#1210 幻視者たちの饗演
And the music continues to evolve vol.7 “Last Exist”

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text by Kotaro Noda 野田光太郎

3月13日(日) 東京・阿佐ヶ谷 yellow vision

And the music continues to evolve vol.7
“Last Exist”

1. 斉藤圭祐(アルトサックス)+清水亮司(ドラムス)

2. 山澤輝人(テナーサックス、フルート)+高橋直康(エレクトリック・ベース)+清水亮司(ドラムス)

3. 鈴木美紀子(エレクトリック・ギター)+レンカ(ダンス)

4. 山澤輝人+斉藤圭祐+鈴木美紀子+高橋直康+清水亮司

2022年3月13日。場所はライブハウス「yellow vision」。客席は埋まった。最初の出演者は腕利きドラマーの清水亮司、そして正式なライブとしてステージに上がるのはこの日が初めてという、若手アルト・サックスの斉藤圭祐のデュオ。サックスはよく通るクリアなトーンで、鋭く切りつけるようなアタックから野太いブレス、特殊な奏法によるダーティーなサウンドまで、本能のおもむくままに見えながら、巧みに使い分けている。凶暴なまでの激しさは阿部薫を、流麗かつトリッキーな機知はジョン・ゾーンの色濃い影響をうかがわせながらも、コピーではなく独自のスタイルをすでに確立しつつある。勢いで圧倒するだけでなく「おいしい」フレーズをも随所に織り込んだプレイは、19歳とは思えないほどの練達ぶりだが、相手が何者であるかなど気にもかけず、ちゅうちょなく真っ向勝負を挑んでいく姿勢が清々しい。

迎え撃つ清水はこの数年で一段とスケールを増した。圧倒的なパワーがありながら、ブラシワーク、シンバルを手でミュートする手法など、ニュアンスに富んだ繊細な表現にも心を砕いている。瞬間で相手の音に反応し、即座に応酬する勘は抜群。相手に合わせるのでもなく、力任せに張り合うのでもない、感情も肉体も知覚も美意識も渾然一体となった力の場、そこから自ずから湧き出る演奏がそのまま共演になっていく。

ふと、アルトがスタンダードか何かの甘いメロディを呟き、おやと思わせるが、リードが割れたか何かで斉藤が外れた合間が、巧まざる絶妙なインターバルとなり、空隙に乗じて清水に訪れたインスピレーションが、タメの十分に効いたブラシのドラムソロとなって輪になって広がる、そこへ刃を差し込むように入ってきたサックスに呼応しての、清水の千手観音的な乱れうちが、まさに神業。息を呑む瞬間が過ぎり、得たりとばかりに呼応して縦横に弧を描きのたうち回るサックス。丁々発止、両者火花を散らして一歩も退かない展開が続く。単純なパワー比べではなく、こういう駆け引きの綾があるバトルは大歓迎だ。まさに驚異の新人の登場である。

続いては再び清水のドラムに、山澤輝人のテナーサックスと高橋直康のエレクトリック・ベースを加えたトリオ。山澤はのっけから血反吐を吐いて死ぬんじゃないかと思うほど激しいブロウ、聴衆の背筋が凍り、先ほどのデュオの鮮烈な印象すら一変させる。フレーズの断片すら感じさせない破壊的なサウンド。山澤は音がデカいとか激しいということだけでなく、震動を効率的に音に変えることができ、またその震える空気の磁場を単に拡張しようとするのではなく、繊細に加工して見事な造形物に彫刻する技を持つ。しかしここではエレキベースの音域がその制空権を握っているため、フレージングでの勝負が重要だ。

