演奏者がその場で判断する。手に余るほどの自由だが、これでは集団演奏が破綻するのではないのか?―――それに対する北村の答えは、否、であった。訓練された演奏技術と経験と知見を持つ演奏家が、周囲との動的な関係をみながら次の動きを決めるからだ。共感の領域が、自由や関係といった概念と、あるいは現実社会のリアルな現象と、実に生々しく重なって創られてゆく。

そして演奏本番となり、演奏者たちはふたつのグループに分けられ、グループの中でのボードや身振りによる指示と演奏、グループ間のインタラクションが展開された。自由が引き寄せられ、隙間ができ、その回復と発展があった。コミュニケーションのちょっとしたすれ違いもあった。演奏者たちは明らかにそれらをすべて愉しんでおり、方法論を実践するとともに自身の声を出した(さすがである)。類家心平は湿度の高いエモーショナルな音を、吉田野乃子は強度のある抒情を、角銅真美は静かな時間の進行を、千葉広樹は弾性による紐帯を。坪口昌恭は指示しながらも笑顔でグルーヴを、北村京子はやはり指示しながらサウンドの中に蝶のようにひらひらと舞うヴォイスを。

所与の解がない中で高いエキスパティーズをもって新たな社会を創ってゆく、愉悦のプロセスである。坪口昌恭はこれを「哲学音楽」と呼んだ。リハーサルが終わった段階で彼に話を聴いた(2019年3月10日、公園通りクラシックス)。

JazzTokyo(JT) 初日に、難しい旋律を声で歌うのは良いが、キーボードだと違和感があるとの発言があった。

坪口 特に初日にデジタルピアノを使ったからでもあったのだが、ピアノでサウンドが音符として明確になってしまうと、本当に自分は心からそれを出したかったのかという疑問が出てくる。一方、声はノイズ成分や不確定要素が多く、それによる音程の合間が良いという面がある。

JT ブラクストンの音楽は細かい音符が規定されているなどデジタル的な側面があるのでは。

坪口 もちろん音符で再現可能なことを前提として書かれており、西洋音楽的。一方、コードで規定するジャズは人によって変えられるところがある。この音楽はどちらかと言えばクラシックに近い。

JT ジャズマンの快楽原則から「変えたい」と思わないのだろうか。

坪口 この音楽については変えたいとは思わない―――意に反する変化があって変わってしまったりもするが。ジャズにはメロディやハーモニーがあり、ずいぶん変えてもその曲ということはわかるのだが、この音楽は、変えたら跡形もなくなってしまうかもしれない。

JT リハーサルの中で単音かという確認がなされていた。ハーモニーも快楽だと思うのだが、それはこの音楽にどのように位置づけられるのか。

坪口 京子さんともその話をしたばかりだ。ブラクストンの音楽にジャズやポップスの聴き慣れたハーモニーを入れるとすごく合わないと思う。入れても良いのかもしれないが僕は入れない。英語の中にいきなり日本語を入れて、そこだけ意味がわかってしまうようなもので、台無しになってしまう気がする。2-5-1とか、ドミソ、ソシレ、じゃーん、なんてやっちゃったら、ものすごく違和感がある。ここは核心かもしれないのだが、そういったものを排除したのだろうと京子さんに言ったところ、ブラクストンの音楽はなにひとつ排除しないと応じた。

JT ブラクストンは演奏の常套句を避けるために要素をばらばらにしたのだという説明だった。ハーモニーもやはり常套句ではないのか。

坪口 そのようにも思ったのだが、しかし、一方で排除はなされない。すなわち、ブラクストンの音楽はきっと「哲学音楽」なのだ。音楽の快楽を求めるのではなく、哲学を音楽にしている。多くの人が「ああ良いメロディだな、来た来た」とか「一緒に口ずさもう」とか「ノッちゃった」とかいった類の煩悩的(笑)な快楽を求める類の音楽ではない。もちろんジャズはエンターテインメントだからそのような側面がある。しかしこの音楽は、ミュージシャンの心の解放や啓蒙というのか、自分の弱さだとか癖だとか無意識にやってきたことだとかを見直す、人生における教訓のようなものが一杯入っている気がする。それを聴いている方にとっては、ジャングルの中の風景だったり、植物が喋っているようだったりと色々な受け取り方があるだろう。ともかく、ハーモニーに意味が感じられないものがずっと並んでおり覚えられないし、整合性がなくなるように意図的に仕向けられてもいる。そんなふうに緻密に作られている。その意味では整合性によるカタルシスがない。

JT ジョン・ゾーンのコブラやブッチ・モリスのコンダクションのような、ゲームやパズルのような側面を持つ方法論とは違うのだろうか。

坪口 コブラには何度か参加したことがあるのだが、一般の人が認識できるジャンルをコラージュしたり、DJが参加したり、音符が読めない人が参加したりと、よりポップで大衆的だ。一方、ブラクストンの音楽には楽譜を読むスキルがないと参加できない。覚えてどうにかなるものではないし、もとより覚えられないようにしてある。急に知らない譜面が出てきて、それでもなんとか音楽にする苦行のようなところがある。

JT ブラクストンの音楽に昔から興味があったのか。

坪口 正直言って、そんなにはなかった。

JT 今回これを機に自分の中に取り入れようという意図があったのか。

坪口 自分も苦行好きなところがある(笑)。京子さんと出逢って、彼女の作品を聴いたらすごい才能だと思った。また、自分の音楽にも興味を持ってくれた。相思相愛のときはチャンスで、その方がどんな音楽をやっているかということに興味があった。それをきっかけに食べず嫌いの味がわかるかもしれない。そうです、食べず嫌いのものを食べているところです(笑)。ただ、変拍子というか、拍の中を微分するようなことは自分は昔からやってきており、要素としては得意な分野でもある。

JT たとえば1拍5分割のようなものは、それぞれのミュージシャンにとってどれだけ感覚が違うのだろうか。

坪口 得手不得手があるし、速くなりがちだとか癖もある。もちろんコンピュータできっちりやれば正解はある。だがそれをきっちりあわせることを目的としていない。

JT リハーサル時の話とも重なる。ブラクストンの音楽はぎっちりと作曲するが、演奏になった途端にばらつきを許すと言ったような。

坪口 どんな音が出てくるかが最優先になる。練習は厳しいかもしれないが、本番になるとわあっと自由な表現になる。いちばんの象徴的な言葉が、「ミスしないことがいちばんのミスだ」。完璧に演奏にするということが一番のミス。禅のようになってくるが(笑)。

JT そうするとデジタルになってしまう。

坪口 そう、それだったら機械で再現すればよい。

ブラクストンの日本プロジェクトははじまったばかりだ。彼の音楽の秘密が知られ、ワークショップや実践を通じて共有されてゆくのはこれからである。それがどのような拡がりをみせるのか楽しみでならない。

(文中敬称略)

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『The Music of Anthony Braxton ~ アンソニー・ブラクストン勉強会&ライヴ』by 定淳志

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』などに寄稿。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

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