#1220 ジャック・リヴェット映画祭
〜音/音楽から迫るリヴェット映画

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text by Haruyuki Suzuki 鈴木治行

 

©︎1974 Les Films du losange

4月にヒューマントラストシネマ渋谷で開催されたジャック・リヴェット映画祭には、これまで日本では劇場未公開だった3本の重要な作品も含まれており、これで日本におけるリヴェット紹介の重要な欠落がだいぶ埋まってきた感がある。ここでは、特に音/音楽に比重を置き、今回のプログラムの作品を中心に、必要に応じてそれ以外の作品にも触れつつリヴェットの映画に迫ってみたい。

今回の5本はほぼ70年代の作品といえるが、リヴェットが最も過激で、しかも実験性と軽やかさが高度なレベルで結合していたのがこの時期なのである。基本的にリヴェットはいわゆるオフのBGMを多用する作家ではないが、例外的なのが、今回のプログラムの中では『北の橋』のピアソラ「リベルタンゴ」の使用だろう。パスカル・オジエがライオンの像に戦いを挑むかの如くバイクで石像の周りをグルグル回るあのシーンは、編集のリズムと相俟って強烈に印象に残る。今回のプログラム以外では『嵐が丘』のブルガリアン・ヴォイスなどもすぐさま思い出されるものの、こうした用法は印象的、効果的ではあるが、従来のBGMの用法の範疇にある。それよりもここで注目したいのは、『デュエル』、『ノロワ』、『メリー・ゴー・ラウンド』における音楽の扱いだ。ちなみにこの3本が今回ようやく日本で劇場初公開された作品なのであった。

この3本は1976年から1978年という近い時期に撮られ、共通点も多い。最大の共通点は、演奏家が映像の中に自ら登場しているということだろう。演奏する音楽家が画面に出てくること自体は普通にあるが、通常はその音楽家も映画内の登場人物の一人である。しかしこの場合は、音楽家は映画の登場人物ではない、そこが異様なのだ。本来はオフの音楽を演奏する存在として姿が見えないはずの音楽家が演技する役者たちの脇で堂々と演奏していて、その姿をカメラは捉えたり捉えなかったりする。通常のBGMはオフとして、音源は映画の空間の外に存在するが、ここではその音源が見えている、即ち、オフなのにインでもあるという不思議な映画の音空間のねじれがそこに出来上がっている。ちなみに演奏者は『デュエル』がジャン・ヴィエネール(ピアノ)、『ノロワ』はロベール=コーエン・ソラール(打楽器)、ジャン=コーエン・ソラール(ベース)、ダニエル・ポンサール(フルート)、『メリー・ゴー・ラウンド』はジョン・サーマン(バスクラ)、バール・フィリップス(ベース)だが、他にも『デュエル』には少しだけ打楽器やアコーディオンも登場し、『ノロワ』にはヴァイオリンやコラも出てくる。音楽自体の方向にも違いがあるが、それは今回は関心の中心にないので(僕が映画音楽において最も関心あるのは音楽本体というより映像と音楽が作り出す関係性にある)メモ程度に簡潔に記すと、『デュエル』はクラシックの素養を土台にしたジャズピアノ、『ノロワ』はフリー即興だがときどき民族音楽に接近する。『メリー・ゴー・ラウンド』はサーマン、フィリップスの無調的なフリー即興。いずれも、映画に合わせて音楽を誂えているというより、いつもの自分のスタイルでやっている気配が濃厚だ。人は、演奏者の姿を一度でも画面上に目撃してしまうと、音楽の音源(=演奏者)の実存が前提となり、その後姿が見えなくなっても音楽が聞こえる度に「この音楽はあの人物が弾いている」という意識が持続し、もう元には戻れない。よって、それ以後はたとえ音楽だけ流れている場面でも音空間はねじれたままだ。

実は『デュエル』と『ノロワ』に関しては、音楽の演奏は役者の演技と同時に行われ、撮影、録音されており、後から録ったり編集されたりはしていない。即ち、ここではまさに役者と音楽家の一度きりのセッションが実現しているのだ。音楽家は役者が演じているそばでその影響を受けながら自分の音を出してゆくが、普段の音楽家同士での即興と同様、彼らが相手の出方に対してわかりやすい一対一対応の反応をするわけもなく、つかず離れずの絶妙な関係性が保たれてゆく。また役者は役者で、そばで行われている演奏を耳にして、演じながらその影響をどこかで受けているはずだ。

『メリー・ゴー・ラウンド』 原題:Merry-Go-Round,
©︎1979 SUNSHINE / INA.Tous droits réservés.

