#1234 池田亮司展「リアリティの分離/融合」(後編)

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text by Yoshiaki ONNYK Kinno 金野ONNYK吉晃

2022年4月16日(土) 〜8月28日(日)
青森県弘前市、弘前れんが倉庫美術館


1)幾つかの先例より

60代以上ならディズニー映画『ファンタジア』は記憶されているだろうか。1940年製作の世界初のステレオ録音の長編アニメーションである(日本公開は1955年)。そして音楽は全て人口に膾炙したクラシック名曲だった(後に新録音の同タイトル作品が公開され、また新曲を加えた『ファンタジア2000』が発表されたから、若い方々ならこちらを思い出すかもしれない)。
台詞のない、そして確かに一部はミッキーマウスが登場するものの、キャラクターの無いアニメーションというのは革命的だったと言える。ウォルト・ディズニーは音楽の視覚化を狙ったのか?それとも音楽と映像の融合的効果を?

動画と音響の融合という意味では、オスカー・フィッシンガーを忘れるわけにはいかない。彼は1920年代のミュンヘンで抽象的な動画や、コマ撮りアニメーションに、多様な音楽、音響を付随した短編を作成した。後にベルリンに移住してポピュラー音楽やクラシックに抽象的な動画をリンクさせた商業的作品を発表している。これはレコードの販売促進を目的にしていた。当時のフィッシンガーの作品がいわゆるサウンドオンフィルムであったのか、蓄音機との連動なのか定かではない。
その後渡米した彼はメジャーな映画会社を渡り歩きながら、クラシック音楽と映像を合体させる方法を練り上げた。そして『ファンタジア』の一部には彼の寄与があったのだが、クレジットから削られている。確かに冒頭の抽象的な映像の流れは彼の作風だ。彼の功績は現在高く認められているが、生前金銭的には恵まれずに亡くなっている。

大友良英は実に多方向性、多作の音楽家である。
初期には即興演奏をメインにして、自作の特殊なギター、そして複数のターンテーブルを同時に用いるDJ的な演奏とサンプリングの奏法を用いていた。それは、広瀬淳二(サックス、自作楽器)とのデュオSilanganan Ingayに聴く事が出来る。
90年、当時の先鋭的ミュージシャンを集合したGROUND ZEROの結成、菊地成孔のDATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN参加、大友良英ニュー・ジャズ・クインテット等で、マイナーシーンでは突出した存在となった。一躍知名度を全国的にしたのは、NHKドラマ『あまちゃん』(2013)のテーマおよび楽曲を担当したことである。彼は90年代から中国、香港の若い監督達の映画に音楽を提供し、2000年以降は日本映画での音楽担当が相当数ある。その経験はTVドラマ音楽でのブレイクにおおいに貢献しただろう。
また、出身地である福島の被災地支援、そして知的障害者とミュージシャン達によるグループ「音遊びの会」(沼田里衣主宰)にも参加して、海外にその活動を紹介している。
そして、ここで強調したいのは、Sachiko Mと開始したデュオFilament(1997〜)である。これはまさに前編で紹介した「音響派」というべき無機的サウンドによる即興を展開している。

ブライアン・イーノといえば即座に「アンビエント・ミュージック」の提唱者にして巨匠と言えるだろう。彼が実験的な活動を開始したのは60年代後半である。70年代、ロックバンド「ロキシーミュージック」への参加を経、三枚の画期的ソロアルバム、そしてキング・クリムゾン総帥のロバート・フリップとの共同作業で、プレ・アンビエントともいうべき様式に辿り着く。70年代後半、英国の同時代の作曲家を中心にOBSCURE SERIESの十枚をプロデュースした。それまで現代音楽に関心の薄かった層に強い印象を残した。
そして遂に『ミュージック・フォー・エアーポーツ』(1978)のリリースによって世界的に知られ、概念としての「アンビエント・ミュージック」、聴きいることも聞き流すことも許容する、サティの「家具の音楽」の現代版を完成させた。
また80年代からビデオ作品を始めとして視覚芸術との融合を一つの方向性として拡張して来た。いつもながら彼のシンプルで斬新なアイデアには驚かされるが、通常のブラウン管CRT画面を縦に置くというだけで全く異質な効果が得られる事を示してみせた。後に縦長画面のディスプレイは一般化した。
彼の活動は次第に視覚的なテーマにシフトしていき、つい先頃まで京都でヴィジュアルかつ音響的な個展が開催され、大好評を得た事も記憶に新しい。

