#1090 フローリアン・ヴァルター+石川高+山崎阿弥

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2019年7月26日(金) 渋谷・Bar subterraneans

Text by Akira Saito 齊藤聡

Photos by m.yoshihisa
Movie by 宮部勝之 Katsuyuki Miyabe

Florian Walter (as)
石川高 Ko Ishikawa (笙)
山崎阿弥 Ami Yamasaki (vo)

雅楽の石川高には、これまでにエヴァン・パーカー、大友良英、秋山徹次など錚々たるインプロヴァイザーとの共演歴がある。ドイツでフローリアン・ヴァルターに日本の伝統楽器、特に笙に興味があるのだと持ち掛けられたとき、技量も強度も図抜けたサックス奏者の相手として真っ先に思い出したのは、2018年のJAZZ ARTせんがわにおいて、箏の今西紅雪とともに強靭なトランペットのピーター・エヴァンスと対峙し、対照的に抑制された美的世界を創出してみせた石川の姿だった(せんがわのステージのインパクトは斯様に大きい)。一方で、ちょうど東京に滞在中の山崎阿弥のヴォイスが持つ強度や多次元性もまた、フローリアンと十二分に拮抗しうるものではないかと思われた。これが今回のトリオの背景である。

山崎はマイクをライヴでの表現手段として巧みに使う。しかしこの日は、音出し後の話し合いの結果、おそらくはサウンドのバランスを考慮し、マイクを使わないことに決められた。笙の存在による判断かもしれない。日本の伝統楽器と共演を望むインプロヴァイザーが増えてきたが、マイクをいかに介在させるかがあらためて重要な要素となっている。

ファーストセットは、その意識からか、三者おのおのが発する音が抑制気味に進められた。山崎の鳥の声とフローリアンの泡立ちによる導入に続き、石川の倍音が入ってくると、やがて、驚いたことにフローリアンのサックスが変貌を始めた。それはアジア的にも聴こえる音であり、また笙の倍音が乗り移ったような音である。同じヨーロッパのサックス奏者ジョン・ブッチャーの演奏が、カメレオンのようにその場に姿を変えるのに対して、ここでのフローリアンは対話相手の楽器に憑依する。

とは言え、サックスと笙とはサウンドのありようが異なる。かたちを作るサックスと風景を描く笙、サウンドを直接挑発するサックスとサウンドをカラフルに彩ってゆく笙、フラグメンツを撒くサックスと舞台をヴァイブレーションとともに迫り上げる笙。その間に座る山崎は両者の音を受けての渦をヴォイスと身体全体で表現し、またあらためて覚醒したかのように胸を拳で叩き、パルスを天井の高い空間に次々に放ってゆく。山崎は自分自身のヴォイスの行方を眼で追い、観客はヴォイスが空間全体でサウンドに一体化するありさまを目撃した。

笙は、内部の結露を防ぐため演奏の合間に電熱器で温める必要がある楽器だ。そのプロセスは石川のインプロヴィゼーションの一部となっており、再び介入するときはそのたびにサウンドに新たな事件をもたらす。セットの最後に起きた事件は、笙に触発されて、目の前の夾雑物を掃き清めるがごときヴォイシング、マウスピースを取り去って太いグレー色の音を出したサックスであった。

セカンドセットは、抑制とは対照的な演奏になることが予想された。だが蓋を開けてみて場を支配したのは沈黙であり、このことが、三者、また観客との信頼関係がすでに得られたことを示していた。沈黙の中で山崎による生命の胎動が次第に大きくなり、それは山崎とフローリアンとが両手と口で表現する生物へと成長した。石川の笙は短い音も出し、多彩に色を重ねてゆく。この向こう側に別の風景が視える。

山崎自身はまた別のかたちに化けつつあった。彼女が与える力によってサックスと笙とがダンスし、目覚めた怪物はヴォイスのかまいたちを四方に放った。サックスはエンジンのように震え、笙はこれまでにないほどにエネルギー水準を持ち上げた。そしてサックスの歌が笙に憑依し、笙とサックスの音が山崎に憑依した。サックスが単音のロングトーンから重音を目立たせてゆき、笙がシンクロし、その中で山崎の唸りが透明化してゆき、大きな浄化作用とともに演奏が終わった。

あまり例のない楽器の組み合わせによってのみ目新しいショウを企むことは歪んでいる。だが、表現者の力量や互いの関係のポテンシャル次第で、インプロヴィゼーションというコミュニケーションが様々なかたちとなって表出しうる。この日の共演はそれを驚きとともに示すものとなった。

(文中敬称略)

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齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 環境・エネルギー問題と海外事業のコンサルタント。著書に『新しい排出権』など。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

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