『メリー・ゴー・ラウンド』には他の2本とは一つ決定的に違う点があって、演奏家が映っているのは同じなのだが、彼らは役者と同じ空間にいるのではなく、どこか別の場所(スタジオ?)で演奏している。役者の演技と演奏が同じフレームの中に収められることはなく、両者は別々に撮られ、モンタージュされている。この場合は両者の相互作用はなく、ただリヴェット一人が両方を行き来しながらそれを編集で組み合わせていることになる。これは『デュエル』と『ノロワ』の試みの次なる段階を示しているのだろうか。しかしなぜかリヴェットはこの試みをここまでで止めてしまい、以後演奏家が映画内に存在し続ける映画は撮っていない。

ところで、リヴェットはなぜこういうことをやり始めたのだろうか。それは、彼が演劇をモチーフとする映画を撮ってきたことと深い関係がある。リヴェットは既に処女長編『パリはわれらのもの』においてシェークスピアの稽古を続ける人物を中心に据え、『狂気の愛』でも演劇のリハーサルを繰り返す人々を撮っていた。演劇の舞台においては、音楽家はしばしば舞台上で生演奏する。実際『狂気の愛』でも舞台の上で演奏家が打楽器を叩き管楽器を吹いていた。60年代のリヴェットは、最初主に現代音楽寄りの作曲家と組んだ。『パリはわれらのもの』はフィリップ・アルチュイスとイヴォ・マレクによる、もろに当時のセリエルなテイストの前衛音楽だったし(他のヌーヴェルヴァーグの仲間のデビュー作が次々注目を集めていた中でリヴェットのこのデビュー作がコケたのは、それも一因だったのだろうか・・・)、続く『修道女』と『狂気の愛』の音楽はあの異端の呪術的作曲家、ジャン=クロード・エロワだった。オフの音楽がほとんどなかったと記憶する『アウト・ワン』を経て、その後は即興系の音楽家と組むことが多くなって前述の作品群に至る。そこにどんな心境の変化があったのかは知る由もないが、役者と音楽の間にその場で生成されるフレキシブルな関係に関心が移っていったのなら、音楽を譜面に固定する作曲家から離れ、音楽をその場で生成する演奏家とのコラボ中心になったのは理解できる。

『セリーヌとジュリーは舟でゆく』
 原題:Celine et Julie vont en bateau
©︎1974 Les Films du losange

 

続く1974年の『セリーヌとジュリーは舟でゆく』には直接には演劇は出てこないが、あやかしの館で毎日繰り返されるミステリアスな物語とそれを見る観客、という構図は演劇そのものであり、実際、後半にその構図が出来上がってからは、ドミニク・ラブリエとジュリエット・ベルトは「第2幕が始まるわよ」と言っていた。この映画が凄いのは、更に、観客だった彼女たちが「演劇」の中に参加して物語を改変するという、一段上のレベルに飛躍するところにある。バーのシーンでピアノを弾いているジャン=マリー・セニアは映画自体の音楽も手がけているが、バーでの演奏はその場での生録音だった。セニアはこのシーンでは「バーのピアニスト」役として出ており、映画内の登場人物として何らおかしなところはなかったが、おそらくリヴェットはこのあたりから、登場人物ではない音楽家が映像にも出てしまうあり方の新しい可能性に気づいたのではないだろうか。

 