さて、ここまで4人のアーティストを併記してみたのは、今回のレビューにおける私の問題意識の確認ということだ。

2)衰退の様相

90年代、音響派の誕生があり、それは2010年辺りに終焉を迎えたといってよいだろう。
現在もマーカス・ポップ(OVAL)などは個人的に活動しているし、ひとつの様式として完成したとも言えるだろう。しかし完成とは終焉なのだ。

イーノと時期を同じくして池田の個展が開催され、音響派が再評価されるのだろうか。
もちろんイーノは音響派とは一線を画す。彼の音楽(?)は極めて緩慢かつ微細な変化を保つ点で、刺激的な音を点在させる音響派と印象が異なるだろう。しかし始まりも終わりもない、テーマ性のない、あるいは極めて弱いサウンドの構成は近いものがある。
イーノのこの路線は前述した『ミュージック・フォー・エアーポーツ』で完成し、『オン・ランド』(1982)では、それ以上に何事も起こらない音響となる。いわば衰退そのものの表現である。これは当然の帰結だろう。言い換えれば「音楽からの撤退」を示している。
一方、世界の音響派連中が衰退していった理由、それはイーノのアンビエント同様に「抽象化された音響、個々人の能力の差異や不確定性、偶然性を排除した演奏」という事態が、20世紀末までの聴衆の欲した、音楽への熱狂、情熱、情念の発露、感情の昇華といった要素を排除してしまったからだろう。
この傾向は70年代のシンセサイザーのプログラミング化と、パソコンの連動的発展に極めて適合性が良かった。
それは結局、ライブ環境からプライベートな聴取(カーステ、ヘッドフォン)へ、そして電子楽器からパソコンによるDTMへ、そしてスマートフォンというパームトップコンピュータが、音楽のみならず、娯楽、通信、教養、いや生活の殆どを担う世界へと移行した事と軌を一にする。
最も現代に適合した音楽の状況はメディアの中に生きる事である。演奏家が、それは仮の姿に過ぎないと主張してさえも。それはこの文章が、印刷物ではなくパソコンやスマホの画面でしか読まれない事と同じである。

「私的な印象」と断るが、音響派の作品を聴いた後に残る印象は「ああ、やっと終わった」という安堵感であり、これは(演奏の良否は別に)音圧の高いフリージャズ、インプロそしてノイズの聴取後に近い。いや同じかそれ以上だろう。
「音楽は終わった時が一番良い」とは誰かの言だ。また「良い音楽は聴いているうちに寝てしまう」とも言う。確かに上記のスタイルの音楽は聴いているうちに忘我となることがある。ならば彼等の音楽は夢に似て、終わった瞬間に醒めるのだろうか。
この経験は、テクノやミニマルミュージックにも近い事がある。

ちょっと立ち止まり、ミニマルミュージックの歴史を振り返ってみよう。
60年代後半から、米国西海岸の電子音楽探求者たちが、自ら電子回路を作成してきた。ロバート・アシュレイ、ゴードン・ムンマ、デヴィッド・チュードア、アルヴィン・ルシエあたりを挙げておけばよいが、同時期、シンセサイザーの可能性を探っていた一派もあった。モートン・サボトニック、ロバート・モーグ、そしてワルター・カーロスらである。
また、ニューモーダルミュージックと呼ばれた一派は、電子的に明瞭なサウンドのディレイシステムを構築した。これがテリー・ライリー、スティーヴ・ライヒの音楽の重要な栄養素の一つだった。彼等のもう一つの要素は第三世界のポリリズムや旋法音楽であることは疑いない。ラ・モンテ・ヤング、フィリップ・グラスもその初期に北インド音楽の影響を受けている。彼等が後にミニマルミュージックの祖と呼ばれる事になる。
繰り返すが、この音楽は70年代のシンセサイザーのプログラミング化と、パソコンの連動的発展に極めて適合性が良かった。
気がつけば80年代には、周囲のBGMもジングルも、あるいはラジオニュースの背景も、スーパーの売り場も、ゲーム音楽も、ミニマルミュージックの、生活への浸透(壁紙化、背景化)といって差し支えない状況になっていた。
もはやミニマルは実験的でも前衛でもなくなった。ミニマリズムは本来の方法だった「漸次変化の音楽」から、理念を失って日常化した。アカデミックで難解な、そして調性のはっきりしない「現代音楽」というカテゴリーから逸脱し、現代音楽の民主化革命を果たしたと言えるのだろうか。