高橋はサックスの咆哮にも何食わぬ顔で耳鳴りのようなノイズの釣り糸を垂れ、底なしの罠を徐々に膨張させていく。アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような軋轢を推進力とするドリフト走行は、並走する二台の電車の車窓を通して覗く窓外の景色のように、輪郭をゆらゆら歪めながら加速していく。清水は先ほどの俊敏さとは趣を変えて、ぐらぐらと煮えたぎるマグマのようなつぶやきを叩きだす、つまりサックスとベースの中間位置を狙う。この辺りの判断力もさすがだ。エネルギーがいったん飽和に達したかと見定めると、高橋がパターンを組み替え、壁紙を塗り替えるように場の空気を再編する。ドラムはそこへぴたりと当てはまるリズムをぶつけてくる。高橋と清水は数年ぶりの共演らしいが、そうとは思えない息の合ったコンビネーションだ。

山澤が「歌」の断片をこぼれ落として、そこから情念をしゃくりあげるかのような、おそらく得意とするパターンを繰り出し、清水が巧みに句読点を付して焚きつける間、高橋は音を一切止めて沈黙している。そして突然、いささか感傷的に歌い上げられた人間味を飲み込むような、漆黒の無機質空間を現出させる。このわざとノリを外したようなコントラストが見事だ。凶暴さを増したサックスが相手のフレーズのしっぽをつかみ、記憶の断片を折り込みながら、ここぞとばかりに猛然と音のアクション・ペインティングをぶちまける。やがて、さしもの狂宴も終わったかと思う刹那、タイコのふちを叩く清水のリズムの遊びに応じて、高橋がブーツィー・コリンズばりの変態ファンクを繰り出すと、山澤もこれに合わせてなたを振りかぶるようにサックスから奇声を放つが、ノリを合わせてもネジが外れた暴走はまったくファンキーに聴こえないのが面白い。最後はリズム・セクションが示し合わせてハードコアなサウンドを浴びせかけ、天に向かって逆回転で巻き上がる豪雨のごとき空間を背後に、サックスの悶絶する絶叫は果てた。まるで重装歩兵のドラゴン退治である。

ここで趣を変えてレンカのダンスと鈴木美紀子のエレクトリック・ギターのデュオ。と言ってもステージは狭い。どんなダンスが行われるのか?薄暗がりを震わせてギターがチクタクと水底に沈む時計のように時を刻み始める。地下水道的なサウンド。子宮の奥から自分自身を産み落とすかのようなレンカの動作はエキセントリック。鈴木はアンダーグラウンドな音響を幾重にもポリリズミックに重ね合わせながらも、時たまアッケラカンと弦をカッティングし、開放的にロックしたフレーズでダークな流れを切断して見せる。狂った操り人形のようなレンカの強迫神経症的な反復動作が、見事に音楽を形象化していく。指先に表情があり、顔面にアクションがある。それらは系統化された技術の集積というよりも、感情の昂りが引き起こす身体反応を拾い集めて、目まぐるしくカットアップしているかのようだ。喜・怒・哀・楽の百面相みたいだが、それは喜怒哀楽のいずれもが踊り手に取って「偽」であり、演じられたものだから。と言ってもシアトリカルな表現ではなく、いうなればこれは闇雲な生命力を引き出すための儀式の一種ではないか。ゆえに、彼女には踊りと演技とパフォーマンスの境界が根本的にはないような印象を受ける。

レンカの上昇する熱源を感知した鈴木の指がネックをはい回り、なでさすり、湿り気を帯びたメタリックな音響が微光を放つ。午前零時のごときフィードバックの冥府の鳴動から、ストレンジなメロディーへ、そしてまたつっかえながらはじけ飛ぶリズム感覚は、熱したフライパンの上を滑らかに徘徊する水滴のように、予期を裏切ることで期待を実現する。その痙攣的な瞑想はいつものように流れ星の降り注ぐ幻視へとは浮上せずに、邪悪な囁きに耳を棲ませたままだが、爪弾かれるフレーズの欠片は必ずしも地底へ逼塞せずに、何ともいえぬ抒情をたたえてもある。届かない何かに手を伸ばすレンカのしぐさは、片足立ちの不安定さを、肩を回す動作により、存在のあかしとしてのあがく意志に変換する。