『北の橋』 原題:Le Pont du Nord
©1981 Les Films du losange

リヴェットの音/音楽に関して語るとなれば、現実音についても触れておく必要がある。『ノロワ』で満月のショットに重ねられる雷鳴、『北の橋』でビュル・オジエが廃線のレールの上を歩く時に轟く雷鳴は、何かが起こりそうな予兆を孕み、見る者に強い印象を残す。解けない謎、意味ありげなシーニュで満たされたリヴェット世界においては、意味性を併せ持った現実音は有効な武器となる。リヴェット映画に頻出する雷鳴は予兆の符牒として提出されているが故に、その後に普通なら続くはずの雨は降らず、雷鳴は回収されることなく観客を宙吊りにする。『嵐が丘』で例外的に雷鳴が雨を招来したのは、この映画がリヴェットにしては物語の強い磁場の下にあったからだろう。似たような音響として、『北の橋』の冒頭以降何度か現れるヘリコプターのノイズも忘れられない。工事現場のノイズもまた時に暴力的なまでに強調される。『北の橋』の終わり近くは工事現場ノイズが支配的であった。この場面は当時開発中だったラ・ヴィレットで撮影されたらしいが、パリ市内を双六に見立ててグルグル回るこの映画において、ラ・ヴィレットは双六の端の郊外として終わりに登場したのだろう。『デュエル』には鳥の声が過剰なまでに強調されるシーンが何度かあって、それはあたかもジャングルの中に迷い込んだかと思しきほどだ。

こうした現実音の使用の極端な例が『地に堕ちた愛』にある。ある屋敷に1週間泊まり込んで演劇のリハを重ねるジェーン・バーキンは、ある部屋の中から不思議な音が聞こえてくるのを耳にする。その音はある時は喧しいまでの鳥の声かと思うと、またある時は海の波音であったり、オーケストラのチューニング音であったりするが、部屋の中を覗いてもそこには鳥も、海も、オーケストラもない。ここでは、音源が存在しないのに音だけが聞こえるという不思議な現象が起こっている。通常、映画の音楽では音源(演奏者)は映画の空間内に存在しないのに対し、現実音の音源は映画の物語空間に属している。然るにここでの現実音は音源が存在しないという特異なあり方を示す。つまりこれらの現実音はオフの音ということになる。ここで注意しておきたいのは、「変な音がしない?」と口にするバーキンにはその音は明らかに「聞こえている」ということだ。オフの音は登場人物には聞こえないというのがセオリーだが、彼女には聞こえている。となるとこれはむしろ「内面的な音」に属すると見るべきであろうが、内面的な音が環境音という特異さがまたリヴェットの独自性を示してもいる。

こうした現実音への関心は、60年代にアルチュイス、エロワなどの現代音楽、ミュージック・コンクレートの作曲家とコラボしたところから芽生えたのかもしれない。『デュエル』や『地に堕ちた愛』では、現実音の強弱は、いかにもフェーダーを上げ下げしていますと言わんばかりに変化し、現実音をスタジオで操作する映画のむこう側の手つきが透けて見える。いや、どんな映画でもそうした操作は行ってるのだが、その手つきがあえて強調されて感じられるということだ。今回はほとんど音/音楽の話に特化したが、ともあれリヴェット映画は面白い。今回、リヴェットの後期の作品群までは再確認する余裕がなかったが、音/音楽に関して後年も何かやっていたのかどうか、またそのうち確認してみたい。

 

*編集部注
ヒューマントラストシネマ渋谷での上映は終了しましたが、現在全国で順次開催中。詳しくは公式サイトをご覧ください。
公式サイト: jacquesrivette2022.jp


鈴木治行 Haruyuki Suzuki  作曲家
東京出身。これまでにガウデアムス国際音楽週間(アムステルダム)、Les Inouies(ボルドー)、Experimental Intermedia(ニューヨーク)、サントリー・サマーフェスティバル(東京)、Experimental Intermedia(ニューヨーク)、Music From Japan(ニューヨーク)その他で作品が演奏され、また NHK-FM、CSラジオスカイ、ラジオ・フランス、ベルリン・ドイツ・ラジオ、DRS2、ラジオ・カナダなどで放送されている。電子音楽をメインとするサイレント映画ライヴを2000年に初めて行い、その体験から映画とは別に音楽だけでもライブ・エレクトロニクス演奏を行うようになった。次回は9月21日にめぐろパーシモン小ホールにて、ベルンハルト・ラング作品と鈴木作品による公演を行う。

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