一方、クラブミュージックシーンでは70年代テクノや、ユーロビートの発展系とも言えるダンスミュージック「テクノ」が主流となった。この背景にテクノポップ、ユーロビートのみならず、ミニマルミュージックがあったのは当然である。DJがライリーの『ア・レインボウ・イン・カーヴド・エア』(1969)をかけたりするのは稀ではなかった。
そして電子的サンプリングやディレイの精度はあがり、かつてのプログレ・ロックの覇者達も、こぞってテクノ領域に参入する。その例をマヌエル・ゲッチング(ASHRA, E2-E4)や、スティーヴ・ヒレッジ(SYSTEM 7, 777)、マニ・ノイマイヤー、コニー・プランク(ともにZero set)に見る事が出来る。
一方、KRAFTWERK、シュトックハウゼンを始祖とするようなジャーマンエレクトロの系統も当然この流れにのっていたが、ひとつの反動が起きる。つまり電子音そのものに帰れ、とでもいうべき主張である。
サンプリング主体のテクノを、フランス流のミュージック・コンクレを源流と考えるならば、電子音自体の無機的構築を信条とするケルン派のテクノを対峙しうる。これを音響派の源流と考えても良いだろう。
彼等はあまりにも娯楽的、快楽的になりすぎたテクノにNO!を突き付ける。その鋭利なサウンド、実は最も日常的ノイズの美を発見した彼らを称賛する聴衆もいたのだ。
池田亮司は、そういう一派から登場した。

前編で書いたが、池田の音楽の基本姿勢はこの40年以上変化していないと言える。多くの音響派は衰退して行った。あるいは再び生演奏や歌への回帰を見せるミュージシャン達もいる。また、ジム・オルーク(90年代のジョン・ゾーン?)やステレオラブ(遅れて来た”NEU!”?)といったアーティストは、多様性そのものを特徴として侵蝕するように活動の範囲を広げた。
そしてイーノ、大友も映画音楽や番組主題曲をやるようになっていった。

何故、そうだったのか。何故音響派は衰退して行く運命にあったか。それは既に書いたように「音楽への熱狂、情熱、情念の発露、感情の昇華といった要素を排除した結果」である。
しかし、その傾向の中で池田は何故活動を継続できたのかという疑問に答える必要が在る。
それも既に分かっている。端的に言えば池田の変化の乏しさに根拠が在る。多くのミュージシャンは、常に新たな手法、響き、総合的に言えばテクノロジーとしてのノヴェルティを求めざるを得なかった。そしてそれは同時に民生化、日常への浸透である。これは資本主義社会における商品音楽として、大衆音楽としての宿命であろう。
しかし池田は、或る意味保守的で、自らに忠実たろうとした。これが誤解だというなら言い換えよう。彼は、そうなる前に自らの音楽様式を早くも完成させてしまったのではないかと。
では何故それが生き残る事を許容したのか。それは次第に価値の上がる骨董品という意味ではないのだ。
(同様の意味で手法的に袋小路的なニッチに入りながらそれを徹底して維持したKRAFTWERKも70年代「テクノポップ」の生きた化石だったのだが)

3)復興か継続か

池田は、新たな戦略としてヴィジュアルなインスタレーションと共に彼のサウンドを併置する事の重要性と可能性に気づいたと言える。
しかし、そのコンセプチュアルなインスタレーションが、それに見合うべき音を欲しての事ではない。事態は逆だ。
池田のサウンドが視覚作品を欲したのである。あるいはその音がリアリティとしての物語性を欲したのだ。
それなくしては、音響派のサウンドは単なる物音、ノイズとして消え行くしかない。
音響が表現になるために、同時代のテクノロジーと現代人の意識・志向性に訴える、新しい物語を、誰もが納得するような神話を欲したのだ。
池田は自らの音響作品が生き残るには、その必然性と根拠を求める必要があった。池田の数少ないインタビュー等を読むと、彼の方法論、いわゆる”Datamatic”を構想する為に多くの最先端科学の現場を巡礼した事が分かる。
ラヴロマンとイデオロギーが後退し、量子論的宇宙と遺伝子解析がその地位を覆った。人種闘争と東西冷戦が終わり、宗教対立と南北問題となった。気候変動、大災害と較差社会が課題となり、マスコミと紙メディアが後退し、インターネット、SNS、VRとAIがヒューマニズムとデモクラシーの脅威となったいま、芸術・表現・リアリティはどうあるべきか。

池田のインスタレーションは、説明がなくても僅かの科学知識があれば理解できよう。しかしそのサウンドには何ら科学的根拠はない。それを視覚素材と同時に接して共感覚を触発された我々は「なるほど、世界の構造とはこういうものか」と思い込んでしまう。この詐術は驚くべき精緻さに裏付けられている事も確かだ。それは作者自身さえも騙されているからだろう。そうでなくてはこの強度は生み出せない。