この踊り手はエロス的な肉の過剰さからタナトスを呼び起こす「のではなく」、むき出しの平板さ、リアルな貧しさ、痩せさらばえた肉体をあくまで起点に、骸としての存在の飢えを露出させる。生起し鬱積した前言語的感情の束は、己を含めたあらゆる物象を嗤い哂う「驕」から、忘我の境を求めて「狂」へ、両手に抱えた生命の残骸を天へと投げ放ち、閉ざされゆく天国の扉へと殺到する死後の疾走なのかと思わせる足踏みは、音楽と相まって奇妙な自主映画の一場面をつなぎ合わせたかのような、荘厳なドラマだった。

最後は五人の楽器演奏者が一緒に演奏する。山澤はフルートに持ち替え、草深いフレーズを吹き込むと、応じて斉藤のアルトサックスが疾走し始める。ベースがシンプルだが的確なラインを立てる。ギターが幻想的なサウンドの霞を放散し、ドラムスが加速と減速の数知れぬ波を沸き立たせる。壮大なスケールで演奏が動いていく。フルートとサックスの駆け抜けるジャジーで勇壮な調べと、ギターとベースの奈落の底へ引き込むようなスタティックでサイケデリックな空間が対蹠的で、そこを上方斜めからドラムが串刺しにする布陣。斉藤のバイタリティとメロディ・センスがすばらしく、足でサックスをミュートするようなトリッキーな奏法も違和感なく使いこなす。それをアフリカ的な?精神の解放へ導いていくかのような山澤のフルートも懐が深く、味わい深い。この両者の流れを意識しつつも、同時に別種の音楽を展開していくかのような鈴木と高橋のスタンスが、広大な聴取経験の可能性をもたらしている。清水は果てしないほどのエネルギーと柔軟さでサックスをかき立て、同時にベースの動きを肉付けし、ギターのサウンドを鋲で打ち付けていく。アンサンブルでもなければ、バトルでもない。お互いを無視するわけではなく、だからと言って音のキャッチボールみたいなことでもない。もちろん特定のジャンルに分類できないが、過去の音楽の豊かな記憶から育まれたイマジネーションが脈打つ、スリリングで創造的な瞬間が相つぐ。

とりわけ鈴木の茫洋としてつかみどころがないようでいて自己主張の強いサウンドは、その大音量も相まってステージに異常な緊張感と得体の知れなさを生んでおり、今ここにある音楽に快楽や感情を超えた何かを、たとえば月のもたらす潮の満ち引きのように悠然とした理不尽さをもたらしている。ハードコア・ロックのわかりやすい暴力性などとは次元を異にする夢魔の世界。そこに飽くまでも食らいついていくサックスの意志の力はすさまじく、己を貫きながらその自己の限界をどこまでも踏み越えていくつもりらしい。しかもベースが一瞬で塗り替える場面転換の術はプレイヤーに安住を許さない。清水の深く揺さぶってくるバスドラ、タメを利かせつつもキレのあるブラシは、絶妙な間合いで自らを鼓舞しつつ、共演者の潜在能力を最大限に引き出す。その静と動のダイナミズムが最後、圧倒的なカタストロフィ―を運んできた‥。

これぞ音の煉獄、補陀落詣でとも言うべき、筆舌に尽くしがたい音楽体験であり、自分が長年探し求めてきた究極のサウンドに漂着した気分だ。youtubeの「野田文庫」チャンネルで動画を公開しているので、ぜひ一度見てほしい。現場で起こったことの百分の一でも感じてもらえたら幸いだ。


野田光太郎(のだ・こうたろう)
1976年生まれ。フリーペーパー「勝手にぶんがく新聞」発行人。近年は即興演奏のミュージシャンと朗読家やダンサーの共演、歌手のライブを企画し、youtubeチャンネル「野田文庫」にて動画を公開中。インターネットのメディア・プラットフォーム「note」を利用した批評活動に注力している。文藝別人誌「扉のない鍵」第五号(2021年)に寄稿。〉

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