#841 田崎悦子ピアノリサイタル「三大作曲家の遺言-Ⅱ」
2015年7月18日 (土) 東京文化会館小ホール
Reported by Kayo Fushiya 伏谷佳代
演奏:
田崎悦子(ピアノ)
プログラム
ブラームス:6つの小品op.118
ベートーヴェン:ソナタ第31番変イ長調op.110
シューベルト:ソナタ第20番イ長調D.959 遺作
*アンコール
ブラームス:4つの小品よりop.119-1
刻々と更新される、楽器との親和力、楽曲の新たな諸相
3年ぶりに田崎悦子を聴いた。ブラームス、ベートーヴェン、シューベルトの最晩年の作品をフォーカスした『三代作曲家の遺言』全3回シリーズの第2回目である。
台風一過の雨天という天候も影響してか、当初ピアノの響きが軋むような印象を覚えた瞬間があったが、演奏がすすむにつれて会場の空気と無理なく調和していった。作曲家の別によらず、田崎悦子の演奏に触れるたびに実感されるのが、その肩肘のはらない自然なスタンスである。スタイルという名のもとに、エゴイスティックなまでに作品を自己のもとに引き寄せようとする自己顕示ほど田崎の演奏と相容れないものはない。作品との瞬間の共生、その連続…こうした虚飾のなさは、シンプルなようでいて実に得難い。田崎悦子の音によって切り取られる風景は、細部を生き生きと際立たせ、自然に息吹かせながらも、それを茫洋たるパノラマのなかで聴き手に体験させる骨太な暖かさを身上とする。
冒頭のブラームス『6つの小品』では、楽曲の練られた解釈や分析はすべて、音色のクオリティという、聴き手にとってはもっとも感知しやすい次元に還元される。ときに金管楽器を思わせる最速の金属音から、魂そのものの化身ともいえる温(ぬく)みのある単音まで、その多様な振幅は、唐突なコントラストや緩急をはらみつつもひと筆書きに弧を描く。諦念のなかに匂い立つエレガンスや、怒りのなかの慈しみ。一筋縄ではいかぬ人間感情や言葉からすり抜ける捉え難さが、 淡々とだが、気がつけば鮮烈な像を結んでいる。ベートーヴェンに至っても、その謹直なアプローチは変わらない。第2楽章などヒートアップに走りがちな演奏 が巷におおいなか、テンポは遅めに、楽曲の奥へ奥へと埋没することで、実に不穏で静謐な凄みを増してゆく。重きに沈まず軽さに流れない。そこだけぽっかりと浮き上がる、独自のグラヴィティ。真の音楽のスリルに思いを馳せるとき、瞬間的で即効のエネルギーの爆発などまだまだ蒼いのである。ソナタの終章、展開 部からフィナーレに至る音の上昇と響きの堆積、その降り注ぎは、まさに「音浴」と表現するに相応しい天然のリヴァーヴであり、至高の音楽体験である。
休憩をはさんでのシューベルトでは、奏者とピアノの自然な親密さが、心地よい対話のように耳に流れてくる。ひじょうに軽妙なスタートである。ロマン派であるゆえの激甘な先入観は早くも一掃され、奏者の「これまで」と「いま」が淡々と楽曲に織り込まれる、クロノロジカルかつ即興的な場として楽曲が切り開かれてゆく。迫真の実況である。必要なテクニックはすべて、楽曲の多彩な形相をあぶりだすテクスチュアとしてのみ作用する。思いのたけは、ときに真逆の作法で露わなように、筋肉質な音色に纏わりつくメランコリー(アンダンティーノ)、転がるような小気味よさのなかを貫く徹底した達観の境地(終章)など、つねに複眼的な脈流にシューベルトの偉大さがそこはかとなく立ち昇っては聴き手の脳裏にこびりつく。裏返せば、シューベルトの遺作ソナタが真に要求するのはこうした境地であり、いかにそれを耳にすることが稀有であるかを物語る。田崎悦子が日に日にアップデイトしてゆく内的世界の充実を、こうして定期的に味わえることを僥倖といわねばなるまい。第3回が早くも期待される(*文中敬称略)。
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