#1140 喜多直毅クァルテット~沈黙と咆哮の音楽ドラマ

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2020年8月21日(金)@東京渋谷・公園通りクラシックス
Reported by Kayo Fushiya 伏谷佳代
Photos provided by Naoki Kita Quartette

<出演>
喜多直毅クァルテット/Naoki Kita Quartette
喜多直毅/Naoki Kita(Music and Violin)
北村聡/Satoshi Kitamura (Bandneon)
田辺和弘/Kazuhiro Tanabe(Contrabass)
三枝伸太郎/Shintaro Mieda(Piano)

<プログラム>
1. 泥の川~熱病のテーマ
2. 焦土
3. 孤独
4. 疾走歌
5. さすらい人
6. 厳父


コロナ禍によりライヴ現場の状況が日に日に厳しくなっているのは周知のとおりだが、この日も慣例のとおり客席数を半分の20席に限定、一時間終曲まで一気に弾きとおすのが信条の喜多クァルテットも、途中で換気のために休憩を挟むという異例の進行となった。しかもこの日はライヴ・ストリーミング用の録音も兼ねたこともあり、空調もオフ。奏者と観客双方に厳しい環境だったが、瞬間瞬間に集中する熱量の高まりは、逆に意識に怜悧さをもたらす。

音量ではなく「音の佇まい」で聴かせるのが喜多カルの醍醐味だ。個々の楽器と奏者の身体の接合点から、茫洋とした音楽の全体像がまず浮かび上がる。そこから音が縦横に交錯しては偏在するのだ。多孔性にみちた、しなやかな構成力。喜多のヴァイオリンと田辺のコントラバス、弦楽器同士の絡みがこの日は殊に充実。情感と張力、といったソフト面とハード面とが等価に押し寄せる(「泥の川」「焦土」)。鍵盤の双璧をなす三枝のピアノと北村のバンドネオンは、冷たくも熱いエッジィな音色で空間に縛りをかけ、強力な色彩を施してゆく。極北と灼熱、対照的なふたつの風景を現出させながらも、各々の層を侵さない(「焦土」「孤独」)。琴線を直撃するメロディラインは喜多の楽曲の最大の魅力のひとつだが、この日はテーマの表出に、より一層屈強な手触りを感じる。休憩を挟んでの「疾走歌」、「さすらい人」でも、ヴァリエーションを重ねる度にテーマが豊穣さを増し、シンプルかつ野太い生命力へと還元されてゆく。多様な時空への境界をファナティックぎりぎりに掠め、空気の振動も巻き込みながら、音の推移が視覚化されるかのようなドライヴ感。曲名どおり威厳たっぷりの終曲「厳父」に到達するころには、音楽の屋台骨そのものが極めて鋭角的で研ぎ澄まされた境地になっている。そうした土台のうえに展開される内部奏法やドローンは、必然のように血の通った存在感を放つ。肯定の音楽、そこへ至るまでの危機感 (クライシス=境界)の数々が回想され、収斂されてゆく整合性。喜多クァルテットのステージは毎回、まさにドラマである。終わりが見えないコロナとの共生における、ライヴ会場という「場がもたらす熱」と、生配信の美点である「ドキュメンタリー性」。その二択が彼らのドラマ生成に今後どのように採り込まれてゆくのか。なぜなら、各々がもたらす「かけがえのなさ」は、趣を異にするからだ。(*文中敬称略)


<関連リンク>
https://www.naoki-kita.com/
http://kitamura.a.la9.jp/
https://synthax.jp/RPR/mieda/esperanza.html
https://www.facebook.com/kazuhiro.tanabe.33?ref=br_rs

*ピアニストの林正樹が企画した公園通りクラシックスにおける生配信の取り組みについては、横井一江氏のコラムで紹介されている。
https://jazztokyo.org/monthly-editorial/post-54984/

伏谷佳代

伏谷佳代

伏谷佳代 (Kayo Fushiya) 1975年仙台市出身。早稲田大学卒業。幼少時よりクラシック音楽に親しみ、欧州滞在時 (ポルトガル・ドイツ・イタリア) に各地の音楽シーンに通暁。欧州ジャズとクラシックを中心にジャンルを超えて新譜・コンサート/ライヴ評、演奏会プログラムの執筆、翻訳などを手がける。

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