新ウィーン楽派、あるいは12音主義者達の音楽は「曲の区別がつかない」と批判された。当然である。同じシステムを用いて、調性のない音の列を作ることが基本であり、そこに妙な人間的情緒を持ち込む事は難しい。しかしそれは音楽をリアリティから遠ざけるだけだ。天の星の配置にも、人間は物語をこじつける。12しかない音の列を作り、そこにいかなる物語を配するのか。
それでも12音主義者達は歌曲を、オペラを書くまでに至った(しかも聖書をネタに)。というよりそうしなければ表現は生き延びられなかったのだ。
クラスター手法でスターダムにのしあがったペンデレッキも、作品のタイトルに「ヒロシマの犠牲者に」と付けたがる。しかしこの有名な作品は、作曲の動機や手法と被爆の悲劇は一切関係なかったのである! そして彼もまた聖書に戻っていく。
偶然性の作曲家、ジョン・ケージさえも語りを作品とし、晩年にはオペラ(もどき)に挑んでいる。偶然性と物語、この癒合を運命と呼ぶ。

あるいはまた、先端的作曲家の側から、クセナキスと刀根康尚の場合を考えてみよう。
前者はUPICという独立したシステム(1978)、後者はOMRというプログラミング(1993?)によって直接的に画像を音響に変換して作品化している。その試みはどちらも入力画像を自動的に電子音の刺、マッスとして変換し、放射する。音響派さえも心地よいベッドかソファに感じるような、突き刺さる音像である。

これらは洗練されていくのだろうか。ケルン派の無機質の電子音や、テレミンの不気味な柔らかさが、後にはシンセサイザーの使い勝手に回収されていったように。いや、UPICもOMRもその民生化は極めて考えにくい。
それはハード面の問題ではない。それ以上に、どんなに変換が自動化されても画像と音響は別の次元に在るからだ。両者はシニフェとシニフィアンのように恣意的関係だ。

かつて、ミニマリズムの元祖と自称したトニー・コンラッドは、その代表的映像作品『ザ・フリッカー』(1965)で、公開時失神者続出で物議をかもした。これは全くの闇(クロミ)と白(スヌケ)の二つの画面だけが、交代しつつ、その交替を認知できないほど加速し、また減速して行く、それだけの30分間の作品である。しかしその視覚への刺激は圧倒的だった。この映画はサイレントだった。1998年、彼の来日時に、世田谷美術館でその映像を見た後、私はその残像効果にしばらく呆然としていた。確かにこの体験に音響は全く不要だった。

スタンリー・キューブリック監督は映画『2001年:宇宙の旅』(1968)で、編集終了後、公開寸前でいきなり音楽を全て差し替えた。オリジナルの音楽は全て破棄された。そして彼は、西欧の古典と現代音楽をサウンドトラックに用いた。その画像と音響の驚くべき相乗効果は伝説的となっている。
キューブリックはある瞬間、気づいたのだ。オリジナルな音楽よりも、むしろ全く関係のない音楽こそが、その映像美を、表現を支えることが可能だと直観したのである。

4)池田の未来

私は、池田の個展会場でもう一枚のCDを買った。初めて自作に生身のパフォーマーを用いたことで話題性があったようだ。
池田がサウンドとインスタレーションのパラタクシス(並列)の限界を越えて、作曲家たらんとしている姿を感じる。しかしこれは残念ながら、初期のスティーヴ・ライヒの作品のレベルを超えているとは考えられない。あるいはアルヴィン・ルシエとかを意識しても居るだろう。
これらは「作曲家・池田亮司」にとってのエチュード段階なのだろうか。

パフォーマー(演奏者)を用いるということは、明瞭に始まりと終わりが在る。近年「AIが即興演奏をしている!」というジョークのような実話が話題となった。それは可能であり驚く事はない。
つまり初期条件を与え、イディオム、クリシェ、特定のサウンドを任意に組み合わせるアルゴリズムを与えればよい。しかしここには始まりの、そして終わりのモチベーションが存在しない。つまりそれは精神が不在の即興モドキ、自動演奏なのだ。
その意味では、ある種の自動楽器、ゲーム音楽、そしてサウンド・インスタレーションも音楽ではない。無限に繰り返されるテープループである『ミュージック・フォー・エアポーツ』も音楽ではない。ラ・モンテの「永遠音楽」は土台無理な話であるが、その観念が理解できる以上、一種のロマンなのである。

池田の『ミュージック・フォー・インスタレーションズ』を家で聞き直した。
家で聴く池田作品はさすがに会場の印象とは違う。やはりあの空間であの音圧で、圧倒されなければ、お土産物になるのか。しかし、寝しなの枕元で微かな音で聞いても、バッハはバッハとして素晴らしく聞こえるのだが。

池田は最先端の科学知識と技術を取り込むことを自らに課している。
知られる限りのヴィジョンから、データ化されるヴィジョン、そしてその再編集と投影。
結論から言えば、彼の音と画像は本来別物なのだ。我々がその関係を誤読する、誤解する。それが池田の手法である。画像と音が同時に存在していることに関係がなく、根拠もない。この不在は詐術であり、それこそが、それゆえに一つの表現、リアリティ足り得ている。あるいはこれをも芸術という。

疑問:ワーグナーや、ヴェルディがその楽劇、オペラと別個に音楽として聴かれる事に違和感は無い。むしろ世界中でどこでも『トゥーランドット』や『ヴォツェック』を聴いている人はいるだろう。
しかし、歌舞伎や能楽や人形浄瑠璃が、その上演と切り離して聴取されることはどれだけあるだろうか。
この差異は一体なんだろうか。

芸術におけるインタラクション(相互作用)は、インターサブジェクティヴィティ(間主観性、共同主観性)たるか。これは双方向性アートとどのように関連するだろうか。シミュレーティヴな相互作用こそが鑑賞であるなら、まさにVRはそれに近いと思うかもしれない。しかし実はVRは与えられた枠組みだ。
人が見ないと、そこにある絵は作品にはならない。他者性があって初めて作品、アートは成立する。
音はどうなのだろう。聴く人が居て音楽になるといえるのだろうか。作品を介して孤立した個が相互作用するとき、これは作品によるコミュニケーションといえるのか。
芸術とは、作品とは、貴方が発見すべき何物かであり、設定された枠組みに入る事ではない。
最先端を任じるならば、美術館とか個展はもう存在意義とか様式とかを革新しなければいけないだろう。それはもうマーケットでも展示場でもない。

初期CGは今ではノスタルジーでしか楽しめない。
しかしフィッシンガーだけでなく、ヤン・シュヴァンクマイエルや、ブルース・ビックフォードの手作り映像は、まさに物質に生(アニマ)を吹き込んだ、すなわち本来の意味で「アニメーション」という印象を残す。
先進的な人々は現状の最先端で努力する。それは大事なことである。またそうやって古代の先進技術が遺した原初的なヴィジョン、イメージは何千年経過しても我々を圧倒するものがある。
もし、VRが最先端だというなら、この仮想空間というか、サイバースペースに関しては、やはりウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』(1984)を嚆矢とするだろう。彼はこれを書いたとき、パソコンを持っていなかった。
1995年、私はハッブル宇宙望遠鏡(これもジェームズ・ウェッブ望遠鏡に取って代わられる運命)による、星の生まれる深宇宙の構築画像を見た瞬間、キューブリックが『2001年』で1968年に描いてみせた星々の誕生のイメージに見事に重なっていることに驚愕した。
芸術家の想像力は光速を越える。

アーティストの役割が、もし人間世界のヴィジョンを先取りし、そしてまたそれを遥か未来にまで遺す事によって、我々の生きた時間の意義を再確認することにあるならば、池田はどこまでそれをできるだろうか。
あるいはまた池田も音楽の自己生成を考えるだろうか。
デヴィッド・チュードアのプログラミングによる音楽のオートポイエーシス、オヴァルのネット上ソフト(プログラム、アプリケーション)としての作品、イーノ的アナログ循環/反復(ループとディレイ)、等々。
一体、我々は何を以て、ある音響を音楽と呼ぶのだろうか。そこにはまた、ロマンチシズムや神話やイデオロギーの復権が必要悪なのだろうか。しかしまた、そうでないなら、我々は自己欺瞞、幻想、欲望のなかにだけ、芸術や表現の根拠を持つ事になるのか。

アクション・ペインティングの天才、ジャクソン・ポロックはその初期にネイティヴアメリカンである、ナバホインディアンの「砂絵」という原初的絵画に衝撃を受けた。そして彼は上下左右の方向性を定めない、そして多層的な、オールオーヴァー画面を作り上げた。
それはいわば音楽における、ノイズ・ミュージックである。
そしてポロックは行き詰まった。

人が死ぬように、音楽は終わらなければならない。(了)

前編:
https://jazztokyo.org/reviews/live-report/post-79446/

https://www.hirosaki-moca.jp/exhibitions/ryoji-ikeda/

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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